◇新月の夜◆
とうとうその日がやってきた。寝室でそわそわとしていたエルトリーゼはやがてそっと部屋を出て、人目を忍んで中庭の近くまでやって来た。
今日に限ってアヴェルスは仕事が長引いているようで、遅くまで戻って来なかった。あるいは、もう何も言わないという言葉どおり、エルトリーゼの自由にということなのかもしれない。メイドも騎士も誰も咎めないところを見ると、その可能性が高い。
宵闇に包まれた中庭からは、淡い光の粒子がふわふわと飛んでくる。こんなことは初めてだ。
「これが……」
見張りも誰も居ない中庭に足を踏み入れて、中央へ向かうと確かに湖があった。淡い光の溢れる湖が。
「と、飛び込めばいいのかしら……?」
そこでふと、アヴェルスの憂いを帯びた顔を思いだす。
まさか、ありえない、アヴェルスはきっと自分が居なくなればせいせいしたと思うだろう。確かにスキャンダルではあるが、それと引き換えに彼は自由を手に入れられる。
意を決して、エルトリーゼは湖に近づいた。
そこから先の意識が、ない。
――一方、アヴェルスはその様子を書斎の窓から眺めていた。
エルトリーゼの見張りも護衛も下がらせた、彼女は今日あそこへ行くだろうと分かっていたから。邪魔をする必要もない。
もとよりエルトリーゼという少女は縛りつけておけるほど従順な存在ではないのだ。
彼女が自分の意思でアヴェルスの傍に居ることを望まない限りは、何もかも無駄だ。
「よいのですか? 殿下」
困惑したような顔をしているレディウスに、アヴェルスはフンと小さく鼻を鳴らす。
「あいつに任せるよ」
「……僭越ながら、殿下のお妃様が務まるのはあのかただけかと思うのですが」
「何それ、俺のような性格の悪い男に付き合えるのはああいう性悪だけだって?」
アヴェルスが茶化すように言うと、レディウスはため息を吐いた。
「分かっていらっしゃるのに茶化すのはいかがなものかと」
「無駄だよ、エルトリーゼは自由だ。俺と違ってね」
それ以上の問答は無用だというように仕事へ戻るアヴェルスに、レディウスは物言いたげな顔で、けれど唇を噤んだ。
◇◇◇
セツナ・ドウジマとして目をさました。そこは交差点の真ん中で、赤信号が見える。
この景色には覚えがある、バケツをひっくりかえしたかのような大雨、エルトリーゼ……セツナは慌てて交差点を渡り切った。その直後、赤信号を無視して車が突っ込んでいく。
「……っ、本当に」
水面に映った自分の姿……金色の髪は茶色に、水色の瞳は黒に。
震える手で傘を握り直した。そして、家に帰るより先に彼女は別の方向へ足を向けた。
ここからだと少し遠い、赤い屋根の家に着くとインターホンを押す。
しばらくして、黒の短い髪に青い目の青年がドアを開けた。
「はい? って、セツナ!? どうしたんだ!?」
その顔を見て、安堵と懐かしさが込みあげてくる。
「シ、ヅル……あの、その、私……」
「雨ひどいだろ。いいから、あがれよ」
彼に手を引かれて玄関に入ると、シヅルが心配そうにセツナの頭を撫でた。
「いったいどうしたんだ? こんな時間にこんなとこまで一人で……」
「その、私、あなたに……言いたいことが……」
焼け付くような胸の痛みがあった。きっと、シヅルに逢えば安心できると思っていた。それだけだと思っていたのに、脳裏を掠める面影がある。押し寄せるのは罪悪感と、かすかな後悔。
「言いたいこと? あぁ、週末の花火大会のことか?」
言葉がうまく出てこない。優しく微笑むシヅルを見ていると言葉が引っかかってしまう。
さようなら。という、それだけの言葉が。
「そんなの、電話でよかったのに。あ、飯でも食っていくか?」
「ちょ、ちょっと待って、シヅル」
ここに長居するつもりはなかったのに、腕を引かれて家の中へ引っ張り込まれる。
「うち、今日親父もおふくろも留守なんだよ。だから、その……できれば、おまえと一緒に居たいな」
ここは仮想現実だ。それでもこれは、あったかもしれないもう一つの可能性なのだろうか。
セツナは躊躇った、今の自分はすでにセツナではなく、エルトリーゼでもあるのだ。
「ご、ごめんなさいシヅル。今日ここに寄ったのはその……たまたま近くを通りかかったからで、家に帰らないといけないの」
「そう、なのか? 残念だな……」
結局、セツナは「さようなら」という一言を彼に告げることができなかった。
自分がどうしたいのかもはっきりしていない、アヴェルスから逃げたいのなら、この世界に留まり続ければいい。シヅルと共に仮想の世界とはいえ生きていける。
『もう少し……傍に居てくれないか』
ふと、脳裏に蘇るアヴェルスの言葉。けれど、それが嘘か本当か分からない。
(もう少し、もうしばらくのあいだ……)
自分がどうしたいのかはっきりするまででいい。もしもこちらに残ろうと思うのなら、それでもいいだろう。
あるいは、アヴェルスたちの居る場所に戻る決意を固めるのかもしれない。
◇◇◇
翌朝は晴天の空だった。嵐が過ぎ去ったあとかのように、眩しい夏の陽射しが窓から入ってくる。
セツナの部屋で目をさますのは不思議な気分だ。もう何十年も帰っていない我が家、そして本来なら、二度と帰ることのない家だったのだから。
ともかく、この世界に来たからには学校に行かなければならない。セツナは制服に袖を通し、外に出た。
「よお」
すると、そこにはちょうど通りかかったのか見慣れた幼馴染の姿があった。
「ナツ、めずらしいわね、こんなに早くに居るなんて」
目深にパーカーのフードをかぶった青年、金に染めた長めの髪がフードの隙間から流れている。顔自体はよく知らないが、一学年下の腐れ縁でもある青年だ。
子供の頃から同じ学校に通ってきて、高校も同じ。家も近所だ。
「おまえは朝練?」
「ええ、そうよ。あなたも何か部活動をすればいいのに。帰宅部なんてもったいない、運動神経も頭もいいんだから」
「余計なお世話だ。部活なんて面倒でやりたくないね、毎朝毎朝、家を飛び出していくおまえの気がしれないよ」
セツナは弓道部だが、ナツは帰宅部だ。彼は昔から部活動に意欲的ではない。というより、なんでもそつなくこなすくせに何にも熱意というものがないのだ。
そういう意味では多少妬ましい。弓道だって、こんなに練習しているセツナよりナツのほうが上だろう。今までも何もかもそうだった。
「毎朝毎朝、ホームルームの頃になって平気で教室に入ってくるあなたのほうが私は不思議だわ」
「慣れたろ」
「ええ、私だけじゃなくてみーんなね! じゃあ、私急いでいるから行くわよ」
ナツに手を振って走り出す。ああ、なんて懐かしい生活だろう。
ドレスなんて似合わないものを着て、お茶会だの貴族の勉強だのに奔走していた頃とは大違いの充実した生活だ。
いや、エルトリーゼとしては好評だったのだから、ドレスも似合っていたのだろうか? それにしても、セツナという姿を覚えている自分には違和感のあるものだ。