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プトレマイオスの廃宮

作者: 桜町院熾雪

いつの時代の、あれは何という国だったろうか。

その王国は遥か昔に潰え、今では誰一人としてその地の正確な場所を記憶していないという。

住む者を欠いた、忘れられた太古の国――。

しかしこんな伝承もあった。

「その国の棄て去られた廃宮には、いまだ一人の巫が暮らしているらしいのだ。」と。

これは廃墟と化した城に独り暮らす巫女エズメのお話。




※誤字脱字等、御座いましたらご報告願います。

※ご意見・ご感想等、お待ちしております。


 どんな山奥にでも、それなりに謂れのある廃屋というものはあるものである。

その山奥にも、もう人がいなくなって久しい廃城が朽ち果て、時を止めたまま残されていた。

 城が手放されて、どれくらいの年月が流れたのだろうか。定かではないが、その廃墟にはエズメという名の巫が独りで住んでいた。

 人里離れた奥山を幾つも越え、薄暗い森のそのまた奥、深い深い山奥にあるその廃城に、エズメはたった独りで住み続けていた。幸い城のそばには大きな湖があって、そこから八方へと大小の川が流れており、人一人が食べていくだけの作物ならば十二分に育てることができた。何ということはない、エズメの体躯は齢十四、五の少女なのである。

 幾ら時が過ぎ去ろうとも、エズメは一向に年を取る様子がなかった。

いつまでも年端のいかぬ少女の姿をしたままであったが、当の本人はもとより、そのことについて関心を寄せる人間はそこにない。その廃墟はエズメだけの城であり、宮殿であり、そして神殿なのだった。

 巫の一日は、祭殿の掃除とともにはじまることが常であった。

 城内は広く、無限にも等しい数ある部屋のすべてをエズメ一人だけで清潔に保つことは不可能に近い。

柱廊のほとんどは四方の森から伸びる蔦に沈み、最早踏み入ることのできぬ建物が大半だったが、かろうじて祭殿付近の荒廃だけは食い止めているといった状態であった。

 今朝も夜明け前に目覚めたエズメは毎朝のように、殿内の塵を払い、祭壇を水拭きして奇麗にする。少しでも手を抜くとあっという間に手に負えないことになってしまうので、せめて祭殿だけはと毎日欠かすことなく清めていた。

(これでよし、っと……)

 城内の広さもさることながら、この祭殿の広さにはさすがのエズメも時々、辟易してしまうことがある。優に千の人の子が入ろうかといったほどの巨大なこの祭殿に、かつては文武百官に至るまでを残らず収めたのであろうが、まったくもって掃除するだけでも一苦労である(身体は若いままでも精神は年を食うのだろうか、最近やたらと溜め息が出る)。

いったん自室に戻って沐浴をすませると、いよいよエズメはきちんとした巫装束に着替えて、再び祭殿に戻ってきた。

祭壇場の前に立つと、おもむろに一段一段、その階に片足をかけて登っていく。やがてすべての階段を登り終えると、エズメは目の前に建つ祭壇のそばまで歩み寄り、そうして静かに跪いた。

「懸けまくも畏き――」

 箱庭と、この箱庭に住まうすべての人の子に祝福があるようにと創造主に乞い願う。他にも幾つかの嘆願の祝詞を奏上し、続いて場を清めるための浄化の祝詞を奏上し、三度、祭壇に向かって頭を垂れて、エズメはゆっくりと立ち上がった。

「ふうー……」

 一つ。深く長く息を吐くと、次の瞬間、エズメは静かに舞を舞いはじめた。

 観る者もなく。奏者の囃子もなく。また、巫が歌を歌うこともなく。

 エズメは自身の発する息遣いだけを感じ、また聞きながら、ただ一心不乱に舞を舞うのだった。

 創造主がこの箱庭を造った時、エズメの魂も作られた。あらゆる人間がそうであるように、主は生きとし生けるすべての魂を前もって準備していたのである。

 あらゆる人間がそうであるように、エズメに与えられた役割は巫として創造主と意識を交わすことであった。主は時々、この箱庭からいなくなる時があったから、それはエズメにも、また他の人たちにとっても都合が良かった。

エズメはこの世に生を受けて以来、もうずっと、朝、昼、夕と日々三度、毎日この舞を舞っている。主に未来永劫、巫でいるようにと告げられてから、この三度の舞を欠かしたことは一遍たりともない。

 エズメは舞い続けていた。

 やがて、舞踏は最後の件に差しかかり、エズメはこれ以上ないくらいに意識を全身の筋肉へと集中させた。

 すべての所作が終わると、エズメはもう一度、祭壇に向かって深々とお辞儀をし、中腰の姿勢になってそのまま階のそばまで後退した。伏し目のまま姿勢だけを直して階段を降りようとしたその時、不意に誰かの気配を感じてエズメは視線を上げた。

「…………」

「…………」

「………………」

「………………」

 暫くの間、祭殿内に沈黙が流れた。

「……おかえりなさい」

 何か言わなければなるまいと思い、何とか口を開いたのだが、出てきた言葉はそんな場違いなものだった。しかし、それほど間違った選択というわけでもない。

「……あ、ああ」

 若い旅装の青年は、幾秒か遅れて巫のそれに答えた。






 男はミカゲと言うらしかった。

 前世の記憶を辿って、ここまでやって来たらしい。

創造主はすべての魂に、生まれ変わる度その記憶をすっかりと捨ててしまうように命じたはずなのだが、こういったことは時折起こりうる。

 面白いことに、ミカゲは前世の名もミカゲと言ったのだそうだ。かつてここの王宮で、天文寮の神官として働いていたらしい。そして今度も、何とかという国(忘れた……)の王宮で天文寮の神官として働いているという。因果なものだ。

「ごめんなさい。まったく憶えてないんだ、私……」

 何せ髪の数ほどの年月を生きてきたのである。幾ら年を取らないとはいっても、それ以外は普通の人間たちとさして大差ない。記憶力も抜きん出て得意というわけでもなかったし。

「気にしなくていい、姫さま……ああ、いや。すまない。昔、天文頭さまがよくいっていたから。つい……」

 エズメの知る限り、歴代の天文頭の中でエズメのことを「巫さま」ではなく「姫さま」と呼んでいた人物は一人しかいない。初代の天文頭だ。エズメがまだこの国の王位継承者で王女だった頃、身の回りのお世話をしてくれていた女官の子で、彼からは良く読み書きを教えてもらっていた。親しい人間の中では一番の長生き者だった。酒を飲み交わしたこともある。

「いいよ、好きに呼んで。私も、人とお話しするのは久し振りだから、ちょっと言葉が変なところがあるかも」

「さし当たっては特に違和感はないな。多少、古代ラチウム語に近い発音もありますが。……いや、うん、それよりも、問題なのは俺だな……」

「……みたいだね」云いながら静かに頷いてやる。

 エズメはミカゲの顔色を観察した。少し青いように思われる。口調に混乱は見られるが、それほど気にすることもあるまい。

 ちょうどその時、暖炉のそばの薬缶がしゅんしゅんと音を鳴らしたので立ち上がる。自らが見に行こうとするミカゲを手で制して、エズメは湯加減を見に暖炉の方へと歩み寄った。

 エズメが日常使っている居室はたいていの物が揃ってある。

 一通りの家具類は勿論、水屋もあるので食事も取れるし、粗末だか執務用の机と椅子もある。一つ前に使っていた部屋は傷みが激しく、建物全体が荒廃してきたので少し前に捨てた。今の部屋で何代目だろうか(いちいち数えてないけど)。

「飲み物っていっても、薬草茶しかないけど」

 水屋横の戸棚から目当ての茶葉を取り出し、木のコップにそれを入れて上から白湯を注ぐ。途端に爽やかな薬草の香りが空間全体に広がる。

「辛そうだね」

 ミカゲの前に薬草茶を出して、エズメも元も場所に座り直した。「記憶が混乱してるんだ。そのお茶で、少しは気分が良くなればいいんだけど」

「すまない。ありがとう、ありがたく頂くよ」

 云いながら、ミカゲは出されたそれに一口、口をつけたが、一瞬その眉間に皺を寄せたのをエズメは見逃さなかった。きっと初めて口にしたのだろう。

 人里離れた奥山に長年独りで暮らしていれば、たいていのことは何でも自分一人でできるようになる。エズメは年を取らなかったが、そのことと病にかからないこととはまた別問題のようで、たとえ高熱に魘されようとも独りで対処しなくてはならない。自然と医術や薬草学の知識は身についてくる。

 城には医術書の他にも、創造主が残していった学術書や奥義書がたくさん残っていたし、エズメにさえ解読不能な古書もあったので、気が向いた時などはそれらの解読に時間を割くこともある(おそらくは余所の箱庭の言語なんだろう)。

「ちょっと苦いかな。でも、爽やかでしょ?」

「……ちょっと、か?」

 さらに一口啜って、「だが、うん。だいぶ落ち着いてきた」

 エズメは小さく微笑んで見せて、自身もコップの中身を数口啜った。コップを手に椅子から立ち上がると、そのままミカゲの脇を通って執務机の方へと歩み寄る。

「お、おい……」

「なに?」

今朝あった出来事や行ったこと、それらについて思ったことなどを自身の日記帳に書き記しつつ、エズメは耳だけをミカゲの方に向ける。

「俺は、これから……どうすればいい?」

「と、いうと?」ペン先にインクをつける。

「俺は、何をすればいい」

「何かしたいの?」しまった。単語の綴りを間違えた。

「分からない。ここに来れば、何かが分かるかと思って……」

 そこから先の言葉がなかったので、エズメは聞き逃してしまったのかと思い顔を上げた。ミカゲを見ると、じっとこちらの様子を凝視していたらしかった。

「あなた、神官でしょ? 神さまにでも訊いてみたら」

「……冗談はよしてくれ。俺たちの神は死んだんだ」

「死んでないよ、出ていかれただけ。そうじゃなくて、今お仕えしているところの神さまに、って意味だよ」

「それこそ冗談。俺はただ、学を身につけたかったんだ。王宮に入ったのは、ただそれだけだよ……」

「ふーん。貴族にでもなりたかった?」

「馬鹿言え。これでも爵位持ちだぞ」

「……そうなんだ」

欠伸をごまかすためにエズメは茶に口をつけた。「…………」それきりミカゲが黙り込んでしまったので、エズメは再び執筆作業に戻ることにした。

 ミカゲはもう、何も言葉を発しはしなかった。しばらくの間は、時折ミカゲの視線を感じることもあったが、やがてそれもなくなった。

「お昼の祭儀に行ってくるね。それがすんだら、食事にしよっか」

 切りの良いところでペンを置き、祭殿に行く準備をすませる。

 エズメが部屋を出た時、ミカゲは書棚の古書を熱心に黙読しているところだった。






 昼食の時間は、気まずい雰囲気にはならなかった。

 エズメが祭殿から戻ってくると、ミカゲはもう陰鬱そうな顔はしていなかった。

「エズメ。文字を教えてくれ」

 固い丸パンにかぶりつきながらミカゲは云った。

 エズメはあまりの変わりように心底驚きつつ、

「う、うん。それは構わないけど」静かにスープを啜った。

「さっきざっと見てみたんだが、医術や兵学の書以外にも、自然界や宇宙に関する書物もあった。今日中に、あと何冊かは読んでしまいたいんだ」

「そ、そうなんだ」

 城内のたいていの書物はだいたい頭に入っている。だから別に持って帰ってもらっても構わないのだが、なぜだかそうは言い出せずに、エズメはただひたすら固パンを咀嚼することに徹していた(兵学の本なんてあったっけ?)。

「どうしてまた急に、本を読む気になったの?」

 素朴な疑問だった。

さっき言っていた、学を見につけるために王宮に上がったことと何か関係があるのだろうか。

「なぜって。いろんなことを知りたいからだ」

「知ってどうするの?」

「この世界の仕組みについて、もっとずっと理解が深まるだろ」

「理解してどうするの?」

「なに?」

「理解してどうするの? 王になるの? 為政者になるの?」

 固い丸パンをスープの汁に浸しながら、エズメは何の気なしに訊いてみた。

 ミカゲはまた少し、眉間に皺を寄せながら、

「……い、いや」

「自然のこと。宇宙のこと。知ってどうするの?」

「お、俺は……」

「…………」

 エズメはしばらくの間、押し黙ることにしてみた。

 ただじっと、この眼前の青年のことを凝視してみることにした。

 ミカゲはまたもや、難しい顔をして黙り込んでしまった。そしてしまいには、先ほどよりももっとずっと陰鬱そうな顔をしてしまうのだった。

「時々、ミカゲみたいな人が尋ねてくることがあるんだ」

 すっかりと冷めてしまったスープの水面を覗きやりながら、エズメは遠い昔の記憶を呼び起こした。「ホントに時々だけどね」

 ミカゲは黙って聞いていた。

「ここに来る途中に通らなかった? 大きな湖の脇を」

「あ、ああ。通ったが」

「あの湖にはね、街が沈んでるの。もうずっと昔に滅んだけど」

 ミカゲはきっと知らないだろう。前世のミカゲは亡くなってからもう随分と経つ。その間、この城は四度、王の居城として繁栄と衰退を経験してきた。

 エズメもまた、この地を離れられないがために、それら四つの王国の栄枯盛衰を眺め見てきたのである。一番初め、祖国が滅ぼされた時こそ涙したものの、次からは別段どうとも思わなくなった。

 湖底に沈んだ街は、最後に滅んだ王都の残骸だ。最も悲愴な最期を歩んだ国の亡骸だ。

「あの国には、優秀な学者が多かったから。探せばまだ残ってるんじゃないかな、君の知らない文献が。城のどこかに」

 それらの書物をぜひ見せてくれと、本当に時々ではあるが訪ねてくる人間があった。

たいていの者は前世か前々世で、これらの国と関わり合いのあった者たちだったが、主が決められたことに背ける御霊は少ない。百年に一人、いるかいないかといった具合だったし、ましてミカゲほど記憶のしっかりとした者も珍しかった。

ミカゲも興味を示すかな、と思い教えてみたのだが、それよりも、

「その国は、どうして滅んだんだ」

 エズメがあまり思い出したくない事柄を尋ねられた。

 致し方ない。人と言葉を交わすのは本当に久方振りなのである。訊かれたら、答えねばなるまい。

「進んだ学問の力で、神の国に近づこうとしたの」

「が、学問の力で、神の国に?」

エズメは驚くのも無理はないなと、ゆっくりと頷いて肯定の意を示した。

「あの国の人たちは、創造主さまを憎んだんだ。創造主さまは悪神だとさえ言った。この世界を、こんな風に造ってしまった、悪しき神なんだと」

「異端の信仰か」

「魂は肉体から逃れられず、愛する人の心とも通じ合えず、陽が昇れば必ず沈み、また沈めば昇るのはすべて、主がそのように造られたからだ」エズメは湯飲みの白湯に唇をつけた。「この宇宙は果てしない。しかし確実に広がっている。なれば、宇宙はどこに向かって広がっているのか。無から有は生まれない、と」

「この宇宙が接する無の彼岸に、誠の神がいると? 神の国に触れてどうするつもりだったんだ? まさか主を殺めたのかッ? 俺たちの主を!」

 それについては、エズメは頷かなかった。

 結果からいえば、彼らの取り組みは失敗に終わったからである。

「違うんだ。ホントは。あの国の人たちはね、戻ってきてほしかったの。もう一度、主に。憎むと同時に、愛してもいたから」

憎悪することでしか、愛情を示せなかった人たち。

哀れな民を憐れんで、創造主はたった一度だけ、エズメを通して主の御告げを施したことがあった。

もう二度と、我がこの箱庭に降り立つことはない――、と。

 それを聞いた時の王は絶望して自らの命を絶って果て、嘆き悲しんだ王妃やその子供たち、貴賤万民に至るまでが、皆ことごとく主の後を追ったのである。

栄華を極めた王都は沈み、以来、この地に国が興ったことは今時分まで一度としてない。たぶん、もう二度とこの廃宮が誰かの住まいとなることはないのだろう。

「どうする? 行ってみる? 湖のそばまで」






 その場所は、小高い丘の上にあって、ちょうど真下にあたるところにかつて祭殿として使われていた建物が沈んでいた。

 エズメは崖の上に膝をつけるとやや身を乗り出して、

「見て、あれがさっき教えた図書館だよ」

「あんまり前のめりになるな。落っこちても助けられない」

 云いながらミカゲがローブのフードを引っ張ったので、エズメは烏が窒息した時のような声を出してしまった。

「もうっ! ヒドいじゃないか、引っ張らないで!」

「ははは、ごめんごめん」

 はじめてミカゲの笑声を聞いて、エズメは少し嬉しくなった。

 出会ってからずっと気難しそうだったり、固い表情が多かったのだが、やはり笑うと幾分幼げに見える。

 神官として王宮に勤めているといろいろと気苦労が絶えないのだろうが、ミカゲには笑顔の方が似合うだろうとエズメは思う。

「それで。どれなんだ、その壁画文字ってのは」

「あっ、えっと……。ほら、あれだよ。あそこ」

 何だか、上手くはぐらかされたような気がしないこともなかったが、ミカゲの問いにエズメは指を指し示すことで応答した。

「昔来た人たちは、皆あれを見て何かを閃いたんだって。私には、ただの落書きにしか見えないけど」

「ふーん。そうか。お前には、見えないのか」

「ミカゲには分かるの? 書いてあることの意味が」

「うん? いや。ああ、まあな。……それにしても、いやに遠いな。相当深いところに沈んでいるみたいだ」

「ねえ。なんて書いてあるのさ。教えてよ、私にも」

 なぜ初めて見たミカゲには理解できて、もう目を瞑っていても瞼の裏に浮かんでくるくらいに見飽きているエズメにはできないのだろう。ひょっとしたら、何かの暗号なんだろうか(秘密の隠語か何かなんだ、きっと!)。

「まあ、いいじゃないか。そんなことより、俺は決めたよ」

「うん? なにを?」

「いいよもう。もう読まない。きっとお前の城の本も、たぶん読まないだろう」

「もういいの?」

「ああ。もう、いいんだ」

 ミカゲのあまりの発言に驚いて振り返ると、足がもつれて転びそうになった。すんでのところをミカゲに抱きしめてもらうことで事なきを得たエズメは、その胸中から顔を見上げて、

「世界の仕組みは? どうでもよくなった?」

「いや。そういうわけじゃない」

 ミカゲは微笑を浮かべている。「ただ、もう書物は読まない。いや、違うな。読むかもしれないが。うん、闇雲には読まないよ。これからは」

「どうして?」

「俺は理由がほしかったんだ。目的がほしかった。だから難しい書も読んだし、神官にもなった。でも分からなかった。だから、ここに来た。ここに来れば、何かが分かると思ったんだ」

「ふーん?」

 エズメが首を傾げていると、不意に脳天がくすぐったく感ぜられた。

「なあ、エズメ。お前はどうして書物を読む?」

 何を当たり前のことを訊くのだろうか。

 幾ら世上に疎かろうと、少々度忘れが酷かろうと、そんなことはきっと幼子だって知っている。

「別に。そんなの、暇だからだよ」

「ああ。……その通りだな」

 ミカゲは満足げにそう呟いて、しばらくの間こちらの頭髪を撫ぜていたのだが、やがて、

「じゃあ次は、お前のことについて話をしよう」

「私のこと?」

「ああ、そうだ。……姫」

 そう云って、ミカゲはエズメの身体を離した。

 そうしてエズメの眼前で片膝をつき、腰に吊った長剣を静かに引き抜いた。

「エズメ姫よ。麗しの巫姫。あなたはいつまで、もう戻らぬ創造主にお仕えなさるおつもりですか」卒然、ミカゲは問うた。

 それは遠い遠い昔に、創造主が教えてくれた契約の儀式。

 巫姫は差し出されたそれを静かに受け取った。

剣を受け取った者は、差し出した者の命を預かったことと等しくなり、その儀式の最中であれば、たとえ差し出した者を惨殺しようとも罪とはならない。

信頼には信頼で答えねばならぬ。たとえわずかであっても、嘘偽りがあってはならぬ。

「汝の問いに、答えよう。それは、主が止めよとお告げ下さるまで」エズメは答えた。

「なれば姫よ。あなたはいつまで、万の民草のために舞を舞われるのですか。主を忘れた民草のために。その創造主すら、もう戻らぬというのに」

ミカゲが問う。

エズメが答える。

「主が止めよと、告げられるまで」

 エズメはミカゲを見下ろしていた。

 ミカゲは心底、嬉しそうだった。

「なれば我は――」再び、きりりと顔つきを整えた神官は言葉を紡いだ。

「あなたを守る剣となりましょう。

あなたを支える盾となりましょう。

幾久しく、あなただけの騎士として」

 そうして青年は静かに頭を垂れた。

 エズメは手にした剣の剣先をミカゲの喉元に突き立てた。

「嘘偽りなく、あなたが真の言葉で紡がれたそれを、どうして疑うことができましょう」

 剣先を喉元からどかし、エズメは自身の胸元で剣を立てた。高く高く、天へと聳ゆるごとくに。

 これで、すべての所作は終わった。

 ミカゲは立ち上がると、受け取った剣を元の鞘に戻した。

「俺もここで暮らすよ、エズメ。君とともに、君と一緒に」

 エズメはこれ以上ないくらい嬉しくなって、心の底から破顔した。

 花も綻ぶようなその笑顔は、創造主でさえも形容できぬほどの、美しくも可愛らしい様子であったということである。



〈終〉

 皆さんは「宇宙」はお好きでしょうか? 宇宙について見聞きしたり、興味があって調べたりしていく中で出来上がった作品です。

 宇宙って、最期はどうなるんでしょうね。どこかで反転して収縮していくのか、あるいはこのまま膨張し続けるのか。すべては神のみぞ知る、ということなのでしょうね……。



ここまでお付き合い下さいましてありがとう御座いました。願わくはまたお目にかかれますことを――。

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