捌:隣の伝説
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もう陽が沈み始めている放課後の屋上で、俺と更科さんはフェンスに寄りかかって座っていた。部活動の掛け声をBGMにして、こんな大和撫子のような美少女と放課後の時間を共に過ごしているなんて、誰もが羨む状況だろう。
しかし、羨む奴がいたら、俺は今すぐにでもこの場所を変わってあげたい。
――何故なら、隣にいる更科さんは、ヤンキー座りをしながら俺のことを睨み付けているのだから。そして、元ヤンである更科さんの様は、しっかり板についていた。
……ああ、あの大和撫子のようにお淑やかだった更科さんはどこに行ってしまったのだろうか。
俺は何も見ていないフリをしながら、まだ温かい缶コーヒーに口を付ける。ブラックだから、その苦さが思考をくっきりと聡明にさせてくれる。
だが、思考がくっきりとしようとも状況は変わらない。
更科さんに睨み付けられているだけの、何の意味もない時間が流れ去って行く。
このまま話がないなら、もう帰ろうかな。一応、俺の当初の目的は果たせたわけだし……。
「――諏訪悠陽」
そう思った途端、更科さんの口から俺の名前が紡がれた。俺は無言でいることで、言葉の続きを催促する。
「私が元ヤンだってことは、絶対に言わないでよね」
強い口調に対して、更科さんの空き缶を持つ手は微かに震えていた。
「……ああ、言わないよ。言ったところで、俺にメリットがない」
俺は微かに溜め息を漏らすと、更科さんに宣言した。今の言葉に、嘘偽りはない。むしろ言いふらすものなら、俺は更科さんを貶めようとする輩として、学校中から叱責を受けるだろう。
その未来は、平穏を願う俺としては全く望まない未来だ。
「強引な手を使わないで済む物分かりの良い人で助かったわ。じゃあ、これで――」
「――でも、一つだけ聞かせてくれ」
話を終わらせようとした更科さんが立ち上がろうとした瞬間、俺は更科さんに声を掛けた。
更科さんの最初の一言が気になったが、それよりも気になることが純粋に俺の好奇心を刺激していた。
更科さんは何も言わない。首を縦にも横にも振らない。
俺は無言の肯定として受け取る。
「なら、一つだけ。……いつまで不良やってたんだ?」
俺の問いに、更科さんの様子はハッキリとした変調を見せた。
強張る表情。空き缶の飲み口を、切なげな瞳で見下ろす。まるで、その暗い空間の中に押し込めた過去の自分を見つめるかのようだ。下唇を噛み、今にも流れそうな涙を堪える――そんな表情に、俺は罪悪感を覚えた。
だから、
「い、いや! やっぱ別に無理して話さなくていい! てか、うん、そんなあれだ。気になることでもなかったわ。だから、もう帰ろう、な」
凄まじい勢いでお詫びと訂正を入れ、俺は立ち上がって家に帰ろうとした。もうだいぶ時間も遅くなっている。高校入学以来こんな遅くまで学校に居残ったことがなかったから、きっと親も心配している頃だろう。……もっとも、普通の高校生にとっては当たり前の時間、むしろ早すぎる時間ではあるが。
「――今年から」
「え?」
耳に届く声に、自身の心に対しよく分からない弁明を重ねていた俺は後ろを振り向く。更科さんは飲み口から視線を移し、真っ直ぐ俺のことを見つめていた。しかし、すぐにまた伏し目がちになり、
「――いわゆる不良の世界から、私が完全に足を洗ったのは……、ううん。洗えたのは、年が明けてからなの」
俺は何も言えなかった。先ほどまでの更科さんとも、いつもの更科さんとも違う、本当に弱っている姿に、どう声を掛けていいのか分からなかった。
しかし、更科さんは俺の思惑を察してか、柔らかく微笑むと、
「高校に入学した時――つまり一年前にはきっぱり離れたつもりだったの。でも、周りはあたしのことを知ってる人ばかりで、完全には抜け出させてはくれなかった……。むしろ、以前よりも、何かしら理由を付けて私と絡もうとしたり、敵わない相手がいると私は必ず呼ばれた。そんな生活が、去年の秋ごろまで続いていたんだ」
続く言葉を発する声は微かに震え、その体も震えていた。
ここまで来るのに、どれほど悩んでいたのだろうか。どれほど抱えていたのだろうか。
過去の更科さんのことを、俺は何一つ知らない。
「でもね。悩んでた時、ちょうどパパが仕事の関係で新しい家に引っ越しをしようって言ってくれたの。それで、ようやく離れることが出来たんだ」
更科さんは顔を上げると、いつものような笑みを見せた。けれど、その笑顔は無理をして作っているように見えた。
「まぁ、半ば逃げるように強引な手段だったけどね。誰にも何も言わずに、年明けと共に引っ越して、新しい生活を送り始めたの。まぁ、その間に色々諸事情もあって、また転校して、今この町で暮らすようになったんだけどね。そこは長いから割愛」
「――」
更科は笑いながら、手を打った。これで更科の過去の話は区切られた。いや、過去などと割り切って呼んでいいほど、昔の話ではない。
思ったより奥が深くて、俺は口を開くことが出来なかった。いや、開いてはいけない気がした。更科さんがどれほどもがきながら、苦しみながら、今の高校生活を手に入れたのか、俺は全く知らない。平穏な生活に安住して生きて来た俺が、軽い気持ちで何かを言ってはいけない。
気の利いた言葉一つさえ、更科さんに掛けることは出来なかった。
「――血祭まつり、って聞いたことない?」
「……あ」
立ち往生している俺を気遣ってか、更科さんは優しく諭すような口調で新しく話題を振る。更科さんの言う言葉を引き金に、その単語が持つ意味が俺の脳裏に鮮明に過ぎった。
――血祭まつり。その名前を知らない者は、俺達の世代ではいないだろう。
血祭まつりは中学生の頃、よく噂になっていた。とんでもない不良が隣の県にいるから、絶対に関わるなというのが、その噂を聞いた時に必ず付随して来る決まり文句だった。彼女が誰かの隣を通り過ぎれば、まるで花火のような血飛沫が辺りに飛び散り、その姿を彼女は見て喜悦に浸る。そのことから、血祭まつりと呼ばれるようになったとか。
噂程度にしか聞いたことがなかったから、俺も詳しくは知らない。
しかし、血祭まつりという噂は、高校に入ってからはポツリポツリとしか聞かなくなり、終いに今年になってからは一度もその名を耳にすることはなくなった。
だから、彼女の名前は巷では伝説と化していた。
――その伝説の当事者が、今隣にいる。
「……怖がらないの?」
諭すような言葉遣いとは一転、更科さんは殺気を纏ったような口調で俺に問いかけた。あまりの豹変ぶりに、俺は息を呑む。
しかし、そんな更科さんに恐れを抱いたのは一瞬だけで、
「……昔の話だろ。俺は更科さんのことを詳しくは知らないけど、今隣にいる更科さんは無闇に暴力を振るう人ではないことは知ってるつもりだ。たった三週間だけど、更科さんのことを隣で見てたから」
「……っ」
俺の言葉が予想外だったのか、更科さんは目を見開いた後、自嘲するように口角を上げた。
「……今の質問は少し意地悪だったわ。……私ね、もう人を傷付けるのは止めるって決めたんだ」
俺は更科さんの告白を静かに聞いて頷く。不良をしていく内に、更科さんは何かにぶつかり、その道を歩むことを止めた。
と思ったところで、一つの矛盾点に思い至る。
「――ちょっと待て」
「なに?」
「昨日、秦野高校の連中を思い切り傷付けてたよね?」
あの制服はここらへんでも悪い意味で有名な秦野高校のものだった。昨日、更科さんは完膚なきまでに、彼らのことを懲らしめていた。それはもう、相手に同情してしまうほどだ。
俺が真剣な顔をして聞くのを理解出来ないらしい更科さんは、首を傾げて、
「……? 貞操を守るためなら、不可抗力ってもんでしょ? あれはノーカンよ」
人差し指と人差し指を交差して、ばってんを作る。
どうしよう。思ったよりも、思考が吹っ飛んでいる。いや、確かにその通りかもしれないけど、あそこまでやるのは――、いや、これ以上は止そう。深く突っ込んだら負けだ。
「ハイハイ、その通りですね」
色々考えた結果、可能な限り心を殺して、更科さんに同調する。
「……でも、良かったよ。更科さんが秦野高校の連中が拠点とするゲーセンにまで連れて行かれなくて」
俺の言葉を聞いた瞬間、更科さんは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔を浮かべていた。俺、何か間違ったことを言ってしまったのだろうか。
「……あの」
不思議な表情を浮かべている更科さんに、俺が言葉を掛けた時だった。更科さんは俺の声をきっかけに我に返ると、ふいと俺から顔を反らす。
「――ふん、思ったより長話をしてしまったわ。……いい? もう一度念押しするけど、このことは秘密よ。もし周りにバレたら……」
「わーってますよ。俺も面倒事は嫌だからな。お口にチャックだ」
真剣な表情を見せる更科さんの意図を先読みし、俺は親指と人差し指を口元に寄せると、そのまま口の線をなぞる。
ここに、更科さんの秘密を守ることを誓った。
俺の仕草を見た更科さんは、場違いな俺の仕草に一瞬呆気を取られていたが、
「――ふふ。悠陽、ありがとう」
今まで一番柔らかい笑みを浮かべると、俺の名前を呼んで、礼を言った。
俺はその顔に不意にも心臓が高鳴ってしまった。美少女の笑顔も、急に名前を呼ぶのも、反則だ。
顔が紅くなったことを認めたくない俺は、
「……まだ何にもしてねーよ」
今出来る精一杯の悪態をついた。