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漆:大和撫子という幻想は泡沫に消える

 ***


「更科さん、いる?」


 そこに更科さんがいることを確信していながらも、礼儀として一声挟んでから、俺は屋上の扉を開けた。


 しかし、扉を開けても更科さんからの返事はなかった。代わりに、運動部の声がグラウンドから響いて来る。この時間、どこの部活も活動のピークを迎える。一年生が入ってきたこともあって、学校中が活気付いていた。

 そんな運動部の活動を、更科さんはフェンスに手をかけながら、じっと見下ろしていた。


「更――」


 俺は更科さんの名前を呼ぼうとして、途中で止めた。


 いつもは美しく毅然と振る舞う更科さんが、どこか切なそうで――、羨望するような瞳で、グラウンドを見つめていたから。


 俺は我を忘れて、まるで時が止まったかのように更科さんを見つめていた。


 更科さんの切なげな表情が、茜色に染まる夕焼けにマッチしていて、一つの絵画として成り立つほど美しかった。

 普段見慣れない光景は、消えてしまいそうなくらい優しく俺の心に触れ、確かに跡を残す。


 しかし、時が止まったような感覚がするだけで、実際に時が止まることがないのは、万物の理知、誰もが知っている当然の事象だ。


 全ての時間に終わりを告げるように、突如大きな音が割って入った。

 その大きな音に、フェンスからグラウンドを見下ろしていた更科さんは肩を大きく震わせた。俺も何事かと驚きのあまり体が跳ねた。


 音源は、俺の隣。すなわち、俺が開いた屋上の扉が原因だ。隣を見れば、自分は無関係ですと言わんばかりに、閉め切った扉があった。


 俺は恨めしく扉を睨み付けると、ハッとしてすぐに視線を元の場所に戻す。


 すると、先ほどまでフェンスの傍にいたはずの更科さんは、顔を紅くしながら俺の方へと近づいていた。顔の色は怒りの色か、その瞳はどこか潤んでいた。更科さんの見てはいけない一面を、俺は見てしまったのだろう。


 ――その気持ちは分かる。でも、更科さんよりも扉を開けた本人である俺の方が驚いているんだ。


 心の中で弁明しようとするものの、俺は言葉に出すことが出来なかった。


 何故なら、更科さんは普段の華麗な歩き方と違って、まるで不良が喧嘩を売りに行くようにどしどしと歩いて来ているのだ。


 俺は本能的に更科さんに対して恐怖心を抱いてしまった。


 しかし、俺の心境を更科さんが読める訳がなく、止まることなく近づいて来る。俺は一歩後退る。背中に何かぶつかる。視線を移すと、背には壁があった。

 そう、俺は屋上に出てから一歩も歩いていなかった。後ろに下がろうとすれば、すぐに壁に当たり逃げ場を失うのは当然のことだった。言うなれば、まさに絶体絶命。完全に袋小路状態に陥っていた。


 頬に冷や汗を伝わせながら、壁に当てていた焦点を更科さんへと移す。


 俺は更科さんと目が合った。


 すると、距離にして三メートルほど開いている中途半端な位置で、更科さんは立ち止まった。


 俺は緊張のあまり、息を呑む。


 更科さんは俺に向けて左の人差し指を突き付けると、目を光らせて、


「……ッ、諏訪悠陽! 私を待たせるとは良い度胸してるじゃない! 覚悟はいい!?」

「ちょっ! いきなり本性全開で来るの止めろ! お前が言う覚悟とは別の覚悟を持って来てはいるけど、もうちょっと受け入れる時間をくれ!」

「っ! ……諏訪君。まだ肌寒さが残る夕暮れ時に、私のために屋上まで足を運んでくれてありがとう。でも、女の子を待たせるのは感心しないナー」

「棒読み感丸出しだし、顔も引きつってるぞ。……はぁ、ほらよ」


 まだ前哨戦も始まっていないのに、エンジン全開で来る更科さんを止める意味も込めて、俺は鞄の中から目当ての物を取り出し、更科さんに向けて放る。更科さんは俺から視線を逸らすことなく、パシッと受け取った。


「……ん。……何? 謝罪のつもり?」


 更科さんは右手に収まっている物――俺が投げた缶と俺を見比べて、訝し気な視線を送っている。


「あー、はは。ほら、屋上で話するのに、飲み物もなしって言うのも寂しいだろ。どのくらいの長さになるかは分からないけどさ、気楽にいこうぜ」


 もう一つ買ってきた自分用の缶を見せながら、俺は笑いかけた。


 俺と更科さんの手に収まっているのは、缶コーヒーだ。さっきの挑戦状がほんの僅かに、文字が震えているのも、怒りだけでなく、寒さも影響していたのかと思ったから、温かいものを学校の自販機で買って来た。ちなみに、俺はブラック、更科さんは微糖だ。


 受け取った缶コーヒーを改めて見つめる更科さんは、それ以上言葉を発することもなく、またプルタブに触れる様子もなかった。

 どうやら次の行動に迷っているようだ。


 なんか気になることでもあるのだろうか――、と思った途端、俺は一つの推測に思い当り、


「あ、お金は気にすんな。今回は、おごってやる」


 更科さんに自信に満ちた声で言葉を掛けた。


「……」


 しかし、それでも更科さんは固まったまま、動く様子はない。どうやら俺の推測は外れたようだ。

 なら、何が問題だと言うのだろうか。全く分からない。


「……どした?」

「私、コーヒー好きじゃない」

「え?」


 更科さんが小さく呟いた言葉を聞き取れず、俺は聞き返す。気のせいか、更科さんの頬は膨れ上がっていた。


 俺の疑問符が更科さんの耳に届いたのか、缶コーヒーに向けていた視線を、反射的に俺に向ける。更科さんの瞳は、少し揺れているように見えた。


 しかし、すぐに気丈な振る舞いを見せ、


「ま、まぁ、あれだけ待たせたんだから当然よね」


 長い黒髪を左手でかき上げながら言った。その言葉に嘆息を隠せず、俺はため息交じりに頭を掻く。


「……あのな、俺だって一応教室で一時間半は待ってたんだぞ」

「……? 普通、放課後の待ち合わせって屋上か校舎裏でしょ?」


 しかし、俺の言葉に対して、更科さんは素っ頓狂に首を傾げた。まるで世間一般常識であるかのように、更科さんは素で驚いている。

 これには、何も言えない。


「その発想がもう……」

「っ! 何よ、その態度!? 私が元ヤンだとでも言いたい訳!?」


 頭を抑えつつ哀れむ視線を送る俺に、更科さんは突っかかる。しかも、更科さんの言葉の内容は、ほぼほぼ自分から認めているようなものだ。


 それに対して俺も、


「まだ何にも言ってねーよ! ってか、お前そのこと隠したいんじゃないの!? 昨日のあれだって――……っ!」

「ッ! ……私、昨日は真っ直ぐ帰宅したから、路地裏のこととか他校の人のことは心当たりないわ。諏訪君、いつも隣の席で私と仲良くしてくれてありがとう。ここに諏訪君を呼んだのは、いつもお世話になっている御礼を改めて言いたかったからなの」

「う……っ」


 俺は喉から出かかっていた言葉を無理やり抑え付ける。


 胸に手を優しく添える更科さんは、まるで大和撫子のようにお淑やかな振舞いだ。その口角には、うっすらと微笑みさえ浮かべている。


 ――嘘が下手過ぎる。


 自ら暴露していることに気付いていないのだろうか。いや、気付いていないのだろう。もし、気付いているのなら、そこまで堂々とした振舞いを貫くことは出来ないはずだ。


 更科さんは、自らの演技で俺のことを丸め込むことが出来ると本気で確信しているのだ。


 俺は言葉を失った代わりに、問い詰めるように更科さんのことを見つめる。

 毅然と振る舞う更科さんだが、俺は構わず更科さんのことを見続ける。


 ここまで待たされたんだ。もう更科さんの本性は確信へとなっているが、本人の口から自白するまで帰りたくはない。


「……もしかして、私の言葉を疑ってるの?」

「……」


 俺は答えない。じっと更科さんを見つめる。更科さんの頬に汗が滴たり落ちる。


「……諏訪君が、どうして私と昨日諏訪君に殴り掛かろうとした女の子を勘違いしているのかは分からないけど、私はちゃんと家に帰ったよ。だって、私馬鹿だからたくさん勉強しないといけないし」

「……」


 ノーコメント。黙々と更科さんを見続ける。更科さんの視線が上下左右に泳ぐ。


「……私、あんなに鈍い舌打ちなんて出来ないよ? あ、あー、諏訪君、信じてないでしょ! なら、今からやるから、ちゃんと聞いててよね! ち――、あ、いたーい。ベロ噛んじゃった。てへぺろ」

「……」


 ……。……。……。


 俺は素で言葉を失ってしまった。


 何かフォローすべきであろうかと思いつつも、気の利いた事ひとつ出来ず、舌を出しながら片目を瞑る更科さんを真っ直ぐに見つめる。何だか、いけないものを目にしている気がする。


 更科さんは見る見るうちに顔を紅くし、最終的に顔全体が真っ赤になると、


「――ッ、うぅ、あんたのお察しの通り! 私は元ヤンです!」

「ですよねー」


 更科さんの告白に、俺は何の驚きもなく、ただただ同調した。その全く動じない俺に気を悪くしたのか、更科さんは顔を紅くさせたまま俺のことを鋭い目つきで睨み付ける。


「いつから分かったの!?」

「えーっと、この屋上に来て言葉を交わした時からは、もう既に確信してた」


 更科さんはこれ以上紅くならないと思っていた顔を、更に紅潮させていく。きっと俺にバレていないと思って色々と演技していたことを分かって、恥ずかしくなったのだろう。


「あ、で、でも、さっきの顔とか面白かったよ。普段見ることの出来ない更科さんの一面を知れたというか……」


 俺の言葉に、更科さんは今まで一番鋭い目つきで睨み付けて来る。その目には、やや涙が浮かんでいる。一瞬ドキッと心臓が跳ね上がるのを、俺は感じた。


 そして、俺の怯んだ隙に、まるで挑戦状を叩きつけるように、もしくは自暴自棄のように、手に持っている缶コーヒーのプルタブを開け、勢いよく口に持っていった。いや、持っていってしまった。


「わ、ばっ、それ……っ」

「――ッ! げほげほっ!」


 俺の折角の忠告も意味を成さないまま、更科さんは熱いコーヒーを思い切り口の中に流し込み、そのままむせてしまった。


 ――大和撫子という周囲が作り上げた幻想は、俺の中で大きく音を立てて崩れていた。


 俺の中に唯一残るのは、昨日見た恐ろしい更科茉莉でもなく、大和撫子と呼ばれるお淑やかな更科茉莉でもなく、今まで一度も見たことのない目の前にいる更科茉莉の姿だけだった。

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