結:茜空に結ぶ約束
***
「お、終わったー」
私の右隣で悠陽が力なく机に崩れ落ちた。私もこの四日間テストばかり受けていて疲れが溜まってしまっていたから、大きく腕を伸ばす。けれど疲労感と同時に、再試が終わったという解放感が私を満たしていた。
「おう、お疲れ。お前ら、よく頑張ったな」
再試最終日、二教科続けてテスト監督をしてくれた阿部先生が、私たちのことを気遣って労いの言葉を掛けてくれた。
「いえ、阿部先生の方こそお疲れ様です。放課後まで付き合って頂いて――」
「ああ、別にいいさ。これが仕事だからな。それに本音言うと、監督してた方が業務しなくて楽なんだ」
阿部先生が朗らかに笑いながら言う。二十代半ばと先生たちの中では比較的に若いことに加えて、こういう本音を隠すことなく言えることが、きっと生徒から親身に親しまれる理由なんだろうなと思った。
その証拠に――、
「阿部ちゃん、俺達のこと利用してサボってたのかよ」
悠陽が訝しむような目をして言った。その口調はまるで友達に話すそれと同じだ。
「はぁ? 元はと言えば、お前らがテストの日休んだのがいけないんだろ? ……まぁ、一人は五月病とか言う訳の分からない病気に発症してたけどな」
「ぐっ」
「うっ」
その言葉に、私達二人は同時に言葉を失くした。右隣の悠陽は、痛いところを突かれたと言いたいように胸を押さえている。私も似たような行動を取っている。
阿部先生の言葉に対して、私たちが同じ反応を見せるのには理由があった。
このテストを放課後に連日受けるようになった理由が、今週の月曜日に私と悠陽が学校をさぼったからだ。
秦野高校に傷つけられた悠陽を見て周りを鑑みずに飛び出した私と、それを止めに来た悠陽。それから、秦野高校の人達と繰り広げたゲームという名の喧嘩。――つまり、学校側には絶対にバレてはいけない理由がある。
「何だよ、お前ら。急に大人しくなって」
そんな私たちの事情を知らない先生は、不思議そうな顔を浮かべていた。私と悠陽は阿部先生から視線を逸らし続け、天井を見つめる。
私たちのことを訝しむような目でずっと見続けていた阿部先生は、やがてふっと息を漏らすと、
「……でも、まぁ、良かったよ。あの日からお前らの雰囲気がガラッと変わった」
柔らかな声で言葉を紡いだ。
その言葉に、天井を見つめていた私と悠陽は阿部先生のことを見つめる。
夕陽に照らされる阿部先生は、窓に視線を移していた。その表情は、口調からも分かるように、優しく穏やかなものだった。
「あの日、お前らの間に何があったかは知らないけど、お前らが砕けてからクラスの間の溝が埋まって来たんだ。気付いているか?」
阿部先生の言葉に、私と悠陽はこくりと頷く。
自分で言うのも変な話だけど、秦野高校とのいざこざが終わった次の日から、私と悠陽はクラスに溶け込むようになり、それから明らかにクラス間の仲がよくなった。一体感が生まれた、と表現するのが正しいのだろう。
私は自分を偽ることを止め、悠陽は少しずつクラスメイト達と関わり始めた。そうすることで、クラス中から挨拶や会話が飛び交うようになり、自然と空気がほぐれるようになったのだ。
まるで足りなかったピースが見つかって、一つの絵が完成するように――。
ちなみに、今週になって初めて、私が学校中から大和撫子と評されているということをクラスメイトの女の子から聞いてようやく知った。そのことを聞いた私は、あまりにも似合わない呼称過ぎて、顔を真っ赤にした。何となく学校中から注目されているのは知っていたが、そこまでオーバーになっているとは思っていなかったのだ。可憐な笑顔で手を振ったことも、そう呼ばれる要因の一つだそうだった。
私たちが真剣に阿部先生の言葉を聞いていると、阿部先生は目を細め、
「まぁ諏訪は相変わらず授業中に寝てるし、更科は友達が少ないけどな」
瞬間切り替わり、あっけらかんと笑い始めた。腹まで抱える始末だ。
そう。阿部先生の言う通り、私たちは自らクラスに関わりを持とうとする一方で、やっぱりまだ変わり切れない部分もあった。
でも、これからもっと変わっていける自信があった。
やがて、一笑いし終えた先生は、再び真剣な表情に戻り、
「これからも大変なことはあると思うけど、誰かと一緒なら乗り越えられるもんさ」
いつになく力強い口調で言った。その瞳も、どこか眩しい物を見るように細んでいる。
私と悠陽は、口を挟むことなく静かに頷いた。
「はい、それじゃこれで再試も終わりだ。週末はゆっくり休んで、月曜日に備えとけよ」
そう言うと、阿部先生は席から立ち上がった。教卓に置いてあったテスト用紙を手に持ち、職員室に戻ろうとする。
「あ、阿部ちゃん! 頑張ったご褒美に、何か奢って!」
「そこまでしてやる義理はねーな」
「悠陽、先生に失礼でしょ。阿部先生、さようなら」
「おう、さようなら」
そう言うと、阿部先生は手を振って教室を出て行った。
「――」
「――」
阿部先生が出ていき、閑散とする教室に、私と悠陽は二人きりで残された。
どちらから話すこともなく、ただただ沈黙が空間を支配する。聞こえる音は、ただ私のやかましいほどに鳴る心臓の音だけだ。
私は緊張していることを悟られないように、
「で? 悠陽はこれからどうするわけ?」
つんけんとした口調で質問をぶつけた。
あの日――、YOMIでの一件以降、悠陽と二人きりになると上手く話せない自分がいた。気を抜くと思考がグルグルと回ってしまい、本当に何も考えることが出来なくなってしまうのだ。その理由は知らない。
だから、私はいつも悠陽の前では気を引き締めるようにしていた。
「また勉強――って、そうか。もうテストは終わった訳だから、勉強する必要もねーのか」
この再試の間で恒例となっていたテスト勉強も、ひとまずやる必要はなくなった。この勉強のおかげで悠陽が九割を取れるかは疑問だが、もし取れたら、教えた側である私としても嬉しいものだ。
悠陽はこの後の時間をどう過ごすのか、真剣に考えているようで、これ以上言葉を紡ぐことはなかった。
そして、再び沈黙した時間が始まった。
私は教室の前にある時計に目を配る。
時間は五時を超えているところだった。
時計から流れるように、外へと視線を移す。外を見ると、汗を垂らしながら全力で「今」に打ち込んでいる生徒達がいた。丁度、部活動真っ盛りな時間帯だ。
まだ時間に余裕はある。
私的な欲を言うのであれば、悠陽ともう少し一緒の時間を過ごしたい思いがあった。
しかし、今週ずっとテスト漬けだった悠陽は疲れているはずだ。その証拠に、今も疲れた頭を休めるようにボーっと天井を見ている。
なら、無理をさせる訳にはいかないだろう。
私は強引に笑みを浮かべると、
「テストも終わったばっかだし、今日は大人しく――」
「なぁ、茉莉。この後時間ある?」
悠陽の言葉に、私の言葉は遮られた。それと同時、悠陽の言葉が信じられなくて、目を見開かせる。
「ちょっと付き合ってほしいところがあるんだけど」
悠陽は頬を紅くしながら、ぶっきらぼうに言った。
***
「く、く、く、っ、く」
私は手にしている物を見て、まるで宝物を見つけたような表情を浮かべていた。純粋に驚きすぎて、そしてそれを上回る嬉しさに、上手く言葉が出て来ない。
「く、く、きゅれ、っ、くれ、クレープ!?」
そして、何度かの挑戦の末、ようやく言葉を発することが出来た。
そう――、私の前にはクレープがある。
学校を後にした私たちは、松城町にあるショッピングモールの外に設営されているクレープ屋にやって来ていた。クレープ屋の存在はこの町に来た時から知っていたが、まさか学校帰りに寄れるとは夢にも思わなかった。
あぁ、なんて可愛らしい食べ物なんだろう。こんな普通の女子高生しか食べないものを手にするのは、今まで生きて来た中で初めてだ。
そんな感動に耽っている私を、普段の学校と同じように右隣に座っている悠陽がおかしなものを見る目で見ている。失礼な奴だ。
けど、それでもいい。寛容な私は、何も言わない。
その代わり、私は悠陽のことを見ないで、クレープだけを見つめながら、
「ほ、本当に奢ってもらっていいの!」
「あ、ああ。茉莉のおかげで、なんとか九割超えそうだし。むしろ、あんなに勉強教えてもらったのに、これだけで申し訳ないな」
「ううん、最ッッッ高よ! 悠陽、あなた分かってるわ! いただきます!」
そう言うと、私は夢のスイーツにかぶりついた。
一口頬張ると、生クリームの濃厚な甘みが口に広がる。それだけでなく、生地の甘さ、果物の純粋な甘さ――私の口の中に、一瞬にして幸せな甘い世界が作られた。
私はほっぺを抑えて、「んんー」と声を上げる。本当に美味しい物を食べると、自然とほっぺに触れてしまうんだと初めて知った。それはテレビの中で芸能人たちが大袈裟に見せるための演技かと思っていたが、どうやら違ったようだ。
私は嬉しくて、幸せのあまり足をジタバタさせた。このまま空も飛べそうな気がする。
「――……そんなに喜んでもらえたなら、奢った甲斐があるよ」
悠陽は引きつった笑いを浮かべながら言うと、クレープを口にする。悠陽は私みたいな反応をせず、まるで食べ慣れた物を当たり前のように口にするように食べていた。
そんな私と違う悠陽を、睨むようにじっと見つめる。
「ど、どうした?」
「ふーん、何でもないよーだ」
私はそっぽを向くと、再びクレープを頬張った。やっぱりクレープは変わらずに美味しい。
「……この前とは大違いだな」
ふと紡がれた悠陽の言葉に、私はクレープから視線を外して悠陽を見た。
私がクレープを食べる様子を、悠陽はずっと眺めていたのだろう。悠陽のクレープはあまり減っていない。その娘を見守るような、微笑ましいものを見るような、その達観した表情が生意気だ。
私は訝しむような視線を当てながら、
「この前? 何のこと?」
「ほら。この前コーヒー奢った時は、盛大に吹き出されたからさ」
「なっ! あんな昔のこと掘り返さないでよ!」
笑いながら話す悠陽に顔を紅くさせ、そっぽを向いた。
悠陽はこんな風に言っているが、あれは全体的に悠陽が悪い。
まず悠陽が私の嫌いなコーヒーを渡したことが原因だし、人を囃し立てるような言葉を投げかけたのもひどかったし、そもそも悠陽が私の秘密を知ったことがいけないのだ。
せっかくあの日犯した失態を忘れかけていたのに、今の悠陽の話のせいで思い出してしまった。
でも――、
「――不思議だな」
「え?」
今、まさに私が考えていたことが悠陽の口から飛び出して、驚きの声を漏らした。
「あの日の屋上では、まさか茉莉とこんな仲良くなるなんて思わなかったよ」
「……そうね。私も悠陽とここまで仲良くなるとは思わなかったわ」
これは、私の本心だ。
この松城高校に引っ越した時、私は絶対に過去のことをバレまいとしていた。血祭まつりのことを知られてしまえば、誰であろうと私と距離を置くに違いないを思っていた。
けれど、悠陽は違った。
たまたま私の過去を知った悠陽は、私が放つ殺気に当てられながらも、今まで隣の席に座り続けた私のことを分かっていると言ってくれた。
その後も、まさか血祭まつりのことを知ってから――しかも、そのせいで自分に怪我を負ってからも、私と友達でいてくれるとは思わなかった。
そのことが、私にとってはあまりにも嬉しくて、幸せなことだった。
「……なぁ、茉莉って高校生活でやってみたいことってあるの?」
「へ?」
脈絡もなく問いかけられた悠陽の質問に、私は疑問符で返す。
「なに、唐突に?」
「いや、ほら。せっかく松城高校に転入して来てクラスの人達とも話せるようになったんだから、今ならやりたいこと出来るんじゃないかなーって」
悠陽の言葉に、私は暫く「うーん」と考え込んだ。
――やりたいこと、か。
私がやってみたいことって、何だろう。普通の女子高生は何をするんだろうか。普通の子とはちょっと違った日々を送って来たから、よく分からない。
暫く頭を悩ませても――、やっぱり私にはやりたいことなんて思い浮かばない。
自嘲気味にそう割り切ろうとした時、ふと私の頭の中で、他の人にはありふれて、でも私には遠かった光景が鮮明に浮かんだ。
「――遊園地に行きたい」
そして、私は頭の中に浮かぶ景色に恋い焦がれ、口に出す。
呟くような私の声に、悠陽は私の顔を見た。
「カラオケがしたい。ボウリングがしたい」
一つを言うと、夢はどんどん溢れて出て来る。
とにかく大声で叫んで、馬鹿みたいに笑って、子供みたいに体を動かして――、今までの私からは想像することしか許されなかった夢だ。
「映画が見たい。買い物に行きたい。旅行にも行ってみたい。カフェでおしゃべりがしたい。浴衣を着て祭りに行きたい――」
私はクレープを持っていない左手で指を何回も、何回も折っては広げ、広げては折っていく。
ああ、希望が膨らんでくる。先ほど思い浮かばなかったのが嘘みたいに、やりたいことがたくさん浮かんで来た。全てを上げれば、きりがなさそうだった。でも、今は正直に全部言うことを許されているから、全部言ってしまおう。
悠陽なら、きっと否定はしない。現に悠陽は言葉を挟むことなく、静かに、優しく頷いている。
「あとね」
ある程度やってみたいことを語り終えて顔を上げた私の目に、他校の女子高生達が楽しそうにクレープを食べながら歩く姿が映る。
「――こうして友達と一緒にクレープを食べるのが、夢だったんだ」
今、私はずっと思い描いていた夢の世界の中にいる。
意味もなく喧嘩で人を傷付けることに溺れるのではなく、友達と何気ない時間を過ごし、何気ない話で笑って、一緒の物を食べて、一緒の想い出を共有する――、そんな周りの皆が当たり前のようにするありきたりな生活。
――今の私の姿は、道行く人の目にどのように映っているのだろうか。
「……一つが出来たんだ。残りも全部出来るよ。きっと」
その名のように優しい温もりが込もった柔らかな笑みを、悠陽は浮かべた。
悠陽の笑顔に、胸の中で温かいものがこみ上げてくる。その激情に、私は上手く言葉を紡げず、小さく頷くことしか出来なかった。
それから、私と悠陽の間に会話はなかった。
でも、その空間は不思議と嫌ではない。むしろ、心地のいいものだ。
私と悠陽は静かにクレープを食べる。
周りを見ると、穏やかな空気が流れていた。ここには、血に溢れた殺伐とした戦場なんてない。
私があれほどにも願っていた平穏が、ここにある。
――ああ、あの日あの町を引っ越してよかった。
もしあの時、私が決断を誤っていたら、きっと私は血祭まつりの道を外れることなく、同じ運命を歩み続けていた。
でも、今は違う。
私は右隣にいる悠陽を盗み見た。
悠陽は私が見ていることなんて気付いていないように、クレープを食べながら周りの景色を見ている。
私が何を考えているのか知らない悠陽を見ながら、私はふっと唇を綻ばせた。きっと悠陽は、どれほど私が感謝の想いを抱いているか分かっていない。
私がこうして普通に毎日を過ごせるようになったのは、悠陽のおかげだ。
再び道を誤ろうとしていた私を、自ら人に関わろうとしなかった悠陽が体を張ってまで留めてくれた。
私はつい一か月前の日――、初めて悠陽と会った始業式の日を思い出した。
教室に入るなりすぐに寝ようとする悠陽を考えると、私の前に立った悠陽も、今隣にいる悠陽も、全くかけ離れている。
あの時に比べて、少しは私も変われたように、悠陽も変わって来たのが明白だ。
そのことが、なんだか自分のことのように嬉しくて――、
「――さて、と。そろそろ陽も沈んできたから帰るか」
感傷に耽っていた私の耳に、悠陽の言葉が響いた。悠陽はすでにクレープを食べ終わっていて、椅子から立ち上がろうとしていた。
「あ、ちょっ! ちょっとまっへよ!」
私もあと一口で食べ切れる量だったから、一度で口に頬張って先を歩き始めた悠陽の背中を追う。少し走れば、あっという間に悠陽の隣に追いついた。いつものように悠陽は私の右隣にいる。
「……ねぇ、悠陽」
私は立ち止まり、隣を歩いていた悠陽に声を掛けた。悠陽も止まって、言葉を聞こうと振り向く。
「普通の女子高生って――」
言いながら、私はすぐに自分の言葉を頭の中で訂正する。
きっと普通の女子高生だから楽しいんじゃない。年齢なんて関係なく、いつでも楽しもうと思えば、楽しめるはずだ。
「ううん」と小さく言葉を挟み、
「――普通の生活って、こんなに楽しいんだね」
「――ああ、そうだな」
今までで一番柔らかい笑みを浮かべた。きっと悠陽が本心から同意してくれていると思っていることは、言葉からだけでなく、その顔を見れば一目瞭然だった。
私も、今悠陽と同じ顔をしている。血祭まつりの時には出来なかった顔を、自然に当たり前のように出来ている。
なんて幸せなんだろう。
昔の私に話しても、きっと驚いて信じてもらえないと思う。
私は昔の私に見せつけるように更に笑みを深めると、
「また一緒にクレープ食べようね」
過去の私では想像も出来ないような可愛いらしい約束を、悠陽と結んだのだった。




