縫:夢のあと
***
そして、軽快な電子音によって、私は夢から醒めた。
ぼうっとした寝ぼけまなこを、周りに当てる。私はどこにいて何をしているのか、今置かれている現実に思考が追い付かなかった。
「あら、やっと起きたのね、更科さん」
クスクスと笑う柔らかい声音に、私は顔を向けた。そこには、顔に皺を作りながら穏やかな笑みを浮かべる藤田先生。そして、私の右隣には手を伸ばしかけていた悠陽がいる。
――え。
急激に現実が私を襲う。私は反射的に体を起こし、席から立ち上がった。先ほどまで微かに脳裏に残っていた夢の残滓が、完全に消える。
直立不動する私を見て、悠陽は呆れるように溜め息を吐き、藤田先生は口元に手を添えてクスクスと笑っていた。
そうだ、私は再試を受けている最中だった。早めに問題を解き終わった私は、疲労感に負けて眠ってしまったのだ。
私は涎が垂れていないか不安になって、気付かれないように一度だけ手の甲で口元を拭う。
「目が覚めたなら、早く藤田先生に解答用紙提出しろよ」
そう言うと、悠陽は私の傍から離れ、藤田先生がいる教卓の方へと歩いて行った。
「あ、ううん。用事は終わらせてきたから、ゆっくりでいいのよ」
「い、いえ。今すぐ出します。すみません、いつの間にか寝てしまい……」
「いつも真面目に授業を受けている更科さんだもの。むしろ、更科さんの素顔を見れて嬉しかったわぁ」
藤田先生の言葉に私は顔を赤らめ、急いで机の上に置いてある解答用紙を提出した。
「はい、確かに受け取りました。これで今日の再試は終わりです」
藤田先生は私と悠陽の解答用紙を確認すると、席から立ち上がった。私と悠陽は藤田先生に、感謝の思いを込めて頭を下げた。再試で先生の時間を奪ってしまったのだから、当然のことだ。しかし、藤田先生は「あら、そんな畏まらないでよぉ」と空いている左手を扇ぎながら、教室の扉へと向かっていく。
「明日からもテストが続いて大変だと思うけど、頑張ってね。応援してるわ」
「あ、ありがとうございます!」
教室から出る直前、藤田先生は器用にウインクをして私たちにエールを送ると、廊下へと出て行った。私と悠陽は再び頭を下げて、藤田先生を見送った。
そして、悠陽と私が教室で二人きりになると、
「……で?」
私は悠陽に問いかけた。その声色は、自分でも分かるほど冷たく冷え切っている。
「で? とは……?」
「私の寝顔を見たのかって聞いているのよ!」
悠陽は顔を真っ赤にして、私から視線を逸らした。もうその態度は答えを言っているに等しかった。
「――ッ! 信じられない! 乙女の寝顔を見るなんて、最低っ!」
「べ、別に見たくて見たわけじゃない! 不可抗力だ!」
「むっ! 私の寝顔なんて見たくなかったなんて言うの?」
「……っ」
そこで悠陽は言葉を詰まらせた。
やがて、大袈裟に溜め息を吐くと、
「はぁ、俺が悪かったですよ。罰として何でも言うこと聞くので、仰ってください」
「何でも?」
私は悠陽の言葉を繰り返す。それによって、悠陽の顔が焦りの表情へと変わった。まるで口を滑らせたと言いたいように、顔を引きつらせている。
「ま――」
「じゃあねぇ!」
私は悠陽の言葉を強引に遮り、唇に指をあてて思案する仕草をする。悠陽は手で目元を押さえ、修正することを諦めたようだ。
私はニッコリと悪戯っぽく笑うと、
「私に連絡先教えてよ!」
「は?」
予想外の言葉に、悠陽が間抜けな声を漏らした。悠陽が何をお願いされると構えていたのか知らないが、私はそこまで無理難題を押し付ける女だと思われていたのだろうか。
私もブレザーの内ポケットにしまっていた携帯を取り出し、連絡先の項目を見る。去年の暮れに契約し直してから、そこにはパパとママ以外の情報は乗っていない。
松城高校の前に通った学校では、三ヶ月の間、必要以上に自分を閉じ込めてしまったから、誰とも連絡先を交換することなく転校してしまった。
私は寂しい連絡先の項目を見て自嘲ように笑うと、
「考えてみたら、私、まだ悠陽の連絡先知らないんだよね」
一転、朗らかな声で言った。
悠陽は私の言葉に少なからず戸惑いを覚えているようで、
「いや、そんなことで」
「何? 何でもって言ったよね」
「っ、分かったよ」
そう言うと、悠陽は観念したようにズボンのポケットから携帯を取り出した。私は緩んでいく頬を押さえながら、携帯を悠陽の前に差し出す。私の携帯は、連絡先を交換する準備は出来た。
「えーっと……、これでオッケーだ」
携帯の画面と格闘しながら、やっと連絡先の交換の準備を終えた悠陽が、私の前に携帯の画面を見せつけた。
これでお互いの連絡先の情報を読み取れば、交換が完了する。
「でも、いいのか? 俺なんかに連絡先教えて。他のクラスの男子には、今朝は遠慮するみたいなこと……」
「悠陽は私の友達でしょ?」
悠陽が一瞬動きを固くしたと同時、ピロンと交換が終了した合図が教室に響いた。私の連絡先の画面に、「諏訪悠陽」の名前が追加された。
私はその当たり前のことが嬉しくて、意味なく悠陽の情報の詳細を確認する。
「――これで終わりだな。まぁ、俺から連絡することはないと思うけど」
「ええ、何でよ! 寂しくなったら、いつでも連絡していいわよ」
「馬鹿なこと言ってないで帰るぞ。明日のテスト勉強しないと」
冗談半分、本音半分で言った言葉は、悠陽に受け止めてもらえなかった。
悠陽はポケットに携帯をしまうと、そそくさと帰る準備を始めた。
その悠陽の冷めた態度に私は頬を膨らませると、自分の携帯を操作し――、
「うぉッ!」
教室中に音が鳴り響いた。何の変哲のない、一般的な電話音だ。
その音に慌てた悠陽は、しまったばかりの携帯を取り出して画面を見る。そして、すぐに私に向けて訝しむような視線を送った。
「……何のつもりだよ?」
「べっつにィ? ただの気まぐれよ」
私はニヤニヤと口角を上げながら答えた。悠陽は戸惑うように、頭を掻く。
その悠陽を見ながら、ふっと綻ぶ口元に携帯を持って来て、
「――高校生になって初めて友達と連絡先を交換したから、嬉しくてつい……ね」
誰にも聞こえないくらいの声で、私は本音を漏らした。
「なんか言ったか?」
「ん? この茉莉様が、悠陽のために勉強を教えてあげようかと思ったんだけど……どう?」
「マジで! ぜひ頼むわ」
悠陽の声は明らかに上擦っていた。悠陽の行動の早さが、倍以上に早くなる。
その動きに私は笑いを漏らしながら、帰る準備を始めた。
そして、悠陽と私は、それぞれ自分の鞄を持つと、
「場所はどこがいい?」
「そうだな……。昨日ファミレスでお金使ったから、町の図書館なんてどうだ?」
「貧乏ね」
「節約家と言ってくれ」
軽口を交わし合いながら、夕陽が染める温かな廊下を歩き始めたのだった。