弐:初対面の大和撫子
***
俺が更科さんに初めて出会った時の話。
時は、新学期が始まる四月の頭まで遡る――。
新たな出会いを彷彿とさせる桜は咲き乱れ、爽やかな風が期待と共に人々の足を運んでくれる……そんな新たなステージへと上がる始業式の日。しかし、そんな春らしい春の日が始業式を迎えてくれたというのに、俺にはそんな感情は芽生えなかった。
松城高校で一年を過ごし、大体の同級生の顔を知った俺は、どうも変化とは掛け離れた否定的な感情を抱いていた。むしろ、もっと春の日差しを浴びながら、惰眠を貪っていたかった。
欠伸をしながら、校舎の玄関前に設置されている掲示板に貼り出されているクラス表を確認すると、皆がどこのクラスかで盛り上がっているところを背にして、俺は真っ先に二年三組に向かった。
クラス表を見たところ、知らない名前は結構あった。しかし、一度はこの校舎ですれ違ったことがあるはずなのだから、顔を見ればすぐに名前は一致するだろう。
いつの間に三階まで上がって来たのか、気付けば、二年三組の前に着いていた。外とは違って誰もいないのか、二年の廊下は静かだった。
やはりと言うか、二年三組の扉は、一年生の時と何も変わらなかった。同じ校舎なのだから、学年毎で造りを変える訳がない。
ちなみに松城高校は、一階に職員室、二階から一年、二年、三年と階数が上がっていく形だ。
俺は一呼吸挟むと、扉に触れた。
この扉を開ければ、何も変わらない普通の高校生活が俺を待っているのだ。新しい事なんて、簡単には起こらない。……仮に新しい事があったとしても、俺の生活を極端に覆すものなら、必要ない。
正直、今の生活で俺は十分満足していた。
授業中はノートを取る傍らに落書きもして、先生がたまに面白い話をしたら耳を傾けて、昼休みになったら友達と他愛のない話で盛り上がって、休みの日はゆっくり漫画を読んで、月曜日は重い腰を上げながら学校に行って週末にあったことを友達と話して、大型連休は目いっぱい自分の好きなように生きて――、目立たず、誰からも反感も買わず、ゆとりのある生活。
それが、俺が一年間で築き上げた高校生活だった。そして、これが至高だ。
俺の築き上げた普通で理想の高校生活が、この扉を開ければ待っているはずだ。
それは変わらないし、変えるつもりもなかった。
だから、何の感情も持たずに与えられた仕事をこなすように、目の前の扉を開けると――、
そこには、全く見知らぬ一人の女性がいた。
春の教室という景色に驚くように溶け込んでいる彼女を初めて見た時、大和撫子という言葉が自然と脳裏に浮かんだ。
周りの音や光は消え、この時だけはただ全てが彼女に注がれている気がした。体も硬直してしまい、動くことは出来なかった。
それほどまでに衝撃だった。
長く黒い髪、艶やかな唇、つぶらな瞳を併せ持つ彼女は、誰よりも早く教室に来て、口を綻ばせながら前を見つめていた。彼女の中には、俺と違って、きっと希望という文字しかないのだろう。
俺は心を奪われたのかのように、じっと彼女のことを見つめていた。
一番後ろの席に座っている彼女は背筋を美しく伸ばしており、堂々と春の日差しを受けていた。あの姿勢の良さなら、教壇に立つ先生から目立つだろうな、と余計な考えが浮かんだ。
そんなとりとめのない考えをしている時だった。
二年の廊下に響く男子生徒の笑い声をきっかけに、世界に音が舞い戻って来た。俺はその声で我に返り、逃げるように三組の中に入った。
一瞬、後ろの席に座る彼女が肩を震わせた気がしたが、俺は気付かない振りをした。
教室に入った俺は、すぐさま黒板に貼り出されている座席表を確認した。自分の名前を指でなぞるように見ていると、鋭い眼差しが背中に刺さっているような気がした。……いや、気のせいだ。後ろから視線を感じるのは、ただただ俺が気にしすぎているだけだろう。
そして、俺は自分の席を見つけた。後ろの席だったことに、ほっとした。これなら授業中も自由に出来るだろう。
しかし、そんな考えをしていた俺はすぐに先ほどの光景を思い出した。
――一番後ろの席に、間違いなくこれから美少女と称されるであろう全く見知らぬ女子が座っている。
そして、この女子は、美少女ゆえに俺の高校生活を脅かすのだ。
座席表で一番後ろにいる女子の名前を確認するため、俺は震える指で諏訪悠陽の名前に触れ、ゆっくりと左へスライドさせた。
あんな女子、俺は知らない。たまたますれ違わなかっただけだというのか。いや、この校舎で一年間過ごしていて、それはないはずだ。
あの整った容姿を、忘れる訳がない。
ならば、誰だ。
誰だ、誰だ。あの女子は一体誰なんだ――!?
隣の席の女子の名前は――、
「あ、あの!」
突如、教室に綺麗な声が響き渡った。彼女が声を掛けられる対象は、この場でたった一人しかいない。そのことが分かるから、俺は体中の全神経を強張らせた。
「私、更科茉莉と言います。この町に先日引っ越してきたばかりで、今日からこの松城高校に通うことになりました。どうぞ宜しくお願いします」
たった今確認した名前を、後ろの座席で立っている女性――更科茉莉、本人が名乗った。
緊張しているのか、更科さんは早口で簡単な自己紹介をすると、深々と頭を下げた。黒板の方に顔を向けているから実際に俺は見ていないのだが、所作の音で分かった。
しかし、更科さんの自己紹介を聞いても、俺は自ら言葉を発することはしなかった。ここで言葉を交わしたら、少なからず関係性が出来上がってしまうからだ。それだけは避けたかった。
更科さんと関係性を築かないために、このまま他のクラスメイトが入って来るのを待って、今の会話をうやむやにしてしまえばいい。誰かが来るのに、そう時間も掛からないだろう。
心に良心の呵責を感じたが、俺の安穏した高校生活のためなら、心を鬼にして無視しよう――、
「……あの、あなたのお名前をお伺いしても……?」
そう思っていた時だ。
何も答えない俺に痺れを切らしたのか、更科さんはおずおずと訊ねてきた。
俺は心の中で降参した。
質問を投げかけられては、流石に何も答えないのは不自然だった。それに、話しかけている人にこれ以上背中を向け続けるというのは、人として失礼に当たるというものだ。と、ようやく常識的な思考に辿り着いた。
観念するようにゆっくりと顔だけ振り向かせると、更科さんと目が合った。
こちらを見つめる瞳が、どこか潤んでいたのを忘れられない。
俺はむず痒さのあまりに顔を背け、立って返事を待つ更科さんを置いて自分の席に座った。更科さんは不安そうな顔を浮かべていた。
俺は更科さんをなるべく視界に入れないようにしながら、
「諏訪悠陽。……同い年なんだから、ため口でいいよ」
冷たく言い捨てると、更科さんに言葉の返す隙も与えずに、そのまま自分の机に逃げるように突っ伏した。腕の僅かな隙間から更科さんを盗み見ると、彼女は戸惑いを隠せないように、立ち尽くしていた。そして、徐々に顔を俯けていった。
その物憂げな表情に、俺は再び罪悪感を覚えた。
ごめん、更科さん。だけど、これが後々お互いのためになるんだ。だから、許してくれ。
俺は心の中で謝罪を入れた。その心の声が届いたのか、更科さんがゆっくりと椅子を引く音が聞こえた。
その音をきっかけに、罪悪感と共に余計な思考を未練なく心から引き離そうとした。
しかし、そうは問屋が許さなかった。
「あ、あの……これから始業式始まってしまいますよ?」
なんと、更科さんは俺のことを心配するような口調で話し掛けて来てしまったのだ。
「もしかしてお腹でも崩されましたか? 私、保健室まで連れていきましょうか?」
更科さんは返事をしない俺を案じて、労わるように優しい言葉を投げ続けた。しかも、それだけではない。次第には、恐る恐る俺の方に線の細い指まで伸ばしていた。
ちょっと待て。なんでそうなる!? 俺は下手に更科さんと関わることで無難な高校生活を壊したくないのに――、そこは無視でいいじゃないか。それに、始業式が始まるまで時間は十分ある! そもそもあんたはこの高校のことよく知らないだろ!
予想外の出来事に色々な感情が、心の中を暴れ回った。しかし、心の声は更科さんに届くことはない。
俺は苦肉の策として、気付れないよう肩身を狭めた。だが、そんなものは気休めにもならない。
かつてないほどに、俺は焦りを抱いていた。心臓の鼓動が早く早く高鳴っていた。
もし、更科さんが俺の体に触れてしまったら、その瞬間から、俺の築き上げた普通で理想の高校生活は音を立てて崩れるだろう。
そして、いよいよ更科さんの指が、俺の背中に触れる――そんな僅かな距離の所で、
「へっへー、いっちばん乗りー!」
二年三組の中をあまりにも場違いな声と共に、誰かが割って入った。
その大声に、俺は机に突っ伏したまま背中を震わせ、更科さんも物凄い速さで俺に伸ばしていた右手を引っ込めた。
「って、え、え、ええぇぇ! 超絶美少女がいるぅぅ!?」
ちょうど更科さんが手を引っ込めた時にこちら――いや、美少女である更科さんの存在に気付いたのか、教室に入って来た生徒は大袈裟なほど驚く声を上げた。
この大袈裟な声は、俺の数少ない友達である依田のものだ。いきなりの声で驚きを隠せなかったが、依田のおかげで、俺の高校生活は守られた。この時、俺は心の中で依田に親指を立てた。けど、発言内容はもう少し考えよう、と心の中で友人にアドバイスも添えてあげた。
そして、俺は気付かれないように、更科さんを盗み見た。
更科さんは自分の胸の前で、左手で右手を隠すように覆いながら、顔を赤らめていた。大々的に自分の容姿を褒められることに慣れていないのか、口をモゴモゴと動かしていた。
そう、更科さんは照れていたのだ。
しかし、そんな更科さんの態度に気付かず、依田と後ろに続く学友は、更科さんという初めて見る美少女を前にして、三組の扉の近くで盛り上がっていた。
更にこの騒ぎは二年三組だけに留まらず、何の騒ぎかと、他クラスの生徒も三組の前に集まって来てしまった。
人が集まることに比例して、更科さんの顔はますます赤くなっていった。せめてもの救いは、更科さんを高根の花のように思って、誰も三組の中に入って来ないことだろう。
やはり、俺の予想は正しかった。
更科さんは、周りが放っておかないほど、綺麗な容姿の持ち主だ。
もしそんな更科さんと、春の陽光が差し込む朝の教室で、二人きりで盛り上がっていたら俺はクラス中、いや学校中を敵に回していただろう。
目の前の現場を見れば、その未来予想図に至っていたことは容易に断言出来た。
これで俺は、普通で理想の高校生活を守ることが叶ったのだ。
しかし、まだ事態は収拾していないとでも言及されるかのように、左横からチラチラと何度も視線が刺さって来た。更科さんが、俺に無言の助けを求めていたのだ。
この教室の中にいるのは、俺と更科さんだけだ。転入して来た更科さんにとって、この時支えとなるのは、少なくとも互いに名前を知っている関係である俺だけだった。
けれど、俺は更科さんに助け舟を出すことなく、始業式が始まるまでこのままの姿勢で眠り始めた。揉め事になるのは嫌だし、勘違いされて、俺の高校生活が狂ってしまうのはもっと嫌だ。
そんな焦燥感と共に、目を閉じた。
この机の寝心地は一年の時とは変わっていなかった――。