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綻:皆が親しむ大和撫子

 ***


 そして、当たり前だが、明けない夜はなく、次の日は当然やって来る。


 五月だというのに、身を焦がすような熱い日差しを受けながら、俺はベッドの上で仰向けになりながら頭を押さえていた。


「あぁ、猛烈に学校に行きたくない……」


 俺は昨日のことを思い出す。夕暮れの公園で更科と交わした言葉の数々――、それが今俺のことを辱めて貶めている。

 なんであんな恥ずかしいことを言ってしまったのだろう。これから、どんな顔をして更科に会えばいいんだ。

 俺は内側から溢れ出す感情を抑えきることが出来ず、ベッドの上でゴロゴロと転がった。そうでもしなければ、正気を保てそうになかったのだ。


 あぁ、穴があったら埋もれてしまいたい。


 ベッドの上で悶えて、一体どれくらいの時間が経っただろうか――、時間の感覚を失った頃、現実に引き戻されるように俺の部屋の扉がいきなり開いた。


 俺は驚いて、反射的に上半身を起こし、開いた扉を見ると、


「さっきからドタバタうるさい! 早く学校行きな!」


 眉間に皺を寄せた母親が立っていた。


 母親に怒られた俺は、渋々と学校に向かったのだった。


 ***


「――んで、はるはるは教室に入らないで、朝っぱらから何やってるの?」


 俺に声を掛けて来たのは、俺の数少ない友達である依田だ。


 あれから嫌々ながら教室の前まで来た俺は、教室に入らずに中の様子を窺っていた。傍から見たら変人だろう。

 実際、それで依田に声を掛けられてしまった。


「今大事な局面にいるんだ。ここで間違えると、俺の今後の高校生活に多大な影響が及ぶ」


 俺は視線を変えないまま、依田に真剣な口調で答えた。


「――ああ、頑張って」


 依田はよく分からないと言いたげに首を傾げながら、一人教室に入って行った。お調子者――よく言えばムードメーカ的な存在である依田は、教室に入るなり、まだ俺が二言くらいしか話したことのないクラスメイトに声を掛けていた。確か、名前は見山君だった気がする。そして、次第に依田と見山君の周りに数人の男子生徒が集まって来る。


 俺はそんな依田を見ながら、少しだけ物思いにふけった。

 恥ずかしくて言葉には絶対にしないが、依田には感謝すべきことがたくさんある。入学してから今まで、高校生活を完全に孤立せずに送れていたのは、依田という友人の存在が大きいだろう。


 ……まぁ、そんなしんみりとした話は置いといて、問題は別だ。


 俺は自分の席――の隣の席を改めて見た。そこには席の持ち主が座っている様子は、変わらずになかった。カバンもぶら下がっていないし、まだ来ていないのだろう。

 いつもは誰よりも早く来ているのに、珍しい。

 けれど――、更科がまだ来ていないことに、今回ばかりは、よし、と小さく握り拳を作った。


 更科がまだ来ていないのなら、話は別だ。


 すぐに自分の席に座って、ふて寝をする。そうすれば、更科と言葉を交わす必要がなくなり、気まずい思いをしなくなる。

 これなら完璧だ。完璧な計画だ。我ながら、その隙のない計画に恐ろしさを感じてしまう。


 俺は一度教室から視線を外し、廊下を見た。件の顔は、まだ見えない。


 誰にも気付かれない速さで自分の席に座るために、目を閉じて一度深呼吸を挟む。

 そして、ゆっくり目を開き、目標である自分の席に狙いを定める。


 よし、行くぞ! と心の中で意気込んでから一歩踏み出し、教室に――


「おーはよっ! 悠陽っ!」

「うわあぉ!」


 入ろうとした瞬間、上機嫌な声と共に背中を叩かれた。


 最近聞き慣れた声。ふんわりと漂う甘い香り。本人が思っている倍以上の威力があるであろう平手――、俺は恐る恐る後ろを振り向いた。


 そこにいたのは、


「あはは、何その驚きよう! めっちゃウケるんだけど」


 俺が今一番会いたくなかった人物、更科茉莉その人だった。


 更科は俺の反応が面白かったのか、上機嫌に笑っていた。そして、その廊下に響き渡る更科の笑い声に、クラス中の注目が俺と更科の二人に集まったのが分かった。なんなら、二年の廊下にいる人全員が視線を集めている。


 俺は逸る心臓を押さえながら、


「っ、な、何で今日はこんな遅いんだよ?」

「ん? 昨日は良い運動が出来たから、ぐっすり眠っちゃってたの。いつもより一時間以上遅く起きた時は、さすがに驚いたけどね」


 更科はあっけからんと笑いながら答えた。


 俺は昨日のYOMIでのことを思い出す。

 四十一人を相手に奮闘して見事に勝利した更科――、傍から見ていた一般人の俺には、あれを良い運動と呼べる更科に対して、何と言葉を掛けていいか分からない。


 そして、俺と更科を置いて、何故か周りのクラスメイト達は盛り上がっていた。歓喜に満ちる声、悲愴感に溢れる声――俺と更科にはよく分からないが、放っておくのが吉だ。きっと関わると、ろくでもないことが起こる。


「でも、久しぶりによく寝たわ。悠陽のおかげね」


 周りが騒いでいることに無頓着な更科は、訛った体にエンジンを掛けようと伸びをする。その無防備な姿に、クラスメイトが息を呑むのが分かった。


 俺は状況を悪化させたくなくて、


「ああ、さいですか」

「あ、ちょ」


 適当に相槌を打つと、教室に入った。途中で言葉を呑んだ更科も、俺の後に続いて教室に入る。


 俺は自分の席に座ると、ほっと一息吐いた。

 良かった。思ったより、普通に話すことが出来た。更科の前に立つと、昨日のことを意識して言葉が出なくなってしまうかと思っていたが、そんなことはなかった。


 しかし、更科本人はそうは思っていないようで、


「ねぇ、今日の悠陽……なんか余所余所しくない?」


 席に着いた途端、訝しむような目で睨まれた。心なしか、子供が拗ねるように頬を膨らませている。


「べ、別にそんなことねーよ。俺はいつも通りだってーの。更科の勘違いじゃねーの?」

「ほら、それ。昨日は茉莉って呼んでくれたのに」


 隠すことなく更科に真っ直ぐ言われて、俺は顔を紅くした。忘れようとしているのに、何故掘り下げるのか……。


「そ、それは――」

「なんだと!」


 俺が弁明をしようとした時だった。俺と更科の会話に耳を傾けていたクラスメイト達が、俺達の方に声を荒げながら近寄って来た。


「だ、大丈夫? こいつに変なことされなかった?」

「何かあったら私たちに言うんだよ!」

「病弱な女子を襲おうとするなんて、男の風上におけない奴だな! 諏訪!」

「諏訪氏! 見損なったでござる!」

「本当ね。いつも教室の後ろで何やってるのかしら」


 次々に更科のことを心配する声を上げるクラスメイト達。その傍らで、事実とは掛け離れた疑惑を一斉に突き付けられる俺。

 おいおい、俺はクラスメイト達にどんな野獣だと思われているんだ。


 俺はあらぬ方向に噂が発展しそうな予感がして、依田に視線だけで助けを求める。こういう時、依田は機転を利かせてくれるのだ。伝われ、伝わってくれ! 


 依田は俺と視線が合うと、一度だけ溜め息を吐き、


「それより、更科さんはもう学校来て大丈夫なの?」


 更科に声を掛けた。


 依田の話題の転換によって、自然と更科の体調の方に話題が逸れてゆく。俺は依田に向けて片目でウインクをするが、取り合ってもらえなかった。更科に声を掛けた依田は、もう俺のことは眼中にもなく、更科に夢中になっている。

 どうやら依田自身も、昨日更科が来なかったことを本当に心配していたようだった。


「あ、うん――」


 更科は返事をしようとするが、


「そうだよ! もう元気になった?」

「昨日気になってテストに集中できなかったんだよ?」

「僕達、いつも更科さんの笑顔に力をもらってたんだよね。だから、昨日もやる気が起こらなかったし……」

「ほんとそれ! 更科さんはうちらのオアシスっていうかぁ」


 それよりも早く、周りのクラスメイト達が一斉に更科の心配をした。


 その言葉の数々に、更科は顔を赤らめて、言葉を紡ぐことが出来ないでいた。

 きっと更科は今までこんな風に周りのクラスメイトから心配されることや関心を持たれることがなかったから、どう反応していいか分からないのだろう。


「一気に話して更科さんを困らせるなって。まだ風邪治ったばっかりなんだから……って、話題を作った俺が言うのもなんだけどさ」


 そこで空気を読んだ依田が、皆に注意喚起する。その言葉に反論する者は誰もいない。


「更科さん、今更かもしれないけど、学校生活でも諏訪のことでも、困ったり悩んだりしたら遠慮なく話してね!」

「あのな、さっきから聞いてれば、俺のことってなんだよ。むしろ、俺は迷惑かけられてる側だっつーの!」

「いや、更科さんが迷惑かけるなんてありえない」

「更科さんを貶めようとするなんて、サイテー」

「ぐッ」


 俺が反論をすると、皆真面目な顔をして俺の言葉を否定した。俺は二の句を継げず、ただ黙っていた。


 このことを否定しようとするならば、更科の過去の話を持ち出さなければならない。しかし、その選択肢は絶対にない。

 更科がその話題を好まない事を知っているし、更科は昨日の一件で血祭まつりと一区切り付けられたはずだ。

 ここでわざわざ更科の過去の話を持ち出すのは、あまりにも不徳というものだ。


 だから、俺は助け舟を求めるように更科のことを盗み見た。

 もうここまで来たら、当人からの言葉でないと状況は覆らないだろう。黙ってばかりいないで、更科からも何か言ってくれ。


 しかし、俺が助け舟を求めた更科は、今は下を俯きながら肩を震わせていた。不思議に思って、更科のことを見続ける。クラスメイト達は更科の様子に気付いていないのか、互いに話し合って盛り上がっていた。


 そんな中、更科は下に向けていた顔をゆっくり上げて――、俺と視線が噛み合った。一瞬どきりとしたが、チャンスだと思った俺は必死に口をパクパクとさせ、更科に意思疎通を図る。


 すると更科は、


「――ッぅ! もうダメ……、アハハ! みんな、ありがとう!」


 我慢の限界とばかりに、決壊したように声を上げて笑った。そして、真っ直ぐに感謝の言葉も併せて告げる。今までのお淑やかで少しだけ近寄りがたい雰囲気ではなく、朗らかに親しみを感じる声で笑っている。


 クラスメイト達は普段見せない更科の姿に、キョトンとした顔を浮かべていた。俺も一瞬呆気に取られた。


 俺にとっては、今隣にいる更科はいつも通りの普段と変わらない更科だ。しかし、今まで猫を被っていた更科が、皆の前でこんな風に笑顔を見せるとは思わなかった。


 更科は笑い過ぎて、零れ落ちた涙を細い指で拭うと、


「はぁ……うん。悠陽に何かされたら、遠慮なく皆に言うね!」


 子供のような無邪気な笑みを浮かべて言った。


 クラスメイト達は更科の笑顔に心奪われたように、黙って見つめている。


 俺は僅かに口角を上げると、


「俺のことより学校生活のこと聞いた方がいいんじゃねーの?」

「何よ、悠陽。文句でもある訳?」

「いや、友達がいない事実を心配して言っただけだ。一ヶ月経っても、この学校のこと分かってないだろ?」

「な、なんですって!」


 クラスメイト達は俺と更科のやり取りに、どう反応していいか分からないという表情をしていた。クラスメイト同士で互いに顔を見合わせる。


 すると、曇らせていた表情をすぐに立て直し、


「ねぇ、更科さん! よかったら今日一緒にお昼ご飯食べない?」

「あ、あの! 連絡先教えてください!」


 次々と更科に言葉を掛けた。どの言葉も、更科茉莉という大和撫子に接するような余所余所しいものではなく、更科茉莉という一クラスメイトに接しようとするものだった。


 更科はクラスメイト達の言葉に笑みを浮かべると、


「ほんと!? 嬉しい! あ、でも、まだ仲良くない男子に連絡先はちょっと……」

「で、ですよね!」


 更科の言葉に、あわよくばを狙っていた男子――確か名前は加藤君だ――は、照れ隠しに頭を掻きながら声を上げて笑った。

 その姿に、皆も笑っている。


 俺は頬杖を突きながら、その様子を微笑ましく見つめていた。


 クラスメイト達も、本当は更科に近づきたかったに違いない。

 けれど、自分たちで大和撫子という高嶺の花を勝手に作ってしまったから、近づけなかっただけなのだ。だが、その幻想も終わりだ。これで彼らも更科は普通の女子高生だということに気付いただろう。


 だから、今朝はいつもよりも更科とクラスメイト達の距離が一歩縮まった。このせいで俺の周りは更に騒然とするようになったのだが、今はそれが悪い気はしなかった。


「ほら、お前たち何騒いでいるんだ。席に座れー」


 そこに数学の授業をしに来た阿部ちゃんが、面倒くさそうに俺達を注意する。阿部ちゃんの声に、クラスメイト達は各々自分の席に戻り始めた。俺と更科の周りから去って行く時、クラスの女子たちは親しみを込めて更科に手を振っていた。それは、まるで友達にするようにごく自然な流れだった。

 更科はどうしていいか分からず、大袈裟なくらい顔を縦に振っている。その顔は、誰が見ても明らかなほど綻んでいた。


「……良かったな――、茉莉」


 俺はそっぽを向きながら、更科――茉莉に言った。茉莉は目を見開いて、俺のことを見つめる。


 そして、茉莉の顔は驚きから微笑みに変わり、


「うん、ありがと」


 嬉しそうに小さく言葉を紡ぐと、下を向いた。


 茉莉の言葉を聞いた俺は頬杖を付きながら、自分の頬が緩んでいくのが分かった。

 素直に礼を言われたのが嬉しかった――のもあるだろう。しかし、それよりも今まで苦労して来た茉莉が、ありのままの姿で皆に受け入れられることが何よりも嬉しかった。


 そう思っていた時、


「あ、更科と諏訪」


 思い出したように言う阿部ちゃんの言葉が、教室に響き渡った。

 名前を呼ばれた俺と茉莉は、同じタイミングで阿部ちゃんの方に向く。


「お前ら二人は今日から今週末の放課後にかけて、五教科分のテストをするから忘れるなよ」

「へ?」


 素っ頓狂な声を上げた俺は、隣に座っている茉莉のことを見た。茉莉は俺とは別の意味で顔を傾げている。それはまるで何で忘れてるの、と問い詰められているようだ。


「へ、じゃねーよ。昨日お前ら二人だけテスト受けなかっただろ。それの再試をやるの」


 わ、忘れてた! 茉莉に公園で置いてけぼりにされてから、ずっと羞恥と腹痛に悩まされていたから、すっかり頭の中から除外されていた。


 頭を抱える俺、その一方で茉莉は余裕の笑みを浮かべていた。いつテストがあったとしても、良い点をキープ出来るという自信があるのだろう。さすがは優等生だ。


 対して俺はそこまで自信がないことに加え、今回のテストで九割を獲ると約束してしまっている。つまり、追い詰められていて、余裕はない。


 ――そして、これから俺と茉莉の四日間に渡る再試が始まるのだった。

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