弐拾漆:夕陽の色、祭りの音
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YOMIを後にした俺と更科は、その後行く当てもなくぶらぶらとしていた。
秦野高校の人達の見送りを受けると、学校に戻る訳にもいかなかった俺達が最初に向かったのは、ファミレスだった。秦野高校の人達と和解を終えた時間が、もう昼を過ぎていたのだ。そこでタイミングを見計らったように腹を鳴らせた俺を気遣って、更科がご飯を食べに行こうと誘ってくれた。
向かい合って座った俺達は、それぞれハンバーグ定食と唐揚げ定食ごはん大盛りを頼んだ。どっちがどっちを注文したかは、更科の面子を立てるため、あえて言及はしない。
ご飯を食べて、一息ついた俺は、更科に明日の放課後から再試があることを伝えた。更科は何食わぬ顔を浮かべていた。いつもテストで百点を取る女だ、きっと今回のテストも余裕なのだろう。俺は九割取る約束を阿部ちゃんと交わしてしまったことを伝えると、更科は頬杖を突きながら、勉強を教えてくれた。更科の教え方は、意外に分かり易かった。そのことを素直に更科に伝えたら、何故か顔を真っ赤にして怒られた。
それから、ファミレスのランチタイムが終わる三時に合わせて、俺たちは店を出た。何でもランチタイムの後も続けて残るためには、追加注文をしなければいけないそうだ。そんなにお金の余裕があるわけではない俺たちは、すぐに会計をした。
そして、行き着いた果てが、秦野町にある公園だ。ここなら、松城高校の生徒に見られることもないだろう。公園に着いてからベンチに座ると、俺達の間に言葉はなかった。いつもの教室のように、俺の左隣に更科がいて、更科の右隣に俺がいる。お互いに何を考えているかは知らない。けれど、この時間を嫌だとは思わなかった。
人々の話し声、風が吹く音、鳥の鳴き声、花の香、木々のざわめき、飛行機が空を渡る音――それら全ての物が、生まれて初めて触れるように、新鮮に感じた。
どれくらいの時間が経っていたのだろう。
いつの間にか、学校を終えた小学生たちが陽気に駆けまわっており、もう夕暮れ時に差し掛かっていた。
その時だった。
「――まさか、悠陽に助けられるなんてね」
唐突に更科が言葉を紡いだ。俺は更科の横顔を見つめた。先ほどのYOMIのことを思い出しているのだろうか、その顔は真剣そのものだった。
そして、俺の方を向くと、
「ありがとう、助かったわ」
満面の笑みを浮かべて、更科は素直に言った。
夕焼けに照らされる更科の顔は、美しく映えていた。
その姿に、俺の顔が紅くなっていくのが分かった。だから、俺は勢いよくそっぽを向いた。直感的に更科の顔を見続けてはいけないと思ったのだ。
俺はなるべく平静を装えるように一呼吸入れると、
「な、何もしてねーよ。……それより、助けられたのは俺の方だろ」
「ううん、悠陽がいなかったら――、私は昔の過ちを繰り返していたと思う」
俺は更科の言葉を聞いて、振り返った。更科は組んだ両手を見つめている。両手を見つめる更科の顔は、複雑な表情をしていた。
直接拳を振るわなかった安堵と、一人だった時のもしもへの恐怖。
いつの間にか、俺の顔の熱も冷めていた。
「……やっぱり私ダメね。何にも変わらない」
「――」
「ごめん、こういう話じゃなかったよね。忘れて」
何も言えない俺に気を遣った更科は、気分を入れ替えようと首を横に振る。更科の長い髪が、右へ左へと揺れた。
そして、もう大丈夫、と言わんばかりに更科は俺に笑みを向ける。その向けられた笑顔は儚くて、弱々しかった。
そんな更科の表情を見ることが耐えられなくて、俺は膝の上で両拳を握り締めた。
どうしたら、更科を力づけられるだろうか。答えは分からない。けれど、一つだけ言わないといけないことがある。
「……そんなことねーよ」
「――え?」
「更科がダメだなんてこと、ない」
更科は驚いた顔を浮かべて、俺を見つめた。それ以上の言葉を持ち合わせていなかった俺は、更科と目を合わせずに、下に向けていた顔を空へと上げた。まるで助けを求めるように、上を向く。更科もつられて空を見上げた。
その目に、淡い光が差し込む。
――夕陽が美しかった。
俺は何も言葉が出ずに、ただただ目の前で自然に広がっている景色に心を奪われていた。
いつ頃からだろう。
正確な時期は憶えていないが、確か小学校高学年の時から俺は自分と同じ響きを持つ美しい夕陽を、まじまじと見つめることが出来なくなっていた。
全ての人から疎まれる俺と、全ての人から親しまれる夕陽。
当時小学生だった俺は、同じ名前なのにどうして違うのかと妬み、夕陽と向き合わなくなった。
冷静に振り返ると、なんて幼かったのだろうか。けれど、小学生の頃の決意は案外固く、今の今まで続いていた。
だから、知らなかった。今、初めて知った。
夕陽が染める空は、こんなにも美しかったのか。
全てを覆うように、優しく、温かく、この世界を照らしている。
下ばかり見ていては分からなかった世界が、上には果てしなく広がっている。
俺は取り繕うことなく、ふっと自然に口元を緩めると、
「……まぁ確かに、更科が最初やろうとしていたことは間違っていたのかもしれない。でも、俺の仇を討とうと思ってのことじゃん。俺は単純に嬉しかったよ。……だからさ、ありがとう」
抱いている想いを、ありのままに伝えた。俺の言葉に反応して、更科は空から視線を俺に移す。俺は気恥ずかしさもあって、頬を掻いた。
「それに――、自分自身が変わらないって言ってたけど、あの場には血祭まつりなんて伝説の不良はいなかった」
俺は再び空を見上げながら、話を続ける。
「だって、そうだろ? 血祭まつりだったら、何も考えずに辺り一帯を血の海にして終わりだったかもしれないけど――、結果は誰一人として殴りさえもしていなかった」
事の発端となる二週間前のことを思い出す。商店街の路地裏で、初めて更科の素顔を知った時のことだ。あの時も、同じような夕暮れ時だった。でも、あの日の夕陽がどれほど美しく燃えていたのか、俺は知らない。あの日の更科は、秦野高校の三人――海野と河田と池村を見るも無残なほどに圧倒していた。
しかし、先ほどのYOMIでは誰にも傷を与えなかった。
もう更科も自分自身で認めてあげてもいい頃だ。
「俺には友達想いの更科茉莉しか見えなかったよ」
――更科茉莉は、不良の道を完全に離れ、新しい道を歩き出している。
過去の更科が、どんな過ちを犯したのかは知らない。
けれど、頑張って普通の女の子に戻ろうとしている更科を見て、俺は無性に応援したくなっていた。
いつしか更科茉莉の行動は、諏訪悠陽という人間をも変えていた。
それなのに、更科自身が変わっていない訳がないだろう。
俺はありったけの感謝の想いを込めて、屈託のない笑顔を更科に向けた。
「……ッ」
更科と目が合うと、更科は息を呑んだ。そして、そのまま視線を茜空に移す。
更科は無言だ。何も話さない。けれど、ちゃんと俺の想いを受け止めてくれていて、更科は鼻を啜っていた。
やがて、更科は意を決したように息を深く吐く。そして、涙が溜まった瞳で、鋭く俺のことを睨み付けると、
「――私より馬鹿のくせに」
唇を尖らせながら、拗ねたように言った。
「っ、上からの物言いですみませんねぇ」
俺は精いっぱいの悪態で言葉を返す。
その後の言葉はなかった。俺も更科も互いにそっぽを向いて、沈黙している。
すると、時間が経ってから、
「ふふっ」
「ははっ」
どちらともなく噴き出してしまった。
「あはは」
「ハハハ」
そうなると、捻った蛇口から溢れる水のように笑い声が響き渡る。止まらない。止められない。
公園を歩く人たちが、稀有な物を見るように俺達のことを眺めている。それでもよかった。
ただこのありふれた空気が、愛おしく感じられる。
「――あ、そうだ。そういえば、あの時、私のこと名前で呼んだよね?」
笑い過ぎて涙を流す更科は、目を擦りながら俺に問いかけた。笑っていた顔が、一気に引きつる。同時に、俺の体が一瞬にして強張るのが分かった。
「……気のせいだろ」
「ううん、私この耳でちゃんと聞いたもん」
「……」
精いっぱい誤魔化したつもりだったが、更科を騙し通すことは出来なかった。
ああ、その場の勢いだったけど、確かに名前を呼んだ。呼びましたよ。
恥ずかしくて顔を赤らめる俺に対して、更科は思い詰めたように下を向き、
「その名前、好きじゃない。みんな、血祭まつりって言うんだもん。だから、私の名前はもう――」
俺は更科の言葉の途中、申し訳ないと思いながらも笑った。更科の不安も吹き飛ばせるように、思い切り笑う。
更科はキョトンとした表情を浮かべながら、俺のことを見つめた。
きっと茉莉と呼ばれると、過去が思い出されるのだろう。だから、その名前を聞きたくない、と自分の名前と一緒に過去を閉じ込めようとしている。
俺も同じだ。さっきのさっきまで同じだった。
悠陽という名前を聞くと、あの美しく輝く夕陽のように認められることはないということを思い知らされ、その名前を聞きたくなかった。
けれど、俺の名前を優しく、温かく呼んでくれる人がいたから。
そして、いつも悠然と包み込む優しい夕陽を見たから。
――俺は自分の名前に対して、少しだけ愛着を持てるようになった。
俺は今左隣に座っている更科を見つめた。真剣に。でも、それでいて余裕に満ちたように。
「考え方、変えてみようぜ」
「考え方……?」
繰り返す更科の言葉に、小さく頷く。
「……俺さ、夏祭りとかって好きだったんだ」
「おまつり?」
「そう。昔は祭りがある度に、無邪気にはしゃいで、走り回って――。ありふれたはずの一日でしかないはずなのに、心の中で輝き続ける大切な一日になって、純粋に楽しかった」
俺は勿体ぶるように言葉を区切る。
俺は、血祭まつりも大和撫子も知らない。今目の前にいるのは、普通の女子高生と何も変わらない、ただの更科茉莉だ。
だから――、
「俺は、茉莉といると楽しいよ」
「――ッ!」
嫌な思い出は、楽しい思い出で塗り替えてしまえばいい。大事なのは過去じゃない。
今――、この瞬間なのだ。
「祭で過ごす時は特別な日に感じられるように、茉莉といると俺の一日はかけがえのないものになっていく」
全ての労苦を終えた頃――、夕陽が世界を照らし始めた時、人々は楽しみにしていた祭りに向かって足を運ぶ。子供も大人も誰もが笑顔になるような、知らない人とでも近くなれるような、そんな特別で優しい時間。
言いながら、そんな感覚が思い出された。
俺は在りし日の過去を思い出す。どれだけ毎日を、今という時間を無駄にして生きてしまったのだろうか。
無難な高校生活は、楽だ。だから、俺も好きだった。
でも、それは何もしていないことだ。
本当の楽しみは、行動して得ることこそにあるかもしれない。
少なくとも、今この瞬間の俺は、素直にそう思えた。
――そっか。俺は今を楽しめているんだ。だから、世界が違って見える。
縛られた過去から抜け出して、俺は今と向き合えるようになったのだ。
それは、俺の隣にいる更科――否、茉莉のおかげだ。
しかし、茉莉からの反応は何も返って来なかった。茉莉はただ固まって下を向いているだけだ。膝の上に置いていた手は、縋るようにスカートを握り締めていた。
俺は気になり、茉莉の顔を覗き込んだ。
茉莉の顔は夕陽も驚くほどに、真っ赤に染まっていた。
「……? なんか顔赤くない?」
「……っ! ば、馬鹿ぁ!」
「ッ」
茉莉は容赦なく俺の腹を殴った。その拳の衝撃が重すぎて、呼吸が上手く出来ない。腹が痛すぎて、反射的に蹲ってしまう。
「こ、これはゆうひのせいなんだから! もうゆうひなんて知らない!」
慌てふためく茉莉は、痛みで蹲る俺を放って、ベンチから離れていった。
茉莉の顔が紅かったのは、茉莉の言う通り、きっと夕陽のせいだ。茉莉自身が言うのだから、間違いない。
いや、それよりも、思ったより腹が痛い……。内臓が破裂していても不思議ではないほどに痛みが増している気がする。これ、救急車必要じゃね?
茉莉の駆ける足音が、どんどん遠くなっていく。
痛む腹を押さえながら、俺は思う。
――……やっぱり。こんな痛みが伴うなら――、
「前言撤回……、お前といると俺の理想の高校生活を送れないから、やっぱ嫌だ」
大和撫子のように綺麗で長い黒髪を乱しながら走り去る茉莉の背中に、俺は負け惜しみのような一言を放ったのだった。




