弐拾陸:これが望んでいた結末
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更科の強さに打ち拉がれた霜杉は、両膝をYOMIの床に着けて身動きを取らなかった。
もう霜杉には手が残されていないはずだ。そのことを更科も仮面を外して素顔を晒した俺も分かっているから、静かに霜杉のことを見つめていた。
「――ハハッ」
霜杉が小さく笑い声を漏らす。
「ハハハハ!」
一度霜杉の口から笑いが漏れ出すと、まるで壊れたスピーカーのように歯止めなく笑い始めた。YOMIの空間に、霜杉の笑い声だけが反響する。
そして、ある程度笑うと、尻を地面に下ろし、両手の平を地面に着けると、
「はぁーあ。まさかお前の正体が本物の血祭まつりだったなんてな。どうりで俺らが束になっても勝てねーわけだ」
霜杉は天井を見上げながら、敗北宣言を告げた。その声音には、先ほどのような怒り狂った様子はなく、穏やかな声音だった。スポーツ選手が試合中に自分の力を全て出し切った後のように清々しい。
しかし、そんな霜杉を更科は無言で見つめている。更科が纏う雰囲気は真剣そのものだ。堪忍してくれ、と言わんばかりに霜杉は右手で自分の髪をかき上げた。
「やっぱ天下を取って、この国を変えてやろうなんて、夢のまた夢ってことか」
そう言う霜杉の表情は、どこか切なそうな印象を受けた。方法は間違っていたが、霜杉も本気だということが窺える。
どのような生活を送って何を感じて、そのような思考に至ったのかは分からない。
けれど、霜杉は自分の現状に満足できず、本気で国を変えようとしていた。
更科は霜杉の言葉を聞くと、呆れたように溜め息を吐きながら、
「馬鹿なこと言ってないで、もっといい方法で世界を変えようとしなさいよ」
今まで被っていたキラチューのお面を外した。更科の素顔が明らかになる。
霜杉は一瞬、大和撫子と呼ばれる更科の顔に驚きの顔を浮かべていた。周りにいる秦野高校の人達も、例の三人以外、目を見開いている。
それもそうだ。こんな大和撫子みたいにお淑やかそうな女子高生が、あの伝説の血祭まつりの正体だとは誰も思わないだろう。
更科と霜杉の視線が交差する。更科の真っ直ぐな視線に耐えられなくなった霜杉は、更科から視線を背けて、床を見つめた。
霜杉は苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべると、
「……じゃあ、他に何があるんだよ?」
小さく拳を握りながら言った。
霜杉は喧嘩にも頭脳にも優れていた。秦野高校に入った彼は、喧嘩の能力を持って秦野高校で下克上を成し遂げた。その下克上を成した時期は、じめじめとした空気が満ちる梅雨だったという。
ならば、仮にその二か月の間、別の方法で秦野高校を変えようとしていたら。そして、変えることの出来ない現実に絶望し、暴力の虜になってしまったとしたら。
俺は秦野高校の事情は知らない。これは仮の想像に過ぎない。
でも、そう予想を立てるには十分すぎるほど、今の霜杉は弱々しく、更科に縋ろうとしているように見えた。
伝説の不良と呼ばれる血祭まつりなら、的確な答えを与えてくれるだろう――、そう霜杉は判断して、質問をぶつけたのだ。
だから――、
「そんなの、私はあなたじゃないんだから知らないわ。そこは自分で考えて」
更科の素っ気ない答えは、霜杉の予想だにしていない物だった。
一縷の望みであった蜘蛛の糸が切れてしまったように目を見開かせて、霜杉は逸らした視線を再び更科に当てた。
更科は変わらずに真剣な表情を浮かべている。
私には関係ない、と突き放された。これ以上答えを得られない。そう判断した霜杉は、歯を食いしばると、
「……ッ、わっかんねーよ! 何もねーよ! 俺だって散々悩んで、手っ取り早い方法で――」
「そうね。――でも、争いじゃ何も変わらない」
幾重の戦場を駆け抜けた更科の言葉だからこそ、繊細に紡がれた一言でも実感が籠って響いて来る。優しく、深く、そして痛く、心に響く。
「私も昔は大切なものを守るために手を上げるならいいと思ってた。でも、それは違った。私の拳が掴んだのは抜け出すことの出来ない迷宮への扉で、大切なものは私の手から落ちていた。でも、迷い込んだ私の前に、一筋の光が差し込んで――……」
更科は、その先の言葉を紡がない。
一度だけ俺のことを見ると、すぐに目を逸らし、更科は口をきゅっと結びながら微笑んだ。更科はそのまま静かになってしまった。その艶やかな唇は、弧を描いて結ばれたまま綻ぶことはない。
沈黙に耐えかねた霜杉は、荒立つ心を静めようと息を吐くと、
「……なら、最後に一ついいか? 何故、こんなゲームなんてまどろっこしい真似をした? 血祭まつりなら俺らなんて一瞬で倒せ――」
「ごめんなさい」
「……は?」
更科の予想外の答えに、霜杉は呆気に取られ、間の抜けた声を漏らした。気付けば、更科は頭を下げている。
霜杉は更科が頭を下げている理由を、理解出来ないだろう。
「私が何も考えなしに行動して、あなたの仲間を傷つけてごめんなさいって言ったの」
状況を理解出来ていない霜杉に、顔を上げた更科は一から説明する。説明している時の更科の顔はどこか赤くなっており、心なしか瞳も潤んでいるようだった。天井を見ながら、髪を弄る。
突然の謝罪に、秦野高校の人達は互いに顔を見合わせていた。どのような態度を取っていいのか、分からないでいるのだ。
先に謝れるということは、誰にでも出来ることではない。しかも、たった今争い合っていた相手に向かって謝ることが出来るのは、相当難しいことのはずだ。
しかし、それを更科は面と向かって、ちゃんと頭を下げた。
後頭部を触る俺は、自分でも気付かない内に口元が緩んでいた。やっぱり更科はすごい奴だ。
呆けていた霜杉だったが、やがて立ち上がると、服に付いた汚れを払った。丁寧に何度も何度も汚れを払う。
そして、ある程度綺麗になると、更科に向き合って、
「……ちっ。俺達も悪かったんだ。これで、お互い様だ」
霜杉は頭を下げた。
秦野高校の人達もトップが頭を下げたことに従い、「すみませんッした!」と、勢いよく頭を下げた。四十余りの人数が一斉に頭を下げるのは、圧巻だった。
秦野高校の人達が頭を下げるのを見て、
「――そうね。その通りだわ」
更科は口元を小さく隠しながら笑った。
この場所には強制的ではなく、自らの意志での和解が生まれた。
――そう。これこそが唯一平和に解決出来る方法だ。お互いが納得できるように和解してこそ、負の連鎖を断ち切り、穏便に物事を解決することが出来る。
暴力や争いでは、絶対に生まれない平和的な解決方法だ。
この結果を得るために、俺は平穏の世界を飛び出して、慣れない行動を取った。
「――で、俺達に何をして欲しいんだ?」
「?」
霜杉の言葉に、更科は首を傾げている。助け舟を求めるように俺のことを見つめたが、残念ながら俺も思い当る節がない。俺も首を傾げた。
「勝者の特権だよ! 勝った方が言うことを聞くって言ったろ!」
そんな俺達の様子を見て、霜杉は地団駄を踏む。和解する前だったら恐ろしかったかもしれないが、今はもう恐く感じない。
霜杉の言葉でようやく納得のいった俺と更科は、二人そろって両手を叩いた。
ああ、そういえば、そんなルールもあった。何とかゲームという形に持ち込みたかっただけだから、そんなルールがあったことは忘れていた。
けれど、新たな問題を生まずにこの事件を治めるという目標が叶った今、とくに秦野高校に求めるものはない。
暫く考えたがどうしても浮かばなかった俺は、更科の顔を見た。更科も同じ思考に至っていたのか、俺と目が合った。
大和撫子のように整った表情で更科は笑っていた。俺も素顔を晒して笑っている。
思えば、更科も俺も、何も考えずに行動した挙句、いまや松城高校の一生徒であることを晒してしまっている。
ならば、勝者の特権を使うとしたら、たった一つしかない。
「――でしたら、一個だけお願いが」
何をお願いするのか決めた俺は、霜杉に話しかけた。俺は、勝者の特権である命令とは言わず、あえてお願いと表現した。しかし、そんな言葉の裏までは読み取れない霜杉は、何を言われてもいいように覚悟を決めた表情を見せている。
「僕たちが今日YOMIにいたことは公にしな――」
俺がお願いを言い切る前に、霜杉は右手を前に差し出して言葉を塞ぐ。
「ここまでお前らが不利なルールに沿って完勝されたんだ。……俺たちは何も言わねぇし、言えねぇよ」
霜杉の言葉に、秦野高校の人達も頷いている。
俺と更科は嬉しくて、頭を下げた。
――これにて、俺と更科、そして秦野高校の、およそ二週間に渡る長くとも短くとも云えない因縁に、終止符が打たれたのだった。