弐拾伍:本当の勝利
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長いようで短くて、短いようで長かったゲームの勝敗がようやく決した。
完膚なきまでにやられた霜杉はその場に座り込んで、項垂れていた。まだ自分が負けたという事実を受け入れることが出来ていないようだった。けれど、霜杉はそれ以上動く様子はない。周りにいる秦野高校の人達も同様だ。自分たちのトップがやられるとは想像もしていなかったのか、誰もが息を呑んでいて、言葉を発する者はいなかった。
そんな空気の中、俺は勝利を掴んだことを確かめるように、安堵の溜め息を吐いた。
今まで息を吐かせぬような緊迫した時間の連続だった。ここまで来て、ようやく楽に呼吸が出来る。
俺が提案したゲームで、もし更科が負けたらどうしようとずっと不安だった。とくに霜杉と戦っている時、傷付く更科を見て気が気でなかった。
けれど、更科は見事ルールに乗っ取って、相手の風船だけを割り切った。
俺は左胸の辺りに付いている風船に目を移す。俺の風船は汚れ一つなく、綺麗なままだった。俺は更科が出した戦果を見て微笑むと、必要がなくなった風船を外した。
更科も同じように、左胸に付けている風船を外す。
そして、更科は霜杉を見下ろす形で、
「……これで、私たちの勝ちね」
ハッキリと断言した。
霜杉は何も言わずに、開いた自分の手を力なく見つめている。周りにいる秦野高校の人達は、トップが行動を示さない手前、口を開くことなく静かに状況を見守っていた。秦野高校の人達は、徐々に霜杉が負けたことを認め始めているようだった。
しかし、霜杉だけは弱々しく手を握り締め――、
「――俺は負けていない」
霜杉が放った一言だけは聞き取れた。
その後も霜杉の口から何度も唾を呑み込むような音が聞こえたことから、何かぶつぶつと言っていることが分かったが、俺の位置からは聞き取れなかった。更科にはしっかりと聞き取ることが出来ているのだろう、無言で威圧を掛けるかのように霜杉を見下ろしている。
「……」
俺は更科と霜杉の様子を見ながら、思考を巡らせていた。
客観的に見たら、ゲームはもう終わったのだから、何かが起こることはないだろう。
けれど、先ほどの霜杉の言葉が嫌に頭に残っていた。残響となって、脳内をかき乱して来る。
この時の霜杉の言葉は、ただの負け惜しみだったのかもしれない。ゲームが終わった後の霜杉の第一声を、俺が気に留めているだけに過ぎない。
でも、霜杉の言い方にどこか引っかかる所があり、
――まだだ。
この時、俺の脳裏を、確かに違和感が襲った。
更科の実力は絶対的で、もう霜杉には勝ち目はないはずだ。ゲームが終わった今、霜杉が挑んだとしても、返り討ちにされるのが妥当なことは誰もが予期することが出来る。
だから、霜杉が何かを企んだとしても、更科には通じない。
それは傍観者である俺からしても、一目瞭然だ。だけど、どこか腑に落ちないことがあるのだ。何か決定的なことを見逃している気がする。
俺はYOMIに入ってから――否、昨日霜杉と会ってから今までのことを考え直した。
すぐにこの違和感の正体を探り当てないと、後悔する。取り返しのつかない事態になると思った。
しかし、更科は何も感じていないようで、
「負け惜しみはみっともないわ。あなた達がゲームに参加すると言ったのは、ちゃんとこの耳で聞いた。そして、ゲームに則って、私たちは勝った」
「……」
霜杉は何も言わない。更科のことを一切見ようともしなかった。
自らの都合の悪いことに霜杉が触れないようにしている――、更科はそう判断したのか、
「はぁ、もうあんたには付き合ってられない」
あからさまに溜め息を吐くと、秦野高校の人達がいる方向に向かって歩き始めた。けど、その足取りは遅く、まだ霜杉に対して名残を感じているように見える。
そして、その予想は当たり、
「これに懲りたら――」
「待てよ」
歩く更科の背後から、霜杉の声が響く。しかし、更科は一瞬足を止めたが、再び歩き始めた。きっと負け犬の遠吠え程度にしか思っていないのだろう。
何を言っても無駄だと判断したのか、更科は霜杉に向けて言おうとしていたことを言葉にはしなかった。
その間で、霜杉はこそこそと制服の内ポケットに手を入れていた。霜杉の前を歩く更科は、当然だが霜杉の新たな動きに気付いていない。
霜杉の手が動きを止まる。すると、霜杉は顔を上げた。その口は歪んでいた。表情も、歪んでいる。
ここに来て、ようやく俺は先ほどの違和感の正体に気付いた。
――そこまでして勝ちたいのか……!
俺は心の中で怒りを覚え、拳を握り締める。
そして、俺が気付いたとほぼ同時に、
「……そうだ。ゲームなんだから、もう一ラウンドくらいあってもいいよなぁ!」
霜杉はポケットから光沢のある物を取り出すと、更科に向かって走り始めた。ナイフだ。霜杉は負けた腹いせに、更科の命を奪う手段を取りに来たのだ。霜杉の様は、まるで自らの命を犠牲にして突撃する、特攻隊のようだ。
ここまで霜杉は怒りに狂った行動を犯していた。でも、今振り返るならば、それでもまだ理性を保っていたのかもしれない。
今、霜杉は正気のラインを超えて、人として超えてはいけない一線を超えて来た。
「今からァ! 第二ラウンドの始まりだ――ッ!」
「危ねぇ、茉莉!」
――咄嗟だった。
その突然の声に、更科は俺の方を見て、霜杉も僅かに動きが硬くなった。
俺は咄嗟に声を張り上げると同時に、更科と霜杉に向かって走り出していた。いや、もしかしたら霜杉の狙いに気付いた瞬間に、この体は動き始めていたかもしれない。
しかし、声を上げたはいいものの、この後のことは何も考えていない。けれど、それでいい。何を考えたところで、俺に出来ることは限られている。だから、どんな仕打ちが返って来たって、俺が更科の代わりになることで更科の命を守れれば、それでよかった。
俺は決死の覚悟で、被っていた仮面ソルジャーのお面を外し、霜杉に向けて投げつける。これで目くらましになって、ほんの少し時間稼ぎが出来ればいい。思惑通り、霜杉の視界は瞬間奪われ、ナイフの狙いは見事更科から逸れて空を切った。
これで更科も霜杉が何をしようとしていたのか、気付いたようだ。更科が霜杉に対して身構える。右足を一歩後ろに下げた。
俺は開いた視界で、霜杉に目を配る。今の正気を失った霜杉が、次のどのような動きを示すか分からないから、警戒は欠かせない。
霜杉は俺の予想外の援護射撃に反応を示すことはなかった。それよりも、霜杉は更科の方に注目していた。その顔は青ざめている。
ようやく点と点が霜杉の中で結びついたようだ。更科の無類の強さの正体が、俺の言葉により明らかになった。
あからさまに動揺して指一つ動かせない霜杉は、唇を震わせながら、
「――まつ、り……? まさか、てめぇ、あの血祭ま――」
「その名前好きじゃないの。二度と口にしないで」
霜杉の言葉を最後まで言わせずに、更科は深く息を吐く。
そして――、
「でりゃああ!」
更科は自らを鼓舞しながら、霜杉のナイフに向かって右足を上げた。勢いのついた蹴りが、ナイフに当たる。霜杉はナイフを手中に収め切ることが出来ず、手から離してしまった。
更科の蹴りを受けたナイフは宙を舞い、床に音を立てて落ちる。それに合わせて、霜杉も膝から崩れ落ちた。
その姿は、今度こそ自分の負けを完全に認めているようだった。
――こうして、霜杉がルールを破ったにも関わらず、更科は最後までルールを守り続けて、今度こそ勝利を掴んだ。