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鯊太郎の摩訶不思議短編集  作者: 鯊太郎
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赤い糸

 「コウ君、もう帰ったら?」

 悠子はラメの入ったブルーの爪を、やすりで丁寧に磨きながらそう言うと、指の先に付いた削りかすをフッとひとつ吹き飛ばす。

 「もう少し、ここにいるよ」

 「大学受験があるんでしょ。それにあたし、もうすぐお店に出る時間だし」

 悠子はストッキングを脱ぐと、今度は足の爪を音を立てて切り始める。


 「今日は、何時ぐらいに帰ってくるの?」

 「わかんないわよ。お客さん次第だもの」

 悠子は、めんどうくさそうにメンソールのタバコに火をつけ、ニ~三回ふかしただけの煙を、少しだけあいている窓に向かって吹き掛けた。


 「何か食べるものでも作っておこうか?」

 「作っておくって、ずっとここにいるつもりなの?」

 「いいじゃないか。だって僕達は・・・」

 「ちょっと待って、まさか赤い糸で結ばれているって言うんじゃないでしょうね・・・」


 悠子は足の小指の爪を、わざと大きくパチンと音を立てるように切ると、

 「ハイ、これでいいでしょう。赤い糸は、たった今切れました」

 と、無感情のまま言い放った。

 孝一は、少しとまどったような顔をしたが、すぐに気を取り直すと、ガラスのテーブルの上にちらばっていた参考書やノートをデイバッグの中に押し込み、アパートの出口へと向かう。


 「今日は、もう帰るよ」

 「・・・」

 「ユウちゃんがどんなに切っても、運命の赤い糸は、必ずまたつながるんだよ」

 孝一は、少し甘えたような言い方でそう言うと、鉄製の階段を勢いよく駆け下りていった。

 悠子は二本目の煙草に火をつける代わりに、孝一が忘れていった鉛筆に、そっと唇を当てる。



 思えば、孝一と悠子が今のような関係になってから、もう半年が過ぎていた。

 俗にいう進学校に通い、今年大学受験を控えている孝一と、夜の仕事で暮らしている孝一より五歳年上の悠子。

 普通なら、どう考えても異空間にいるはずの二人である。

 しかし、男と女が思いを寄せるのに理屈などいらない。当然二人も出会ってから、その思いは少しずつ大きなものへと形作られていった。

 まあそれでも、もし理由を上げるとするならば、きっとお互い自分に無いものを、それぞれ相手の中に映し出そうとしたのかもしれなかった。


 孝一は時間を惜しまず、よく勉強をした。

 しなければならない状況にあったことも事実だが、それよりも何より、彼女との時間を不本意な結果の理由にはしたくないという気持ちがあったからだ。

 悠子も、こんな孝一の一途な姿をいとおしく思っている。

 ところが・・・


 そんな二人の高まる思いとは反比例するかのように、孝一の成績は月をおうごとに低下していった。

 これには孝一よりも、むしろ悠子の方が心を乱した。

 彼女とて、世の中の機微がわらない訳ではない。いや、むしろ毎日の仕事の中で、人間の表裏を見ている彼女にとっては、このことがどういう結末をむかえるのかなど、すぐに察することができたのである。

 彼女は決心した。

 (別れよう・・・ しょせん、赤い糸なんか最初からなかったんだもの・・・)


 その日から、悠子の孝一に対する態度は一変した。

 口に出して言えばいいのだが、それはできない。もちろん、今でも孝一のことが好きなのだから。

 孝一とて悲しいのだ。悠子のそんな態度が、彼女の本意でないことぐらい、彼の能力ならば十分すぎるぐらい理解できてしまうからだ。

 孝一は悠子が冷たくすればするほど、いっそう、参考書のページをめくる量も増えていった。

 お互いがこんな思いを引きずったまま、二人は三月を迎えた。



 「もしもし、ユウちゃん」

 「コウくん?・・・」

 「うん、合格したよ。今、アパートの近くまで来ているんだ」

 「・・・」

 悠子は駆け出した。トレーナー姿だが、寒さなんて感じない。目に飛び込んでくるものすべてが、輝いて見えるようだ。

 通りの向こう側に、孝一の姿があった。

 もう、涙で彼の姿もかすんで見える。

 孝一も右手でこぶしを振り上げると、飛び跳ねるように走って来る。


 「あっ、ユウちゃん!」


 あとは、ビデオのスローモーションのようだった・・・

 右折してきた車と悠子の姿が重なった。彼女の身体は、小さな木切れのように宙を舞うとその車の向こう側へと姿が消えた。

 音も無い、声も出ない静寂の時間が始まる。

 彼女の肩口からは血が流れ出ているのが見えるのだが、それは少しも赤くない。なぜか、視界の全てをモノトーンの世界が支配しているようだ。

 時間も動くことをやめてしまったのだろうか、ただ、不自然に横たわる彼女の姿だけが、そこにはあった。


 「・・・ですか?」

 「えっ?」

 「この方のお知り合いですか?」

 救急隊員に聞かれ、孝一は、現実の世界へと連れ戻される。


 「お知り合いの方でしたら、いっしょに病院まで来ていただけますか?」

 「は、はい」

 目の前のストレッチャーに乗せられた悠子は、蝋人形のように何もしゃべらない。

 孝一のズボンの膝あたりに、黒味をおびた血がみしついている。

 音のない空間に、計器類の短い信号音だけが、いくつも鳴り続けている。


 病院には、もうすでに何人ものスタッフが待機していた。彼らはあらかじめ決められた手順を、寸分の狂いもなくこなしている。

 悠子の身体が、廊下の奥へと消えて行く。


 「どなたか、血液型がAB型の方はいらっしゃいませんか?」

 若い看護士の声がロビーに響いた。

 「はい、ぼくもAB型です」

 「あなたは、先程の方の・・・」

 「姉弟ではありません。早くぼくの・・・」

 「では、こちらへ・・・」


 相当緊急を要していたのだろう。孝一は、手術室の隣の部屋へ通されると、その腕には、すぐに採血用の管が通された。

 ガラス越しに彼女の姿が見える。

 ビニール製の血液採取袋に、一本目の血液がたまると、看護婦は急いでそれを、手術室へと運んだ。


 「看護婦さん、もっと取ってください。必要なだけもっと・・・」

 二本目の採取袋が取り付けられる。

 また、孝一の腕からはその細い管を伝わって、真っ赤な血が流れ始める。

 隣では、輸血用のビンから孝一の血液がゆっくりと悠子の身体に注がれ始めた。その細い管をつたわって・・・


 「だから言っただろう。ユウちゃんがどんなに切ったって、運命の赤い糸は、またつながるんだって・・・」

 三本目の採取袋が取り付けられたころ、孝一も静かに眠りについた。


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