トモ 1-4
訳も分からぬままついてきたトモは、パスの隣に立つことはできなかった。
対峙するように向き合い息を飲む。
「人類の発火現象が始まったときに、精霊王が現れて人類を救ったというのは定説だ。じゃあどうしてそんな人外の存在が突然現れたと思う? 逆なんだ。人間の女性に恋をしたのが、先だったんだ。だから、滅亡を止めることはできなくても、自分の愛した人間の為に、速度を緩やかにしようと種子を与えた。精霊王が人類を救わなければあっという間にこの世界は滅んでいただろう」
そしてパスはその運命からさらに人類を救おうとして、精霊樹木医学会を立ち上げた、と。
そこへ至るまでを想像してもしきれずにトモは何も言うことができなかった。
「だけどその方がよかったんじゃないかと、ずっと、ずっと––葛藤してきた」
その方が。
人類が樹木化せずにあっという間に発火して滅亡する運命の方が。
「人間は、いずれ死ぬ」
業火に焼かれ灰になるか、全身が植物に変わるかの違いだけで、人間はいずれ死ぬ。
だとしたら自分のやっていることは徒労ではないのか。
「どちらが正しいのか、俺にはもう分からなくなってきているんだ」
運命に抗うこともできずただもがいているだけではないのか。
(そう、考えているんだね)
トモにとってはただの想像でしかないけれど、胸を痛めるには十分すぎた。
ぎゅっと、胸の前で拳を握りしめる。
鼻の奥が熱かった。泣かないように強く瞼を閉じた。泣いてしまえばそれはただの感傷で、パスにとって失礼だと考えた。
(このひとは、気が遠くなるような長い刻を、ひとりで闘ってきたんだ)
ぴたりと風が止んだ。
「俺も5歳で捨てられた。ある日突然目の前から奴は消え失せて、それ以来会ったことはない。そもそも人類の目の前に現れていない筈だ。今どこで何をしているか、知らないし興味もない。ただ、俺とあいつを繋ぐのはこの琥珀だけだ。母親は生まれ故郷の中国第一管区で大きな樹になっている。あいつと出会わなければ、俺を産まなければ恐らくもっと長生きできただろうと思うと、いたたまれなくて、会いに行ったことはない」
ずっと森林の方を向いて語っていたパスだったが、ゆっくりと、トモに全身を向けた。
トモが瞳を開くと、パスはしっかりとトモを見据えていた。
瞳の色は見つめているだけで吸い込まれていきそうな深い緑。
まるで森林のような色。
(きれい)
状況を忘れて見入ってしまいそうになりトモは慌てて首を横に振る。
「どうしてお前にこんな話をしたと思う」
「え?」
「精霊王が種子を与えなかった人間は、樹木化することはないが、発火して灰になる。故に差別を受けたりして、人生の困難も多い。お前だって例外じゃないだろう。それなのに、種なしは前向きな奴ばかりだ。見ていると、苛々する。話は聞いていたな? お前は俺に迷いしかもたらさない。頼むから、もう二度と俺の前に現れるな。あの厭味な兄貴に援助してもらって、静かに生きてくれ」
パスは言いきって、かたまったままのトモの横をすり抜けていった。
***
(ここは、何処だろう)
暗闇に会話が響いていた。
『最初からおかしいと思っていたんです。歩くのも、言葉を話すようになるのも、ダントより早くて……ううん、一般的な子どもよりも、ずっと早かったんです。正直、気味が悪いと思っていました。だからこの子が種なしだと判って納得しました。本来ならば産まれてきてはならなかったんですね』
『お母さん、落ち着いてください。この子は発火せず元気に生きているじゃないですか。それで充分じゃありませんか』
『いやなんです。この子がわたしを見つめる眼差しが。すべてを見透かされていそうで、こわい。恐ろしいんです。この腕の火傷を見る度に、気が狂いそうになるんです。助けてください』
(ああ、お母さん。全部聞こえてるし、分かってるよ)
トモは泥のように重たいまどろみから体を起こした。
ビジネスホテルの一室。
のろのろと動いてトモは備え付けの小さな冷蔵庫を開けた。
冷やされたミネラルウォーターを手に取って、首元に当てる。ふぅ、と小さく息を吐き出した。
どうやってここまで戻ってきたか記憶になかった。いつの間に眠ってしまったのかも分からなかった。
(なんか、ちょっと、熱い……かも。ここ数日頑張りすぎてたのかも)
パスが重大な秘密を告白してまでトモを遠ざけたかったのかと考えると胸が詰まった。
その言い方が過去を呼び覚まして、夢を見てしまった。
(この後から、お母さんがわたしを避けて、一切触れてこなくなったのだけは覚えてる。先生はどうだったんだろう。ちゃんと、そのときのことを覚えているのかな)
精霊王の子どもだとパスは言っていた。だから外見が変わらないのだろうか。
トモはミネラルウォーターを一口飲む。
ホテルの小さな窓はカーテンを開けても隣のビルの壁しか見えない。研修施設の屋上からの光景とは全く違う。
どちらの景色も実在する。まるで、種なしとそうでない人間のように。
長い間、トモはじっと壁を見つめ続けた。
***
トモはビジネスホテルをチェックアウトしたその足で、さらに南下していた。
駅のホームで右往左往していると帽子を被った初老の男が近づいてきた。
「お嬢さん、中国第一管区は初めてですかい?」
「えっ。あっ、はい」
「精霊王平和記念碑なら改札を出てすぐの路面電車に乗れば着きますよ」
「あっ。ありがとうございます」
初老の男は微笑みながら去って行く。
いきなりのことにびっくりしすぎて、大きな声でお礼を言えなかった。
(確かに、観光客は、まずそこへ行くって思うよね)
からからと黄色いキャリーケースを転がしながらトモは歩き出した。
たくさんの人で賑わう通路からエスカレーターを下りて、改札を出る。
観光地らしくお土産やお弁当を売る店が建ち並んでいた。
目の前に路面電車のターミナル駅があった。この街は昔から路面電車を交通手段として発達しているらしい。
路面電車を初めて目にするトモにはごちゃごちゃとしていて難しく思えたが、大きな看板の路線図を確認して切符を買った。
(小さな紙切れ。ふふ、面白い)
ちょうど到着した車両に乗り込んで端に座った。座席が向かい合っているタイプのもので、次々と客が乗ってくる。少しずつ座席を詰めて、端の端でトモは肩を撫でおろした。シートはお世辞にも座り心地がいいとは言えない硬いものだった。
(勢いで、来ちゃった)
ようやくトモは窓の外に視線を向けた。
中部地方とも関東地方とも異なる風景に感じられた。駅前なのにこぢんまりとした商店が並んでいて、人が往来している。多い荷物を抱えた観光客もたくさんいた。
(だって、先生のことをもっと知りたくなったんだもん……)
ごとりと揺れて路面電車が走り出した。自動車と並走する電車は新鮮な感覚だった。
そして気づいた違和感。
関東や中部地方では繁華街でも木々が生えているのに、ここは一本も見当たらない。
(確か、中国第一管区って、精霊王が最初に姿を現した場所だよね。だったら森林が広がっていてもおかしくないのに)
線路が大きくカーブを描いて橋を渡った。
自動車の数も増える。重厚な造りのビルが道路の両脇に建ち並んでいた。駅毎に電車は停まり、乗客が出入りする。
20分ほどして、再び大きな川にさしかかった。橋の上が目的の駅だった。
『精霊王平和記念碑駅』
たくさんの乗客にならってトモも降りる。
晴天の下、大きな川に架かった石の橋。
トモの家の上にある橋とは違い、ずっしりとした重厚感がある。
石の上に立ったのは初めてだった。その堅い感触を、トモは何回かぴょんぴょんと飛び跳ねて、確かめる。
トモは辺りを見回した。やはり、木々は生えていない。
路面電車が通ってきた方はビル街だったが、その線路の先は住宅街のように途端に建物の高さは低くなっていた。
川のほとりにはのどかに日向ぼっこをしているひともいれば、のんびりと散歩をしているひともいて、緩やかに時間が流れていた。
息を吸い込むと水の匂いを感じた。普段知っているのと同じものだ。
ようやくトモの緊張も解けかけていた。
ぐぅ、とお腹が鳴る。
石の橋から道路を渡ってひときわ賑わっている広場へ向かった。立ち並ぶ露店を見学して、いちばんいい香りのしていたお店に並ぶ。前の客と同じように注文して、透明なパックに入った熱々のお好み焼きを受け取った。
他のひとがそうしているようにベンチに座って膝の上でパックを開いた。ソースのいい香りが鼻をくすぐる。割り箸をきれいに割って、一口食べた。
「あち」
薄い皮に挟まれてたくさんのキャベツのせんぎりと、色んな具材と、焼きそばと目玉焼きがぎゅうぎゅう詰めになっていた。
(初めて食べたけど、美味しいなぁ)
そもそもトモは中部地方から出たことがなかった。
それがパスを追いかけて、関東や、こうやって縁のなかった中国地方まで来てしまった。
ふぅふぅと冷ましながらお好み焼きを頬張る。キャベツと焼きそばを交互に食べたり、一緒に口に運んだり。薄切り肉は箸で食べやすい大きさに切って。目玉焼きは黄身が半熟で、とろりと焼きそばに絡ませた。濃厚なソースで最後まで食べきる。
(こうやって知らない場所に行くのって、楽しい)
口の周りを拭って息を吐き出す。
川の水面はきらきらと光を受けて輝いていた。
(家の前の川も、こんな風にきらきらしていたかなぁ)
人間がやがて樹木化してしまうなんて信じられないような穏やかな光景が広がっていた。
トモは手を合わせて食事を終えると、ごみを片づけて、人混みへ向かった。
柵に囲まれて、人の形を模した銅像がそびえ立っていた。
髪の長い男。直立不動で真っ直ぐに遠くを見据えている。
路面電車からも臨むことはできたが、近づいていくと、とんでもなく大きいものだった。ゆうに大人五人分の高さはある。
灰緑色のそれは、精霊王が人類を救済したときの姿と伝えられている。
「これが」