パス 1-2
***
じりりり、とけたたましくベルが響き渡る。
パスは新幹線の車両からホームに一歩足を踏み出すと、黒いキャリーケースの持ち手を引き上げて右手で握りしめた。
同時に新幹線の白い扉が音を立てて閉まる。再びけたたましくベルが鳴り、初めはゆっくりと、徐々にスピードを上げて新幹線は走り去った。
パスは目を細めて見送ると、紺色のスーツに合わせたベージュのネクタイをきつく締め直した。
小さく息を吐き出すとパスはホームから見える景色を確認する。
表口側は高層ビルやビジネスホテル、ファッションビルの並ぶ繁華街。様々な色が溢れて賑やかだ。駅前のロータリーにはタクシーが列をなしている。そして、多くの人間が行き交う姿が小さく見えた。ターミナル駅に相応しい様相を呈している。この国のどこにでも見られる風景だった。
背を向けて裏口側。
「また、増えている」
山を切り崩してできた斜面に無数の樹木が生えていた。
これもまた、この国のどこにでもある、ありふれた風景。たっぷりと太陽の光を浴びて佇んいる木々。
大きさや種類は様々だったが、どれも青々しい葉を茂らせている。しかしひとくくりに森林と呼んでしまうには不揃いな見た目だった。広葉樹も針葉樹もごちゃまぜに生えていた。
それもその筈で、この木々は、墓標であり無造作に植えられていったからだ。
墓標といっても人間が埋まっているのではない。
あの1本1本がかつては人間だった。生きていた。意志を持っていた。
「灰になるか、木になるか。どちらが幸福だったんだろうな」
人類は精霊王を救世主として迎え入れて、灰になる道ではなく、木となる道を選んだ。
今もなお、どちらが正しいのか世界を巻き込んだ論争が起こっている。
ただひとつ言えることは、人間は樹木化し続けているということだ。
森林の向こうにある何かを見つめるようにして、パスはしばらく見つめ続けていた。
「こんなの理想郷でもなんでもないだろうに」
***
応接室に案内されたパスは、ぴかぴかの黒い革張りの客用ソファに浅く腰かけて前屈みになり、無言で渡された資料に目を通していた。
「遠いところからわざわざありがとうございます。温かいお茶でもいかがですかな」
初老の施設長が、ゆっくりと急須から湯呑みへお茶を注ぐ。自分の分も注ぐと急須をローテーブルに置いて、パスの向かいに座った。こちらは革張りではあるもののところどころ穴が開いて中綿が覗いている、年季の入ったくたびれたものだった。
ここは中部第一管区、長期療養施設『ヒカリ』。
人類が穏やかに最期の時を迎える為の施設。
一度発芽しかけた人間は、それを抑える為に治療を続けなければならない。
治療とは血液中の発芽成分濃度を下げることだ。投薬、点滴、放射線照射。完治はなく、だんだんとその効果は薄れていく。
一般的な通院では対応できなくなった患者の為の場所が、長期療養施設だった。自らの運命を受け入れて穏やかな余生を過ごすことを目的としているので、施設内ならば自由行動が許されている。
彼らは急性患者と違い、緩やかに全身の樹木化が進行する。
一通り資料に目を通してローテーブルに置くとパスは窓の外に顔を向けた。
埃で黒ずんだカーテンの向こうで、青々とした森が広がっている。
ここで樹木化した人たちが植樹されていた。
「どうぞ、こちらもご一緒に召し上がってください」
視線を戻すと施設長が傍らにあった箱を開けて饅頭を取り出す。
「特産の味噌でこしらえてあります。入所者たちにも人気で、よく3時のおやつにしているんです」
施設長はふたつを小さな丸皿に置いた。
それから煙草に火をつけて、煙を吸い込むと一気に吐き出した。
「新幹線駅からは遠かったでしょう。失礼ですが、ご出身は関東の方ですか?」
「えぇ、はい」
「中部地方は数十年前の大震災をきっかけに樹木化が進んでしまいまして今ではこんな有様です。人口は最盛期の半分以下に落ち込みました」
肉体的疲労や精神的動揺で樹木化が爆発的に起こる場合がある。
天災はその典型だった。
「私は大震災の当時はちょうど藤神さんくらいの年齢で、駆け出しの精霊樹木医でした。当時はこの施設にたくさんの患者が運ばれてきて、昼夜問わず看病に当たりました。今でも昨日のように思い出せます。藤神さんには想像がつかないかもしれないですが」
施設長がゆっくりと微笑んだ。顔面の皺の深さがこれまでの苦労を物語っているようだった。
パスはお茶に口をつける。
「いえ、存じています。産業の中心地だったのに。いたましいことでした」
「お若いのに偉いですね。歴史のお勉強もされて?」
「いいえ」
パスは施設長から視線を逸らした。
「大震災のときも派遣されました」
その答えに、狐につままれたように施設長は目を丸くした。
少し逡巡してから、深く頷く。
「ああ」
2本目の煙草を取り出して火をつけた。
「お祖父さんが、ということですね。なるほど。もしかしたら一緒に釜の飯を食っていたかもしれません」
納得した様子にパスは否定も肯定もしなかった。
煙草の先を灰皿に押しつけて火を消すと、施設長は身を乗り出した。
「早速ですが不審火の件についてお話ししましょう。発生はいずれもここ数日のことです。最初はこの施設のすぐ近くの樹木が燃えかかっているところを、警備員が発見しました。次は少し離れたところ。次は施設近く。規則性は見えませんが、発見はいずれも夜間です。しばらくの間、第三当直室を使っていただくことになりますが、宜しくお願いします。警備を増員してはいるものの、犯人はそれをうまくかいくぐってくるのです。もしこれが組織的犯行だとしたら内部にも仲間がいるのかもしれません。……そんなことは疑いたくないですが」
「組織的犯行だと?」
施設長は首を横に振ると溜息をついた。
「現時点ではまったく判りません。犯行声明が出ている訳でもないので」
その表情は、だからお前が調べるんだろう、と言いたげだった。
パスは心中で毒づく。
(あんたは若造のくせにと不満かもしれないが、俺だって好きで派遣されてきたんじゃない)
そして分厚い資料を鞄にねじ込んだ。
「少し仮眠をとって、早速調査に当たります」
「では後ほど、部下に施設内を案内させましょう」
「いえ、結構です」
(施設のことは知っている。大震災のとき。ここで、あんたと一緒に仕事したからな)
説明しても理解してもらえないことは口にしない。
立ち上がって、パスは応接室を後にした。
***
いつでも目を覚ませるようにということなのか、宿直室のベッドは硬めに造られてあった。
パスは上着を脱ぐと簡素な机と椅子に投げ出してベッドの上に仰向けに倒れた。無機質な灰色の天井と高い位置にある小窓が瞳に映る。
太陽の光がやわらかく室内へ射し込んでいた。空気中の埃がきらきらと瞬いている。
(こんなことをしている場合じゃないのに)
しかし意志とは裏腹に瞼は静かに閉じていった。
「カコ!」
掠れた叫びと同時に目を開けると室内は黄昏色に染まっていた。
「……夢か」
目尻を拭うと濡れていた。
寝転がったままパスは首にかけていた革紐のペンダントを慎重に胸元から取り出す。
それに通されていたのは、六角柱に加工された琥珀。
琥珀の中には華奢な指輪がひとつ封入されていた。
夕陽を受けて琥珀は鈍くやわらかな輝きを放つ。
パスは暫くその光を眺めてから、再び胸元に隠した。
……そっと、宝物をしまうように。
施設は1階が外来、2階から4階までが病室になっている。
宿直室のある5階から階段を使って下りていき、パスは扉越しに病室を見て回った。
軽度の患者がいる病室の扉には窓がついていて中の様子が見える。相部屋になっていて、おのおのベッドの上で座って談笑している人たちもいた。
(特効薬も治療薬もない。ここで可能なのは、穏やかな延命治療だけだ。彼らもいずれ発芽して全身が子葉に覆われてしまう)
そうなれば、施設裏手の森林––共同墓地に運ばれていく。
老若男女問わず、この世に生を受けた者として、避けられない運命。
パスは休診中の外来受付から施設の外に出た。
とっぷりと日が暮れていた。
三日月に照らされた長期療養施設は、白く塗りつぶされた無機質な箱のようだった。
取り囲むように森林は黒く鬱蒼としている。
「行くか」
借りてきた懐中電灯の電源を入れる。スーツに革靴のままパスは森林へと足を踏み入れた。
生い茂った木々たちは歓迎も拒否もしない。
ただ、そこに生えているだけ。この場で生きているのはパスひとり。
「かつては人間として意志を持っていたのに」
パスはかぶりを振った。
(なんで俺がこんなことしなきゃいけないんだ。それこそ、本当の若造を派遣すればよかったのに。ウィルアの奴、覚えてろよ)
かろうじて人が歩けるような場所を探して歩いて行く。地面は適度に湿っていて柔らかく、緩やかな傾斜になっていた。
ひどく静謐な空間だった。
10分ほど歩き続けると頭上は木々に覆われて、光源は懐中電灯だけになっていた。
迷ってもおかしくない状況だったが臆することもなくパスはどんどん奥へと進む。
きゅっ。
「ん?」
不意に、自分以外の足音を耳にしたような気がして、パスは足を止めた。
きゅっ。きゅっ。パスよりも遙かに軽い足取り。それが徐々に近づいてきている。
(おでましか)
パスは唾を飲み込み、呼吸を整える。
(精霊王信仰者なら容赦はしない)
パスは、懐中電灯を音のした方へ向けた。声を張って呼びかける。
「お前たちのしていることは犯罪で、『人』殺しだ!」
灯りに照らされて人影が動きを止める。確認してパスは息を飲んだ。
(子ども––女、だと?)
そこに現れたのは、ひとりの少女。
黒いつなぎを着て、足下はがっちりとした革製のブーツを履いていた。
鴉の濡れ羽のような髪の毛は肩上で切り揃えられていた。白く透き通った肌に、上気した紅い頬。
気の強そうな大きい双眸はまっすぐとパスを捉えていた。
「驚いた」
周囲に他の人影は感じられない。
警戒の念をほんの少しだけ緩めて、パスは息を吐き出した。
「あんたひとりで共同墓地を破壊してまわっていたのか。子どもの悪戯だとしても、度が過ぎるな」
少女は唇をきゅっと結んだまま。表情は読み取れない。
「一度、施設で話を聞かせてもらおうか」
パスは少女を捕らえようとして一歩踏み出す。
すると少女が口を開いた。
「破壊していたんじゃない」
自我がはっきりと存在している、よく通る声だった。
「あたしは探している。……あたしを捨てた親だった『もの』を」
少女は右の掌を空中に翳した。
ぽっ。
空中に小さな紅い炎が生まれる。
それは懐中電灯よりも明るく、光源となって周囲を照らした。
木々を挟んで対立するふたりがくっきりと浮かび上がる。
(まさか)
パスはスーツの上から琥珀に手を当てた。
動揺を悟られないように眉を顰めてみせる。
「もしかして『無種子』か? 驚いたな。生存者にお目にかかったのは、何年ぶりだろう」
無種子、つまり種なし。
何らかのきっかけで精霊王の加護から見捨てられた人間を指す。
種子を持たないことで、亡くなるときは樹木化ではなく、全身が炎に包まれて灰と化す。
マイノリティである為に社会的弱者になりやすい。