トモ 2-3
パスに顔を向けたウィルアの頬は静かに濡れて輝いていた。
トモは不覚にもそれを美しいと感じてしまっていた。指1本動かすことができずに、ウィルアを見つめた。
そしてパスが、ゆっくりとウィルアに近づく。
「俺には」
言葉を選ぶ為に立ち止まり、髪の毛を掻きむしった。
「俺は、お前がそんな風に想っていたなんて知らなかった」
「何を言っているの? 子どもの頃からずっと言ってきたじゃない、貴方のお嫁さんにしてちょうだいって。貴方は私の初恋の相手で、今でも片思いの相手なの」
ウィルアの左半身は無数の葉に覆われてしまった。
右手から拳銃が落ちて音を立てる。緩やかに、樹木化が進行する。
誰もが、固唾を呑んで見守っていた。
「最期の瞬間、私のことを抱きしめていて。そうすれば貴方を飲み込んでひとつになり、私は辺り一帯を覆う、永遠の木になれるでしょう……」
それは確実に訪れようとしていた。
「先生、お願い。行かないで!」
トモは泣きながら叫んだ。
「一緒に樹木化するかどうかなんて分からないじゃん。そのひとを助けて、皆を助けようよ! 先生は精霊樹木医でしょう? 皆を救うのが仕事なんじゃないの? あたしだってそんな先生に憧れてるよ! そのひとよりも、ずっとずっと!」
ウィルアが完全に間違っているとは言えなかった。だけどパスを連れていかれたくはなかった。
「……トモ」
くるりと、パスがトモの方を向いて、初めて名前を呼んだ。
「お前は自分がすべての元凶だって言うけれど、この世界がおかしくなった元凶は、俺自身なんだよ。俺の死でこいつの罪が償えるのなら、いくらでも差し出してやる。自棄になって言っているんじゃないぞ。だからお前は俺の分まで生き延びろ」
覚悟は本気のようだった。
「未来は、お前に託した」
(そんな先生の笑顔、見たくなかった)
足が動くのならトモは全力で止めに行きたかった。
しかし何故だか力が入らない。涙も、鼻水も溢れて止まらなかった。
「ウィルア、俺はお前が生まれてからずっとお前のことが愛しくてたまらなかったよ。お前の成長を眺めるのが幸せだった。それは本当だ」
もう反応しないウィルアの前に立ち、パスは大きく1歩踏み込んだ。
両腕でしっかりと抱きしめる。
パスを待っていたかのようにウィルアの全身から枝が飛び出て激しく包み込んだ。眩い光が天から降ってくるようでもあった。
ばりばりばりっ!
––その木は勢いよく成長して天井を貫き、その場にどっしりと根を下ろす。
まるで樹齢何100年もの大樹となって、存在していた。
時間が止まってしまったかのように誰もが動けないでいた。
ふらふらと、よろめきながら、トモだけが恐る恐る大樹に近づいた。
赤褐色に近い、黒い樹皮はとても滑らかだった。幹に両手をついて、ゆっくりと周りを歩く。
たどたどしく、ふらつきながら、一歩ずつ。
「……せんせ、い」
半周歩いたところで幹のふもとに大きな空洞を見つけた。
そこに丸まって目を閉じていたのは––パスだった。全身の輪郭が柔らかな琥珀色の光を帯びている。かすかに体が動いていて、息をしているようだった。
トモは時間をかけてしゃがみこみ、パスの握られた掌に触れる。
ゆっくりと開くと六角柱の琥珀が握られていた。
「先生、起きて」
鼻水をすすり、涙を袖で拭ってから、トモはしっかりとした声でパスを呼ぶ。
「……ん」
体を小刻みに動かしながらパスが目を開ける。トモの姿を確認して眉を顰めた。
パスに嫌そうな顔をされたことより生きていたことが嬉しくてトモは唇を震わせる。
「よかった」
「また助けられたのか、俺は」
「え?」
パスの視線はトモに向いていなかった。その先を追って振り向くと、トモの背後に、銀色の長い髪をした誰かが立っていた。
逆光になっていて表情を窺うことはできないが、トモにも判った。
(記念碑と同じ姿!)
精霊王が、その姿を顕していた。
「ふざけるなよ。俺には俺のけじめのつけ方があるんだ。余計な真似をしやがって」
「ちょ、ちょっと、先生。あいたっ」
身を起こして、今にも精霊王へ飛びかかろうとするパスを、トモは全力で抑えた。しかし大人の力に敵う訳もなくしりもちをつく。
パスは勢いよく精霊王の目の前に立った。
「今になってのこのこと現れて何のつもりだ。正義の味方でも気取っているのか?」
精霊王は無言で左手を差し出す。掌を開けると、歪つなかたちの琥珀が鈍い光を帯びていた。
『わたしも、君が愛しくてたまらないのだ。君を遠ざけたのは、喪失を恐れたからだ。ひとえに自らの弱さが原因だ。そうやって繋がれていくのだと、君の母親に教えてもらったのに、信じられないでいた。ずっと君を見守ってきたが、今、ようやく目が醒めた』
声は精霊王からではなく、天から聞こえてくるようだった。
『これは、彼女の涙だ』
「……ウィルアの?」
精霊王が首肯する。
琥珀が生まれるときは、穏やかなときのみだという。
ということは、ウィルアは静かに樹木化したということだ。
「どうして俺だけ生き残ってしまうんだろうな」
肩を落として、溜息をつく。
「あんたさ、寂しいのは分かったから、たまには現れてケンカのひとつぐらいさせてくれよ。絶対に負けないから」
『望んでくれるのか』
「勘違いするなよ。こっちだってもう何百年と、あんたのやらかしたことの尻ぬぐいに必死なんだからな。ただ、その方が、母さんだって喜ぶだろう?」
パスは手にしていた琥珀を光に翳した。
「いちばん会いたいのは、母さんなんだから」
長い沈黙の後。
『ありがとう』
きらきら……と、光の零れるような音がして、精霊王は消え去った。
誰かが呟いた。
「樹木化が治まっている!」
それはさざ波のように辺り一帯に広がっていく。病院内の患者全員の発芽が治まっていた。
患者同士が抱き合い快哉を叫ぶ。看護師たちが涙を流す。
「藤神先生」
「は?」
騒ぎに乗じるようにして、トモはパスに抱きついた。
「生きててよかった!」
確かにパスの体には血液が流れていた。トモは瞳を閉じて鼓動を全身で感じる。
「まぁ、お前もよくがんばったな」
パスが、ぽんとトモの頭を撫でた。
「だけどまだ事態は収束していないからな?」
そしてトモを引きはがすと、大声を上げた。
「時間を取らせて申し訳ない。発芽は治まっているかも知れないが一時的な可能性もある。診察を継続するぞ! 今から、俺が責任者だ!」
伝説の精霊樹木医は息を吹き返したかのように白衣の袖をまくる。
「はい!」
普段はパスを邪険にしている精霊樹木医たちも我に返っててきぱきとパスに従い始めた。
「お前も手伝え。雑用は幾らでもある」
「う、うん!」
トモも手を挙げて気合いを入れる。
(……?)
不意に掌のなかに違和感を覚えてゆっくりと開くと、小さな琥珀があった。
涙の主が誰かは分かっていた。トモは目の前にある大樹に触れて、額をくっつけた。
(あたしに預けてくれるんだ)
「貴女の分まで、生きるね」
トモはぎゅっと琥珀を握りしめて、大事にポケットにしまった。
事態が完全に収束に向かったのは夜明けになってからだった。
一昼夜寝ずに働いたあと、トモは1週間寝込むことになった。




