パス 1-1
「藤神先生! お願いします!」
看護師の大声と共にストレッチャーで運び込まれたのは初老の男性だった。呼吸は荒く、眉間に皺が寄っている。苦しそうに顔を左右に振っていた。
「初期症状が確認できる。今ならまだ間に合う、すぐ切開に入る」
「はい!」
慌ただしく看護師たちが持ち場につく。
藤神先生と呼ばれた男は鼠色の手術着姿。薄い手袋を素早くはめ直す。顔面もマスクで覆っていたが、ゴーグルから覗く瞳は鋭い光を患者に向けていた。
患者の頬や手の甲には血管のような筋が浮き出ていた。
男は手術道具を手に取る。それから、患者に繋いだコンピュータの画面と照らし合わせた。
時は一刻一秒を争う。看護師のひとりが叫ぶ。
「先生、『種子』の『発芽』が始まっています」
「心臓の方へ『エデン』の投与を開始。50パーセントからで頼む」
「はい!」
「今ここで死なせはしない。ちょっとでも発芽を遅らせてやる!」
人間には、ふたつ、心臓がある。
ひとつは本当の心臓。全身に血液を行き渡らせて生命を維持する為の器官。
もうひとつは、『種子』。
心臓に繋がっているそれは、やがて血液の代わりに全身に根を張らせ、皮膚を破って発芽し、人間を1本の木に変えてしまう。
そんな『樹木化』を1秒でも遅く食い止める為の存在が、彼ら、『精霊樹木医』だ。
種子から切除された発芽部分は血液で真っ赤に染まっていた。
徐々にコンピュータの液晶画面がゆっくりと赤から緑に切り替わる。
「数値が安定してきました。100、99、98、……」
「よし、そのまま点滴へ切り替えるぞ。24時間は集中監視室で治療を継続していく。ベッドは空いていたな?」
看護師がてきぱきと作業するのを確認すると彼は手術室を後にした。
いつ次の急患が現れてもすぐ対応できるようにする為に。
***
関東第一管区・精霊樹木総合病院の大講堂。
高い位置にある窓から、朝の陽射しが燦々と講堂内に降り注いでいる。壁に掛けられた時計は9時をまわったところだ。
扇状になっている階段式の座席には、白衣姿の数十人がまばらに座っていた。近く同士で喋っている者や、机に突っ伏して仮眠をとっている者とさまざまだったが、壇上ではスーツ姿の男が淡々と話をしていた。
静かなざわめきに覆われた講堂に、スピーカーから流れる音声が無機質に響く。
『以上が最近頻発している不審火について明らかになっている事項であります』
スーツ姿の男は原稿らしきものに視線を落としながら喋っていた。
全体朝礼は政府の人間の訓示が主な内容だ。出勤している者は全員強制参加となっていたが、内容は常に冗長で、聞く者たちは皆飽きていた。
最後尾に1人で座っている少年は、ふわぁ、と小さくあくびをした。
「だりー」
溜息と共に呟く。
黒縁の眼鏡の奥で、眠そうにまばたきを繰り返した。
『精霊樹木医の諸君におかれましては、精霊王信仰組織の脅威に屈することなく業務を行っていただきたい。我々の業務は世界の安定に必要不可欠なものであり、正義であるからです』
(だったらこのくだらない朝礼をなくしてその分現場で働かせろよ)
少年は俯いて、胸元からペンダントを取り出した。
小さな琥珀の結晶。朝陽を受けて、きらきらと机が光った。
ぎゅっと琥珀を握りしめて目を閉じる。
(今この瞬間だって、『樹木化』している人間はいるっていうのに)
彼の名は、藤神パス。
大きな瞳で、まるで少年のような、あどけない顔つきをしてはいるものの、『精霊樹木医』として長年医療現場に携わってきた。
昨晩も3件の手術を担当して見事に成功させた。急患たちは集中監視室で穏やかに眠っている。それを確認してから朝礼に参加した。
西暦2200年頃。
地球は温暖化していくと誰もが信じていた。
しかし実際に訪れようとしていたのは氷河期だったのだ。
対抗する策として、人類が選択したのは自らの種を変化させることだった。
遺伝子操作の末、極寒の地でも耐えられる新人類が誕生して、新たな歴史が生まれた。
人類は永遠に繁栄していくかと思われたが問題が発生する。
新人類同士が婚姻関係を結び血が濃くなっていくにつれて、遺伝子がさらなる変異を遂げてしまったのだ。
ひとつは短命化。もうひとつは、16歳までに『死』の際に全身が炎に包まれるという病。
再び、人類は滅亡の危機にさらされた。
そこへ1人の救世主が現れた。
不思議な力を持った男は自らを『精霊王』と名乗った。
人類は精霊王によってある選択を迫られた。
このまま絶滅するか、それとも、もうひとつの心臓を手に入れて、種を存続させていくか。
もうひとつの心臓……『種子』。
ただしそれを手に入れた場合、死の代わりにもたらされるのが、種子の発芽による『樹木化』だ。
それでも人間は存続を望み種子を受け入れた。
その一方で、パスのような『精霊樹木医』という存在が現れた。彼らは少しでも長く発芽を食い止めて、老衰死と樹木化を同じ瞬間に迎えられるように、日々闘い続けていた。
そして、現在。西暦2528年にまで至っている。
『我々は、精霊王信仰組織を炎の手の集団と仮称します。1ヶ月以内での解決を目標とし、中部第一管区での現地調査に諸君らの代表を派遣する予定であります。任命された者は速やかに業務の引き継ぎを行うこと』
壇上では男が話し続けている。
やわらかな栗毛色の髪の毛を弄びながら、パスは朝礼が終わるのを待っていた。
***
肉の焼けるいい香りをしっかりと吸い込むと、パスのお腹はぐうと鳴った。
黒い鉄板皿の上でじゅうじゅうと音を立てながら油が跳ねる。
大きなトレイの中央に牛焼き肉、周りに冷や奴やほうれん草のお浸しなどの小鉢、大盛りご飯とお味噌汁を載せて、パスはやはり食堂でも端の方に座った。
他人との交流は望んでいないし、周囲も一匹狼で自分の意志を曲げない彼から距離を置いていた。
鼻歌混じりで冷や奴に醤油をかける。
(金曜日の日替わりが焼き肉定食になってから、財布的にも助かるし腹一杯になるしありがたいことずくめだな)
にやりと嬉しそうに微笑む。それは勤務中では絶対に見せない表情だった。
まずは合わせ味噌のお味噌汁を啜る。今日の具は豆腐と若布と葱だ。
ご飯とおかずを交互に食べつつ楽しんでいると向かいに誰かが座った。
邪魔されたことに眉を顰めて相手を見ると、やたらと豊満な胸の持ち主。
艶のある髪の毛をくるくると巻いていて、白く透き通った肌と、赤くぽってりとした唇は女優のような雰囲気を醸し出している。
左目の下にはほくろがあった。
そんな白衣姿の女性が、いかにもヘルシーそうな野菜中心のプレートをパスの向かいに置いていた。
そこで周囲がざわついていることにパスも気づく。
嫌そうに溜息をついた。わざと大きめにすることで不快感を表す。
しかし相手は全く意に介さない様子で妖艶な形の唇を開いた。
「ご一緒しても宜しいかしら、藤神先生」
「嫌だって言っても聞かないだろうが」
食堂中の視線が2人に集まっていた。
「最近、ジムに行く時間が取れなくてね。食事制限で体重コントロールをしているのよ」
「副院長になってからますますご多忙そうで」
「ありがとう」
「馬鹿、厭味に決まってんだろうが。休みはちゃんと取っているのかよ」
「気にかけてくれているのね。嬉しいわ」
彼女、統澄ウィルアは関東第一管区精霊樹木総合病院の副院長を務めている。
実質的なこの病院のトップ。つまり、パスの上司。本来なら敬意を持って接しなければならない相手なのに、パスの場合は、他の人間に対する態度と全く同じだった。
「当たり前だろう。っていうかいつの間に豆を食えるようになったんだ?」
「あら嫌だ。私だって成長するのよ?」
まるで恋人に向けるような微笑み。花が咲いたようにウィルアの表情は明るい。女優のような美しさを持つ彼女が精霊樹木医関係でメディアに露出すると、視聴率や売上が普段よりも倍増するという。
「んで、何の用だよ。何かなければわざわざ公の場で、もう、俺の前には来ないくせに」
すっとウィルアの瞳が細くなり、笑顔は一瞬にして消えた。
副院長としての顔が現れる。
「藤神先生。政府の命によって貴方を中部第一管区へ派遣することが決定したわ」
「派遣?」
2人の会話に耳をそばだてていた人々にざわめきが広がる。中には憐れみの視線をパスに向ける人間もいた。
「何だよそれ」
ウィルアが呆れたように溜息をついてみせた。
「相変わらず朝礼は右から左に抜けていったのね。そうだと思って、資料を持ってきたわ。まずはこれを読みなさい」
差し出された紙の束を、パスはたっぷりと躊躇ってから受け取った。
表紙には『中部第一管区・不審火事件に関する事項』と書かれてある。
パスは眉を顰めたまま、ゆっくりと紙をめくった。
10枚にも満たない内容をぱらぱらと読み終えると、鼻で笑う。
「で?」
「藤神パス。貴方には、精霊王信仰組織の調査へ行ってもらいます」
「精霊王信仰組織、ねぇ」
パスは薄く笑みを浮かべた。それから馬鹿にしたように椅子の背もたれに背中を預ける。副院長に対して、敬意の欠片も感じられない態度だった。
しかしウィルアはパスの挑発には応じない。
「そこにも書いてあるでしょう。ここ数週間、長期療養施設で不審火が相次いでいるの。精霊王信仰組織の仕業じゃないかって言われている」
精霊王信仰。人間が樹木化することを是とする価値観のことだ。
精霊樹木医による延命治療を否定して、ありのままの生を受け入れる。
彼らによる精霊樹木医の関連施設を破壊する事件もときおり発生していた。
パスは資料を乱暴に机に叩きつけた。
「なんで俺がそんなことしなきゃいけないんだよ。だいたい、お前が研修施設の学長になったからって講師を押しつけてきた件といい、お前、俺に対する人遣いが荒すぎやしないか? 俺になんか恨みでもあんのか。お前が小さい頃はあんなに良くしてやったのに」
「恨みなんてないわ」
ウィルアは机から乗り出して細い指先でパスの顎をとらえて持ち上げた。
唇が触れるか触れないかの距離感を保ち、彼女は声色を低くして囁いた。
「ただ、そのやる気のなさをどうにかしてきてちょうだい」
決して逆らえない威圧感がそこにはあった。
ちっ、とパスは舌打ちをして視線を逸らす。彼の敗北だった。
「健闘を祈っているわ」
食事もそこそこにウィルアは去って行った。
残されたのは不機嫌なパスと冷め切った焼き肉定食。無理やり胃に詰め込んで、パスは乱暴に立ち上がった。