トモ 2-1
中部第一管区、川のほとりの一軒家。
トモがひとりで10年間暮らした場所は空っぽになっていた。
こみ上げてくる気持ちを抑えきれずに携帯端末でがらんとした室内を何枚も何枚も撮影する。
破れて穴の開いた畳から、醤油を零して変色させた床の染みまで。自分の記憶力に自信がない訳ではなかったが、証明として残しておきたかった。
父親の樹木化で家庭が崩壊したとき、トモとダントは父方の親戚に引き取られることになっていた。それを拒んだのはトモ自身だった。
こっそりと親戚の家を抜け出して、ひたすら歩き続けた。疲れ果てたところでこの空き家を偶然にも見つけたのだった。
(最初の頃は土手の草とか、川の魚を必死に調理してたなぁ。お腹もよく壊したけど。だんだんと生活の要領が分かってきて、お金を稼ぐ方法も見つけて)
「わたし、がんばったよね」
トモは家に向かって語りかける。
大きく頷いて、玄関を出ると、家に向かって敬礼をした。
「今までありがとう。きっと、もうここに戻ってくることはないから」
***
離島でパスと再会した、あの日。
ふたりは本来パスが生活することになっていた診療所で夜を明かすことになった。
「あー。これは、やっぱり無理だな」
くしゃみを繰り返しながらパスが苛立って布団を押し入れに投げ戻す。
埃っぽい布団一式は、やはり、かびくさくて使えそうになかった。
「お前、ここの床で寝ろ。俺は診療所の方に行くから、何かあったら大声で呼べ」
ぶっきらぼうに言い放たれて、泣き腫らした状態のトモは慌てる。
「えっ、でも」
「俺は座りながら寝るのに慣れているからいいんだよ。とりあえず水道は流しっぱなしにしてあるからそのうち鉄くさくなくなるだろうし、そのぐちゃぐちゃな顔をなんとかして本州に帰るぞ」
トモは顔がさらに赤くなるのを感じた。
パスは髪の毛をかきむしると、ぶつぶつ呟きながら部屋を出て行こうとする。
「あっ、あの!」
「何だ」
「ご、ごめんなさい」
「それは俺に向けて言うべきことじゃない。お前は、自分のしてしまったことをしっかりと反省して、そのとき心の底から、然るべき相手に向けて言え」
怒ってはいないけれど、呆れているように見えて、トモはしゅんとした。
「仕方のない奴だな。今ここで説明するのも面倒だ。とりあえず、本州に戻ったら、俺の上司と面談でもしてもらうさ。そこで処遇を決めてもらおうと思う。いいな?」
はい、と答えるしかなかった。
パスが出て行き、ひとりになったトモは、天井を見上げた。
(やっと普通に喋れた、気がするのに)
胸が苦しくてぎゅっと服を掴む。
(ひとりでいることを寂しく感じたことなんてなかったのに)
今日だけはパスに、同じ部屋にいてほしいと思っていた。
ごろんと埃っぽい畳の上に寝転がり、トモは瞳を閉じた。脳裏にパスの姿を思い浮かべる。
『だからもう一度だけ言う。お前が、こちら側へ来い』
パスが初めてトモに笑いかけてくれたのだ。雑誌と同じ、ちょっとぎこちないけれど優しそうな笑顔。自然にすとん、とトモの心のなかに落ちた。
(あのときの先生、とんでもなく可愛かった……!)
ごろごろごろと転がりながらトモは両手で顔を覆う。
(でも)
ぴたりと動きを止めて、右腕を天井へ伸ばした。
室内灯で掌の輪郭は明るく縁取られるけれど、掌自体は、影になっている。
「わたしは、たくさんの人間を、燃やしてしまった」
確認した言葉は、部屋に散って消えた。
彼らの誰もが精霊王信仰組織に属していて、罪のない人間たちを迫害していた。と、トモは信じている。自分が間違ったことをしたとは思っていない。ただ、その方法が間違っていたと、燃やす必要はなかったのだと、徐々に後悔の念が湧いてきていた。
(先生の上司って、どんな人なんだろう。処遇って言っていたけれど、刑務所に入れとか、そういうことなんだろうか)
考えれば考える程、その晩は眠ることができなかった。
翌朝本州へ戻ると、トモは、家を引き払って関東第一管区へ来いとパスに言われたのだった。
面倒を見る、という表現はどうやらある程度事実のようだった。
***
関東第一管区の新幹線駅に着いたトモは、パスに初めて電話をかけた。
留守番電話に切り替わりそうなタイミングで耳元にパスの声が届く。
『すまん』
普段の声より少し低い。
「あっ、せんせ」
『急患が立て込んでいて病院から出られない。地図を送るから、ひとりで俺の家に向かってくれないか。夜には帰るようにする』
休日だから迎えにきてくれると言っていたのに、パスの返答はそっけないものだった。
ぶちっと途切れた通話に、いきなり出鼻をくじかれて肩を落とす。
(ちぇっ)
端末を鞄のポケットにしまう。そのまま駅の外に向かって歩き出した。
今日のトモは裾がフリルになっている黒いワンピースを着て、編み上げの黒いブーツを履いていた。トモにとっては、これでも考えられる限りのきちんとした恰好であり、喪服だった。
(奥さんもきっと先生が仕事人間すぎて怒ったことがあるんじゃないの? あたしと仕事、どっちが大事なのって)
そう思うと余計に傷ついた。
「あーあ。先生にとってあたしなんて娘みたいなものなんだよねぇ」
自分で言って、ふと気づいて笑い声をあげる。
(なんだ。あたし、先生のことが好きなんだ)
あっけらかんとして空を仰いだ。雲ひとつない青空に、何故だか笑いがこみ上げてくる。
「ないない。絶対に叶わないのに!」
周りの人間が驚いてトモを見ていたがかまわなかった。
「あーあ」
大きく息を吐き出して、トモは端末で地図を確認する。目的地まで辿り着けるか不安だったが、今のトモにはパスの家しか行く場所がないのだ。
駅の外にもたくさんの人間が溢れかえっている。皆、せわしなく歩いていた。
人々の話し声はまるで音の洪水のようだった。大きなうねりに飲みこまれそうになり、トモは首をぷるぷると横に振る。何回か利用したことのある場所の筈なのに急に不安が大きくなり、端末を両手で握りしめた。
きょろきょろと辺りを見回しながら、トモはようやく、そろりと歩き出した。
そして異変に気づく。
スクランブル交差点の中央で、突然、人々が将棋倒しになったのだ。
正確には樹木化した人々が、だった。
「え?」
にわかには信じられない光景にトモの足は竦む。
(どういう、こと?)
次々と目の前の人間が樹木化していく。
仲良く歩いていたカップル。スーツ姿のサラリーマン。子どもを連れた母親。容赦なく、どんどんと。
悲鳴が上がる。泣き声が響く。一気に周囲は阿鼻叫喚の図と化した。
走ってきた警官と警備員らしき制服を着た人々が怒号を轟かせて事態の沈静化を図ろうとする。しかし、警官も樹木化して、ゆっくりと人混みに倒れていく。
まだ生きている人間がそこから逃げだそうともがく。木々の隙間をぬって腕を空へ伸ばしている。
––すべてがスローモーションのようにトモの瞳に映った。あたかも恐怖映画を観ているようだった。
「せ、先生のところへ、行かなきゃ」
トモは震えながらその場を離れて精霊樹木総合病院を目指すことにした。研修施設と併設なので場所は把握している。幸いなことに徒歩圏内だった。
その途中でも、路上で残酷な光景が広がっていた。積み重なる、人間だったものの果ての姿。
自動車は交差点で多重事故を起こしていた。木になってしまった誰かの傍で子どもが泣いていた。
何もかもがまともではなかった。
気がつけばトモの瞳から涙が溢れていた。
悲しみ、恐怖心、不安感。感情がごった混ぜになっていた。
(先生、こわい。助けて……!)
トモは息を切らしながら精霊樹木病院の入り口に辿り着いた。
次から次へと救急車が入ってきてトモは轢かれそうになった。よろよろと避けながら進んで行く。
入り口にはたくさんの人間が殺到していた。助けて、死にたくないと、口々に叫んでいる。
「すみません、すみませんどいてくださいっ」
トモは人混みをかき分けて奥へと進む。なりふりかまっていられないのは、他の人々と同じだった。廊下も人の波でごった返していた。
トモは声を張り上げる。
「先生ー! 藤神先生ー!」
すると誰かに強い力で腕を掴まれて引っ張られる。勢いで軽く廊下の壁に体をぶつけてしまう。
「痛っ」
「どうしたの? 藤神先生は診察中よ」
見上げると、困ったように眉を顰めたのは白衣姿の背の高い女性だった。
奥二重の大きな瞳と、ぽってりとした唇。精霊樹木医であるのは間違いなさそうだが、女優のような華やかさも身に纏っていた。
左目の下には泣きぼくろがある。
(先生の奥さんにそっくり……!)
トモは驚きのあまり声を出すことができなかった。
彼女は雑誌で見たことのある、パスの亡くなった妻、カコにうりふたつだったのだ。
(なんで、亡くなった筈の奥さんがここにいるの)
「ちょっと、聞いてる?」
責める口調で尋ねられてトモは我に返った。
「あ、あの、あたし。今日から、藤神パス先生の家にお世話になる予定で」
すると白衣姿の女性、––ウィルアは合点がいったように目を丸くした。
「あぁ、貴女が」
その言い方はトモのことを把握しているようだった。
「藤神くんから話は聞いているわ。副院長の統澄よ」
「とうすみ、せんせい?」
「初めまして。貴女の処遇に関しては私に一任されています。一度話をしなきゃと思っていたけれど、こんな状況のときにここまで来なくたっていいでしょう? 私たちは今忙しいの」
ウィルアの態度は明らかな棘を含んでいて、トモは何も言うことができなかった。
こんな状況なのだ。パスは、誰よりも働いているに違いない。
トモは俯いて己の浅はかさを恥じる。
「す、すみません」
「まぁ、ここから離れても今は危険かもしれないわね」
ウィルアが唇に指を当てる。何か考えているようだった
「倉庫が空いているから案内するわ。落ち着くまでそこにいなさい。後で藤神くんに言って迎えに行かせるから」
そう言うと、ウィルアはすたすたと歩き出した。
(なんだ、言い方はきついけどいいひとじゃん)
トモは胸をなで下ろしてついていく。ウィルアの後は、ふんわりといい香りが漂っていた
廊下の突き当たりまで歩いて行くと医薬品の入っている段ボール箱がぎっしりと置いてある倉庫があった。
大人が2人入るとあまり自由に身動きのとれない、狭い空間。
しかしこのパニック状況下において安全は確保されそうだった。
「あ、あの」
おずおずと、トモはウィルアを見上げた。
「ありがとうございま」
言いかけたトモの額に冷たい何かが触れた。黒くて鈍い光が見えて言葉を失う。
(拳銃––!)
実際に目にしたことがなくても分かった。突きつけられているのは、確かに拳銃だった。
「ここまで来なければ命までは取らないであげたのに」
拳銃以上に冷たく、ウィルアの声が頭上で響く。
感じた棘は本物だったのだ。
(何で、どうして)
路上で抱いたのは恐怖だった。しかし、今、それ以上の感情がトモの全身を襲う。わなわなと唇が震えてうまく動かすことができない。
痺れを切らしたようにウィルアがやれやれといった様子でわざとらしく溜息を吐く。
「聞こえなかった? ここまで来たことが貴女の運の尽きなのよ」
トモは何も言うことができなかった。汗が頬を伝って床に落ちる。走ったことで熱を持っていた筈の指先はすっかりと冷え切っていた。
ウィルアの指は引き金を引いた状態で固定されている。彼女は本気でトモを撃とうとしているのだ。
「それにしてもとんだ誤算だったわ。『琥珀の同胞団』が貴女を殺してくれていればもっと事は楽に運んだ筈なのに」
(……まさか)
トモの全身に痛みが走る。視界から急激に色が褪せていくようだった。
琥珀の同胞団。
菜の花が咲き誇る離島の、精霊王信仰組織。ダントを殺した集団。




