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パス 2-1

 トモがパスの目の前から姿を消して3ヶ月が経とうとしていた。


 雲ひとつない晴天の日。

 ここは、中部第四管区の港から高速船で30分のところにある島。

 港に定期船が着くと、客がぞろぞろと降りてくる。その中にスーツ姿のパスがいた。

 パスは乗車券を船員に手渡して、地上に立つ。

 自転車に乗れば半日で島内を一周できるということで、港の入り口にはレンタサイクルも置いてあった。アスファルトの道路の上ででっぷりとしたぶち猫が大きなあくびをしている。

(のどか、という表現がぴったりな島だな)

 気候が穏やかなこの島には300人程度が住んでいるという。中部第四管区にありながら関東第一管区からのアクセスもいいので、かつては『首都圏にいちばん近い天国』というキャッチフレーズで観光地としてもアピールされていたらしい。


(とりあえず飯でも食うか)

 港の向かいには、年季の入った平屋建ての食堂兼民宿があった。

 観光客向けというよりは地元の人間の御用達らしく、メニュー表がない代わりに壁に無造作に定食名が貼られていた。

 いらっしゃいませ、と声をかけてきた女性店主に会釈をしつつそれらを眺めて、パスは日替わり定食を頼んだ。

「お待たせいたしました〜。はい、どうぞ」

 愛想も、恰幅もいい店主だった。

 日替わり定食は、魚のフライと刺身がメインだ。白いご飯、二枚貝のお味噌汁、キャベツの千切り、添えられた小鉢はいかと大根を柔らかく煮たもの。

 少し安定の悪いテーブルに置いてあったポットからお茶を注ぐと、まずは一口飲む。

 魚のフライは衣が軽く、噛むとさくさくっと音がした。中の白身は柔らかく甘みを感じられる。赤身の刺身は肉厚で、醤油につけると水面に脂が輝いた。

(想像以上に美味いな。たまには魚もありだ)

 パスは黙々と箸を運びながら、別のことに思いを巡らす。


 精霊樹木総合病院から滅多に離れることのないパスが、わざわざやって来たのには理由があった。

 トモが病室からいなくなって以来、至るところで精霊王信仰組織が次々と壊滅に追い込まれるというニュースが相次いでいる。どう考えてもトモの仕業だとしか考えられなかった。

 パスは、この島がダントを死に追いやった組織の隠れ蓑だという情報を得た。

 必ずトモは現れると、確信していた。


『先方からのたっての希望もあるとはいえ、貴方が離島の診療所に望んで出向するなんて一体どんな風の吹き回しなの?』


 パスはウィルアの怪訝そうな表情を思い出す。


(俺にだって分からない)


 種子を持たない人間が、他者の種子を燃やす。

 その身に火種が燻ればいずれ発火するのも時間の問題だ。

 現にその末路を辿った人間を、パスは知っている。


(わざわざこんなところまで来た理由なんて)


 敢えて考えないようにしている問題に、思考が辿り着こうとしたときだった。


「ご飯のお代わりは無料だよ! たくさん食べておくれ」

 髪の毛を頭上で丸く束ねた彼女は、化粧っ気のない顔でにこにこと笑っている。

 虚をつかれてパスは我に返る。

「ありがとうございます」

「美味しいだろう? うちは毎朝水揚げされたものしか出さないから」

「そうなんですか」

「いかはうちの旦那が釣ってきたんだよ」

 柔らかく煮られたいかは箸で簡単に切れた。

 客がパスひとりだからか、店主は大声で話し続ける。

「旦那は代々続く漁師の家系なんだ。この島の住民は職業を世襲することが多くて、あたしも実家の民宿を継いでこうやって経営してるんだよ。あ、ほら、来た来た」

 現れたのは藍色の着物を羽織った老人男性。

「あの人の家は、代々、村長を務めているんだよ」

 腰の曲がった老人は杖をつきながらゆっくりとパスに近づいてきた。

白い髪と髭が一体化していて、好々爺然というよりは仙人のような風貌だった。着物の袖に両腕をすっぽりと覆い隠してい

「ひょっとして貴方が藤神先生ですかな」

「はい」

 村長は深く頭を下げた。

「こんな辺鄙な島へ来てくださってありがとうございます。この島の村長を務めております」

「藤神パスです。いたらない点もあるでしょうが、宜しくお願いします」

 パスも立ち上がって礼をした。

「精霊樹木医としての貴方の活躍はよーく聞いています。お若いのに、めざましい功績をあげていらっしゃる。そんな方に、まさか本当にお越し頂けるとは思ってもいませんでした。短い期間で非常に残念ですが、是非とも、この島での生活を楽しんでいってください」

 去って行く老人の後ろ姿に、パスは眉を顰めた。

(胡散臭い爺だな)

 杖がなくてもきちんと背筋を伸ばすことができる筈なのに、敢えて年老いたように装っているのではないか。

 理由は勿論、相手を油断させる為だ。

 この小さな島で代々村長を務めてきたということは恐らく精霊王信仰組織とも無関係ではない筈だ。

 睨みつけるようにして視線を送る。

(相手も俺のことを知っているかもしれない。何が起きるか分からない島、ということか)

「飯は美味いのにな」

 呟くと、白ご飯をお代わりした。


***


 パスは、島内を歩いてみることにした。

 道路上ではのんびりと猫が毛繕いをしたり伸びていたりした。一本道は緩やかな上り斜面のようで、進めば進むほど海が遠ざかって空に近づいていく。白い鳥たちがパスの頭上で連なって飛んでいた。賑やかな鳴き声はまるで歌っているようだった。

 歩くのにはちょうどいい暖かさで、風も凪いでいる。

 やがて、島の全景を見渡せてしまいそうなくらい高い場所まで辿り着く。

 海の向こうに本州がうっすらと見えた。

 鮮やかな緑色の地平線がはっきりとパスの瞳に映る。その緑色を挟むようにして空と海の深い青色。

 清々しい景色ではあるものの、パスはぎゅっと拳を握りしめて、唇を噛んだ。

(今この瞬間にも樹木化してしまう人間はたくさんいる。そんなひとたちの生きた証が、あの色なんだ)

 無念を想うと、今度は、怒りがこみ上げてきた。

 パスは大きく息を吸い込む。


「教えてくれ。あんたは人類を木に変えてしまうことで、守れるとでも思ったのか!」


 それは精霊王に対してずっと抱いてきた想いだった。

 一気に吐き出した叫びは空に攫われていく。


「今、どこでどうしているんだ。何故人類の前から姿を消した。自分の選択を後悔しているから、逃げたんじゃないのか!」


 一緒に過ごした記憶はほとんどない。

 どんな表情で、どんな声でパスに接していたのかも覚えていなかった。母親について語られたこともあったのかもしれないが、思い出すことはできなかった。。


「もしもそうだとしたら、自分勝手すぎるだろう!」


 鳥たちが応えるかのようにいっそう大きく鳴き声をあげる。勢いで羽根が抜け落ちて、ひらひらとパスの目の前に舞い降りた。

 こだまなんて返ってこない、あっけらかんとした空。

(馬鹿馬鹿しいな)

 自分自身の衝動に苦笑して、パスは小さく溜息をついて歩き出す。

 いつの間にか道は下り坂になっていた。


***


 しばらく歩いて観光客用の娯楽施設の脇を通り抜けると、白い灯台と、高い柵に覆われた灰色の建物があった。看板によると、海から引いてきた水を浄化して使えるようにする為の施設らしい。

 その隣には大きな公園があった。

 カラフルに塗装されたブランコ、シーソー、グローブジャングル。ベンチ、砂場。

 花壇では色とりどりのチューリップが咲いていた。

「花なんてひさびさに見た」

 そして、パスが目を遣った先にはより鮮やかな景色が広がっていた。

 浄水施設と公園の向こう一面に、無数の黄色い菜の花が咲き誇っていたのだ。

 菜の花は成長を邪魔されることがないのか、子どもだったらすっぽりと隠れてしまいそうなくらい背丈が高い。

「菜の花の海、か」

 興味本位で近づいていくと、人が通れそうな道が隠れていた。

「迷路みたいだな」

(もしくは、食用にもなるしこの場所は誰かの畑なのかもしれない)

 パスの腰の高さまで伸びた茎の先には小さな花のかたまりがついている。ひとつひとつは小さくても、集まることでこの黄色い海がつくられていた。

 空から太陽の光が燦々と降り注いでいる。

 パスが通り過ぎる度に、菜の花は心地よさそうに揺れていた。


 しばらく歩いてから、パスは立ち止まった。

 正確には止められた。誰かが、後ろから抱きしめていた。柔らかな感触と回された腕の位置でパスはすぐに誰だか判った。

 振りほどくこともできたが、そのまま瞳を閉じて俯く。


「先生、どうしてこんなところへ来ちゃったの」


 鈴のような声の主は、トモだった。

 パスは正直に気持ちを告げるかどうか逡巡して息を吸い込む。


「お前を連れ戻す為だ」


「連れ戻す?どこに?」

「現実に、だ」

 くすくすと笑い声がした。

「––何がおかしい」

「あたしはちゃんと自分の足で立ってるよ?」

「その場所はあまりにも不安定だ。復讐なんてやめて、こちら側へ帰ってこい」

 そっとトモが両腕を離す。

 パスはゆっくりと振り向いてトモを見た。

 最初に出会ったときと同じ、黒ずくめのつなぎを着て、ブーツを履いていた。

 大きな黒い瞳は少しも笑っていない。この場には似つかわしくない炎を纏っているようだった。

「この3ヶ月、精霊王信仰組織が壊滅状態に追い込まれるという幾つものニュースを見た。全てお前の仕業だな」

「うん、そうだよ」

 何の罪悪感もない、けろりとした態度だった。

 パスは語気を強める。

「精霊王信仰組織の拠点には、幾つもの炭化した樹木があったという。お前は自分のしたことが解っているのか。そんなことを続けていればやがてお前自身が発火するんだぞ」

「まるで見てきたように言うんだね。流石、奇跡の精霊樹木医さまだ」

「茶化さずに俺の話を聞け」

 するとトモは両腕を勢いよく広げた。

 掌に黄色の炎が宿る。それは温度を持っていなかった。

「大切なひとを喪ってどうしてそれまでと同じようにしていられるの? 先生は永く生きていけるかもしれないけれど、あたしたちの命には限りがある。お父さんは木になった。お母さんは心を病んで、木になって、腐り落ちた。お兄ちゃんは騙されて木になってしまった。もっと生きられた筈なのに。もうあたしの家族はどこにもいない。どうしてか知ってる?」

 その瞳はパスを射貫くような強い光を帯びていた。

 パスは何も言わなかった。黙って次の言葉を待った。

「全部、あたしの所為だ。あたしが種子を持たなかったから、こんな運命を辿ってしまった」

 トモは敵意を剥き出しにして、吐き捨てる。

「あたしには覚悟がある。お兄ちゃんの仇を討つ。その後は自分がどうなってもいい。お願いだから、邪魔しないで」

 ゆるゆると炎が消えていく。

 トモは悲しそうに微笑みを浮かべた。

「ここ、とてもきれいだね」

 そして、パスから視線を逸らして全体を見渡す。

「本当ならもっと楽しい気持ちで先生と共有したかった」

 しゃがみこんで、トモはそっと菜の花に触れた。

「だけど先生とあたしで決定的に違うことは、先生は、お母さんを感じることのできる琥珀を持っていること。先生のお母さんが木になっても先生を待っていることだよ」

 立ち上がってパスに再び視線を向ける。瞳は潤んで、今にも泣き出しそうだった。

「だから、きっと同じ気持ちで同じものを見ることは、できない……」

 消え入りそうな呟きを残して、トモは走り去った。


 菜の花畑に取り残されたパスは、しばらくの間その方向を見つめ続けていた。

「どうしてそうなるか」

 ここが病院だったら苛立ちを壁にぶつけていただろう。

 流石に菜の花は蹴ることも踏みつぶすこともできなかった。柔らかな土に思いきり足を踏みつける。地面に革靴の跡がくっきりと残った。

(あいつは自らの発火を覚悟している。そこまでして自分の存在を責めている。今や全てを拒絶して)

 その発端はトモが『無種子』ということだ。トモ自身は何も悪くない。

 鬱屈とした心情が胸の内から全身に広がっていく。

(だったら悪いのは精霊王だろう)

 責めるべき相手が違う、とパスは拳を強く握りしめた。

 同時に浮かんだのはかつて愛した人間だった。トモと同じく種子を持たず生まれてきて、そして炎に包まれて命を終えた女性。泣き笑いの表情でパスを見つめていた。

(カコ、教えてくれ。俺はどうすればいい? どうしたらお前みたいな境遇の奴を助けられる?)

 しかし、首を横に振る。

(駄目だな。俺は、問いかけてばかりだ。そうじゃないよな。自分でどうにかしろってことだよな。俺は、その為にわざわざこんなところまで来たんだろう?)

 パスは懐から琥珀のペンダントを取り出した。太陽の光を受けてきらきらと輝く。

 六角柱のなかに華奢な指輪。母親の形見。

 トモには何かの根拠があるのか、母親のパスへの愛情を断言していたが、その温もりをパスは知らない。

(俺のすべきことは––)


 パスは思い出す。

 3ヶ月前の、トモが闇に捕まった日のことを。

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