挿話
それは、今から100年ほど遡る。
「初版があっという間に完売しちゃったんですよ! これは昨今の出版業界事情から鑑みてもありえないことです。皆、藤神先生の動向に注目しているんですね。大げさだったかもしれないけれど、奇跡の精霊樹木医ってタイトルにしたのは間違っていないと今では確信しています」
大手出版社のオフィスの隅にある曇りガラスで仕切られた応接室。
グレーのパンツスーツに身を包んだ20代半ばの女性が穏やかに微笑んだ。焦げ茶色の髪の毛を金色の髪留めでひとつに束ねて、素肌に近いのに綺麗に見えるようにメイクをしている。左目の下には、泣きぼくろがあった。
統澄カコ、出版社勤務。
その向かいに座るのは白衣姿のパスト・B・藤神だった。
苦笑しながらパストは髪の毛をぽりぽりと掻いた。
「偶像崇拝っぽいのは、苦手です。街中でサインを求められても、俺はアイドルじゃないんだし」
「いえいえ、藤神先生は現代のヒーローです」
「……ありがとうございます」
パストは照れながらホットコーヒーに口をつけた。
雑誌『奇跡の精霊樹木医 その歩み』の重版を受けて、さまざまなメディア媒体から声がかかっている。その打ち合わせの為に出版社まで足を運んできていた。本来の業務に支障をきたさないように、不要なものは削ぎ落として、精霊樹木医学会のアピールに繋がるものは積極的に受けていこうという方針がまとまったところだ。
「ひとりでも穏やかな樹木化を迎えられるように最善を尽くしていこうと思っています」
職場に戻ろうとパストが鞄に手をかけた。
するとカコが弾かれたように立ち上がる。
「あ、あの! 今度、一緒に食事でも、いかがでしょうか!」
その頬は赤く染まっていた。最大限の勇気を振り絞った、明らかな『告白』だった。
今日ここへ呼び出したのも口実のひとつに過ぎなかった。打ち合わせなんて、対面でなくても方法はいくらでもあったし、今までもそうしてきたのだ。
「すみません。勤務がたてこんでいて予定がつかないんです」
「あ、あー。そうですよね。本当に今日もお忙しいところお越しくださってすみません。あはははは」
「いえ、休憩時間がちょうどよかったので。また何かあれば電話でお伝えします」
パストが一礼して立ち上がった。
(ちぇっ)
カコは心の中で溜息をついた。応接テーブルの上にある雑誌で、パストが微笑んでいる。何百枚もの候補のなかから、一番柔和に見える表情をカコが選んだ。自信の1枚だった。
「あの、明日の昼ご飯でもよければいいですよ。院内の食堂で、あまり時間はとれないし急患が来たら長居はできませんが」
溜息が漏れて伝わっていたのかもしれない。
顔を上げると、表紙と同じようにパストがにこにこと笑っていた。
「は、はい! 全然問題ないです。寧ろ大歓迎です。ちょうど明日は有休を申請してたし、ほんのちょっとで構わないので、宜しくお願いします!」
***
人間が樹木化するようになって約100年が過ぎていた。
発足したばかりの精霊樹木医学会は、樹木化を止めることはできないものの、急性症状を抑えることを目的としている。知名度は段々と上がってきていて、樹木化の防波堤として心の支えになり始めたところだ。
人柱とまでは言わないものの、より注目を集める必要があった。
そこで広報担当のように、パストは様々なメディアに顔を出すようになっていた。
精霊樹木総合病院の食堂は、最上階にあって大きな窓ガラスがいくつも並んでいるので、晴れていると照明が要らないくらい明るい。
広く開放されているので一般市民も多く利用している。
(初めて来たけど、すごく広い。しかもどれも美味しそう)
カコは支払いを済ませ、きょろきょろと辺りを見回してパストを探した。
「統澄さん」
声のした方を見ると窓際のテーブル席でパストが手招きしていた。普段と変わらないぼさぼさの髪の毛、スーツの上に白衣姿。対するカコは、髪の毛を束ねず、パンツスーツではなくてタンスの奥から引っ張り出してきたワンピース。高さのあるヒール靴。
明らかにパストのことを意識している自分が、唐突に恥ずかしくなって俯く。
「す、すみません。遅くなりました」
「いえ。俺もさっき座ったばかりなんで大丈夫です。それよりも、一瞬誰だか分かりませんでした」
「そ、そうですよね。すみません」
「いいと思いますよ」
(今、何て)
ぱっと顔を上げると、パストはにこにこと微笑んで機嫌がよさそうに見えた。
心の中だけでガッツポーズを取ってカコは向かいに座る。
「初めて来たんですけど、すごいですね。下手なレストランよりも立派でびっくりしました」
「一般開放して、親近感を持たせて好感度を上げたいっていう上の思惑なんですよ。またよかったら特集を組んでいただけると嬉しいです」
「特集、ですか」
「違った切り口から精霊樹木医に親しみを持ってもらうのも有りかなと」
パストの意図を理解して、今度はこっそりと肩を落とす。
(あぁ、じゃなきゃわざわざ誘ってくれないよね)
「ここは肉が本当に美味いんですよ。焼き肉定食が好きなんですが、一番高いのでなかなか頼めなくて。でも、今日は特別に、あ」
「え?」
「統澄さんも焼き肉定食ですか」
テーブルにはふたつの焼き肉定食が並んでいた。
黒い鉄板の上で焼かれた肉がじゅうじゅうと音を立てている。
「お、お肉が、好きでして」
(勢いで選ぶんじゃなかった。せっかく服も気合いを入れたんだから、もっと女子らしいチョイスにしておけばよかった!)
後悔を隠すように、カコは引きつった笑みを浮かべた。
「き、記事にさせていただきますね。写真は後日改めて撮影させていただきます」
「宜しくお願いします。では、いただきます」
パストが手を合わせてから箸を手に取る。
大きな掌と長い指。その手で、多くの人間を救ってきた名医だ。
現代の救世主。本来ならばカコとは接点のない遠い存在だった。
美味しそうにご飯を頬張るパストを見ていると、カコの心はだんだんと萎んでいくような感覚に陥っていた。
焼き肉の味もよく分からない。
「どうですか?」
「は、はい。あの」
パストが首を傾げた。
カコは箸を置いて、膝の上で拳を握りしめる。
「藤神先生は、『無種子』の人間についても救済措置が必要だと仰っていましたけれど、種なしに会ったことはありますか?」
(違う、そうじゃなくて。言いたいことは)
「無種子だと社会的に困難が多くなります。偏見だってあります。そこをどうやって変えていけばいいと思いますか?」
(しまった)
それはカコが彼に興味を抱くきっかけだった。
取材を重ねていくうちに何人かの精霊樹木医と出会ったけれど、誰もが種なしの存在に否定的だった。
パストだけが違った。未来への希望にしたいと、言った。
カコは編集長と渡り合って、最後の章に無種子の人間へのメッセージをねじ込むことに成功した。
ぶつけるつもりのなかった問いかけ。カコは震えながら、目の前の相手からもたらされるだろう答えを待った。
パストの表情から何か大事なものが消えたような気がした。
無機質な緑色の瞳はカコの知らない誰かのものだった。寧ろ人間ではない、宝石のような深くて暗い美しさを湛えていた。
そこから放たれた視線が刃のようにカコの胸に突き刺さる。
「統澄さん、よかったら、お連れしたいところがあるのですが。いつなら都合がいいでしょうか」
2人で出かけるという機会。
––こんな表情でなければ、こんな状況でなければ、カコは手放しで喜びたかった。
***
週末に2人が訪れたのは、精霊王平和記念碑だった。
曇り空で少し肌寒い。観光客も殆どいなかった。
カコはトレンチコートの上に花柄のストールを重ねて、身震いをした。
「学校の修学旅行ぶりです。藤神先生はここに縁が?」
「えぇ、まぁ」
新幹線駅で待ち合わせてからのパストはずっと不機嫌そうに見えて、言葉数も少なかった。
「精霊王と人間の恋物語、ですね」
2人は精霊王の銅像を見上げる。
「素敵ですよね。その出逢いがあったからこそ、人類はこうやって生きていられる」
「そんなことはありません」
「え?」
食堂で見せたのと同じ表情で、パストがカコを見つめる。
「俺は、精霊王と人間の間に産まれた存在です。その所為か、15歳を過ぎた頃から外見が変わりません。種子を持っているかを調べたことはないですが、恐らく樹木化も発火もしないでしょう。もしかしたら不老不死なのかもしれません。そんな自分の運命を呪って、精霊樹木医になりました。どうすれば人類が滅亡しないのか模索するのが課せられた使命だと考えて
います。だからこそ思う、『無種子』というだけで制裁が加えられる世の中は異常だと。責められるべきはどちらでもない、俺自身なんです」
(精霊王の––子ども? 藤神先生が?)
カコには理解することが難しかった。
確かに彼は童顔だ。一方で、樹木化の知識も深く、技術も抜きんでている。
「どうして、そんな重要なことを、わたしに」
「統澄さんは『無種子』ですね」
パストが躊躇うことなく断言した。
カコの顔には、いつから、とかどうして、という言葉が表れていたのかもしれない。
「何となくだけど、分かるんです。種子を持っているかどうか。この前、食堂で確信しました。精霊王の所為で苦しませることになって、本当に、申し訳ない」
深く頭を下げられて、カコははっと我に返った。
「やめてくださいっ。そんなつもりは、なかった、んです」
大きな声を出してしまい周囲の注目を集めてしまう。
慌てて声のトーンを下げつつ言葉を継ぐ。
「黙っていてごめんなさい。わたしは種なしです。だけどそのことで差別を受けることはなく今まで生きてきました。だからこそ、世間ではマイノリティーだということを知って、なんとかしたくって、その」
周りの観光客は、2人のことを痴話喧嘩しているカップルだと認識したのか、様子を窺っているように見えた。
提案してきたのはパストだった。
「ちょっと場所を変えましょうか」
そしてそろりと川辺の方へ歩く。
今にも雨が降り出しそうな空を受けて、水面は灰色がかっていた。
2人で並んで土手に座る。
「わたし、妹がいたんです」
カコは膝の上で手を組んだ。
重大な告白に返せるかは分からなかったが、誰かに話すつもりはなかったことを、打ち明けることにした。
「先生がちょうど、出産時リスクを減らすっていう研究成果を発表された頃に、あの子は妊娠しました。両親がすぐに総合病院を予約して、妹は無事に女の子を産みました。だけど退院してしばらくして、妹は木になってしまいました。妹の旦那さんはその知らせを聞いて仕事場から駆けつけようとして、交通事故に遭い、衝撃で樹木化しました。残された子どもは、両親の反対を押し切ってわたしが引き取りました」
指先を弄びながら、言葉を繋ぐ。
「両親はとても優しいひとたちです。虐待を受けたことはありません。だけど、そのとき、こう言われたんです。『いつ発火するかも分からない貴女に子どもが育てられるの? 樹木化の恐怖を伝えられるの?』って。おかしいですよね。発火だって樹木化だって、死にはかわりないのに。そのとき、わたしはたくさんの障害から覆い隠されて生きてきたことに気づいたんです」
隣でパストは俯いて話を聞いていた。
「妹の子どもは、マイっていいます。もう5歳になりました。時々生意気なことも言ってくるけれど、すっごくかわいいんですよ。わたしも妹にも泣きぼくろがあるんですが、彼女にもあって。きっとわたし自身はこんなだから、結婚も出産も難しいだろうし、一生大切に育てたいんです。両親はああ言ったけれど、わたしは『無種子』な分、逆に、伝えられることだってあると思うんですよ。だから」
(だから、自分にできることは精一杯頑張って、生きた証を残したい。伝えたい)
そう結論を述べようとしたときだった。
パストがカコに体を向けたかと思うと、ぎゅっと抱きしめてきたのは。
「せ、先生?」
「どうして」
「え?」
「どうして、そんな前向きに捉えられるんだ。俺は、迷ってばかりで、こんなに苦しいのに」
耳元でパストが辛そうに呟いた。
「誰からの接近も避けてきたのに君に対してだけはそれができなかった。『無種子』だと途中で分かってしまったからだろうか。どんな風に生きているのか知りたくなったんだ」
振りほどくこともできるくらいの弱々しい力だった。
しかし、カコには振り払うことも抱きしめ返すこともできなかった。
「こんな俺のことをずるいと思うか?」
首を横に振る。
(時間が止まってしまえばいいのに)
お互い、決定的なことは何ひとつとして言えないのだ。
置かれている境遇は他人との交流を避けさせるには充分すぎた。
繋がりを結べば相手が不幸になる。実際にそんなことが起きた訳でもないのにそう思い込んで生きてきた。
どちらかが、一歩を踏み出さない限り。
永遠に変わらない。
ずっとひとりのままだ。
ずっと。
「っ、先生……。先生は、ずるくないです。わたしこそ最初から打ち明けるべきでした。先生に近づけば自分自身の人生がなんとかなるんじゃないかっていう打算がありました。でも今日はそんな嫌な自分は別にして、わたしは、先生のことを、もっと知りたいって思っています。先生のことが、……好きです」
体を震わせながら、カコも両腕を伸ばした。
ぽつり、と空から雫が落ちてくる。そして堰を切ったようにどんどんと。辺り一帯が濃く染まり水面に打ち付けられた雫は激しくしぶきをあげる。
抱きしめ合った2人のこれからを暗示するかのような大雨になっていく。
***
時はどんどんと流れていく。
「父さんはそんな男、許さん。ってやつ、一度やってみたかったんだよ」
「お前も、もう、おばあちゃんだな」
誰も留まることはできない。パスを除いて。
「お。来たか。大きくなったなぁ」
自分の身長と同じくらいの大きさの熊のぬいぐるみを抱えた少女を見て、パストは破顔した。
「すみません。どうしても曾お祖父さまの誕生日をお祝いしたいってごねて」
「嬉しい話だよ。なぁ、カコ?」
台所から、歳を取ったカコが少年のままのパストに微笑み返す。
カコの胸元では琥珀のペンダントが揺れていた。
「えぇ。パストったら、この日だけは絶対に仕事を入れないって決意して、とんでもない連勤してたの。そんなこと今までなかったのに。そうだ、ケーキの飾りつけをしたいって聞いたんだけど」
「うん! 仕上げはわたしがやる!」
少女が大きく手を挙げる。
「うぃるあは、ひいおじいちゃまとけっこんするの」
その場の大人全員が視線を合わせて微笑んだ。
「ひいおじいちゃま、だいすき。うぃるあもおんなじおいしゃさんになる!」
時間がゆっくりと、急ぎ足で流れて行く。
それはつまり、決して止まりはしないということでもある。
***
カコが瞳を開けると、今にも泣き出しそうなパストの表情があった。
掌が熱を帯びていた。
「守ったよ」
「守ったよ、じゃない。この大ばかやろう」
へへへ、と笑えたかどうか、カコにはもう分からなかった。
1ヶ月前に誕生会をした空間は煤で真っ黒になっていた。灰になった木の幹が幾つも転がっ
ている。この場所で何が起きたか想像するのは簡単で、残酷だった。
「精霊王信仰組織なんて本当にあるんだね。どこで聞きつけたか知らないけれど、精霊王の恋人の琥珀が欲しいって襲いかかってきたから、……燃やしちゃった。こんなこと、初めて」
カコの上半身を朱い海から救い出すと、パストはしっかりと抱きしめた。
「もう、喋るな」
「どうしたの。なんで、泣いてるの」
最期は刻一刻と近づいている。
そっと、カコの皺だらけの右手がパストの頬に触れた。
「大丈夫、わたしは貴方の心の中で永遠に生き続けるから。記憶は繋ぐことができるから。どうか悲しまないで。寂しくならないで」
「喋るな」
「貴方はちょっと弱いところがあるから心配だけど。覚えていて、わたしは、世界でたったひとりの、貴方のことを愛している……から……」
掌は力を失い血の海に落ちて、パスの頬には跡だけが残った。
握りしめられていた左手がそっと開いて、琥珀のペンダントが床に落ちる。
そしてカコの体が自らの炎に包まれて燃え上がった。黄金色の冷たい火は彼女だけを灰と化す。灰が風に舞って、音のない音楽を奏でて、空気中に散っていく。
生きた証は何も残らない。
それは本来、人類が辿るべき運命だった。




