トモ 1-6
そんな夢を繰り返し見た。
まどろみから起き上がって、トモは、ゆっくりと自分の指先が動くのを確かめた。
(情けないなぁ)
溜息を吐き出すとそれすらも熱い。体温計は38度5分を示していた。
どのくらい眠りについていたのか分からなかった。
枕元に置きっぱなしのぬるくなったペットボトルを手に取る。
口に含もうとすると、ペットボトルの中身は空になっていた。手を放すと、軽い音を立ててペットボトルが床に転がった。
やわらかな西日が、窓から射し込んできていた。
(逢いたい)
不意に脳裏に浮かんだのは、パスの無機質な表情だった。
(嫌われているけれど、逢って伝えたい。先生のお母さんが、先生を待っているよって。そうすれば先生もきっとまた笑顔を取り戻してくれる)
トモよりもずっと長い時間をかけて、過去と向き合い闘ってきた人間を尊く感じていた。
その彼が笑ってくれるなら、それはトモにとっては、道標になるかもしれない。
闇雲に歩き続けてきた自分の希望の光に。
(雑誌、あげなきゃよかった)
そのとき、がたん、と音がした。
「先生?」
ありえないのにと思いながら音の方向に顔を向けた。
この家の扉に鍵はついていない。誰でも入ってくることはできた。
「見つけた」
嬉しそうな声色だった。
逆光で姿は見えなくてもトモには判った。
「お兄ちゃん」
現れたのはパスではなくてダントだった。寝込んでいるトモの様子を見て察したのか、座って顔を覗き込んでくる。
「大丈夫か?」
首を小さく横に振ったトモを見て、ダントは冷たい掌を額に押しつけた。
「熱があるな。食欲はあるか?」
首を横に振るトモ。
「冷蔵庫、開けるぞ。覚えてるか、風邪を引いたときは、卵粥がいちばんだ」
トモは横になったままダントがてきぱきと動くのを見ていた。
再会したときとは違う、安心感。
ダントは扉を開けたまま台所で作業し出す。今日はフード付きのパーカーにジーンズというラフな恰好だ。
「またすぐに会えると思っていたのに実は学生じゃなかったと知って、色々と調べたんだ。ここに住んでいるという情報を手に入れて飛んできたけど、来てよかった。そんな体じゃ弱っていく一方だろう」
父親が発芽してしまったときの、頼れる兄の姿と重なる。
「だいたい、トモは『無種子』なんだから無茶はよくない。無事に成長しても16歳前後で発火確率が急上昇するんだ。こんなところで生活するなんて自殺行為に等しい。体調が治ったら、関東に連れて行くからな。僕は特別なエリートだから寮を出て生活する権利だってあるんだ。そうしたら、2人で部屋を借りて、一緒に暮らそう」
振り向いたダントの手には湯気の立つ器があった。
「ほら、起き上がれるか? 食べられなかったら口に運んでやるからな」
トモは、なんとか体を起こして卵粥を受け取る。
「ありがとう、お兄ちゃん」
感謝の想いが溢れて、涙が粥に落ちた。
ダントは微笑みかけてトモの頭を優しく撫でる。
「トモは僕の大事な妹だから」
「……あのね、お兄ちゃん。お父さんとお母さんがどこに植えられているか知ってる? あたし、ふたりに会いたいんだけど」
「落ち着いて。まずは食べてからだ」
溶き卵がきれいに細く固まっているお粥は、熱すぎて、冷ましながらでないと火傷しそうだった。
鼻が詰まっているのか味の善し悪しは分からなかったけれど、トモにはダントが料理をつくってくれたというだけで充分だった。
「発火しないように治療を受けるんだ。まずはそこからだ」
「あたしは発火しないよ?」
「そんなことはありえない。体温だってこんなに高いのに」
「色々と出かけてたから疲れちゃっただけ」
「藤神先生のことを調べていたんだろう」
急にダントの声色が低くなった。
ダントの両手がトモの肩を掴む。ふたりは向き合う体勢になった。
「お兄ちゃん、痛い」
「あの伝説の精霊樹木医にはこれ以上近づいては駄目だ。それが治療を受けて関東で生活する為の第一条件だ」
「何を、言っているの?」
ダントの尋常ではない様子に、トモの背筋が粟立つ。
(逃げなきゃ)
咄嗟に考えたが力強さを振りほどけない。
トモを見据えるダントの瞳は暗い光を湛えていた。
「あの男に近づくと君は不幸になる。絶対に、会ってはいけない。そう、僕はあるひとと約束したんだ。そうすれば僕たちは僕たちだけの世界で幸せになれる。お父さんもお母さんも木になってしまったけれど、あんな両親のことはどうでもいい。トモを傷つける奴らは許さない。僕にはトモがいればそれでいい」
(こわい)
トモの掌が震えて熱いお粥が畳に零れた。
震えは全身に及んでいた。異常な震えは、恐怖だけが原因ではなかった。
「な、なに、これ」
「うん。薬が、効いてきたみたいだ」
さっきまで優しかった微笑み。もう、瞳が笑っていなかった。
(体が、動かない)
「 」
お兄ちゃん、どうして。
声にならない音と共に、トモの意識は闇に落ちた。
***
意識を取り戻したとき、トモは自分がどこにいるのか、どんな状態なのか、理解することができなかった。
仄暗くて狭い室内は、特徴もなければ匂いもなかった。腕や足を動かそうとすると何かにぶつかった。寝台に手足を拘束されていた。
「起きた?」
トモを見下ろすようにダントが立っていた。
「お願い、今すぐこれを外して。痛い」
「駄目だよ」
ダントは慈しむようにトモの頬に触れる。
確かに、トモの体温は下がるどころか上がってきていた。呼吸も速く、ときおり喘息のように音が漏れた。朦朧としつつも力を振り絞る。
「離して!」
ダントはそれを無視しておでこ同士で熱を確かめる。
「まだ、こんなに熱が高いんだから。あの薬は睡眠効果だけじゃなくて解熱剤でもあったのに、熱が下がってこないのは異常事態だ」
「睡眠効果、って。ひどい。だましたの。ここは一体どこなの」
「ここは精霊樹木総合病院の地下室さ。エリートの僕は特別に鍵を持っていて研究に使うことを許可されているんだ」
ダントがカードキーらしきものを示して見せた。
トモの頭の中は疑問でいっぱいだった。
(どうやって、ここまでわたしを連れてきたの)
「僕の可愛いトモ。このままだと発火して死んでしまう……。やっと再会できたんだ、僕は君を全力で救うよ。前にも言ったけれど、その為にここまでやってきたんだ。ねぇ、知ってたかい?」
ベッドに腰かけて、ダントはトモの髪の毛を撫でつづけた。
「お母さんはトモがいなくなった後に心を病んで、そのまま自分が誰なのか分からなくなって、挙げ句の果てに病院で木になったんだ。僕のことも近所の子どもだと思い込んでいた。さっきは説明しなかったけれど、僕はお母さんをきちんとした場所に埋めはしなかったんだ。川に流したから、あっという間に腐ってどうしようもない状態になったんじゃないかな。トモを拒絶したんだから当然の報いだよね」
そして、トモのことを抱きしめる。
「僕には君しかいないんだ」
「いやっ!」
トモは力を振り絞って、ダントに頭突きをくらわせた。
驚いたダントはトモから離れて額に手を当てる。
「お兄ちゃん。今、何て言ったの。お母さんを」
(気が遠くなりそう。耐えるんだ、あたし)
恐怖と怒りで全身が震えていた。絶望感に飲み込まれそうになって、拳をきつく握る。
「お母さんを」
(もう、会うことができない? 触れることすら、叶わない?)
「うん、お母さんはこの世界のどこにも存在しない。大丈夫だよ、トモ。お父さんの場所は分かっているから、全て終わったら一緒に会いに行こう?」
唇を噛んで、トモは、ダントを睨みつけた。
蛙に睨まれた蛇、とでも言うべきなのか、優位な立場にあるダントには効果がない。ダントはやれやれと呆れたように腰に手を当てた。
「大事なことをまだ言っていなかったね。僕はこれから、精霊王信仰組織の力を借りて君を助ける」
トモの瞳が大きく見開かれた。
「何を言っているの? 精霊王信仰組織って」
にわかには信じられなかった。信じたくなかった。
しかしそれならダントがトモの居場所を突き止めたことも、ここまで連れてきたことも、納得がいく。




