外の空気を吸いに
「フィーネっ!?」
兄さんのびっくりした顔と、ショウさんのきょとんとした顔。
そして、先生は、ぼーっと外を眺めていたが、私が来たことに気づいて、驚いて、立ち上がっていた。
「お前……」
「気の聞いたこと何か言わんかいっ!」
おっさん特有の野太い声で怒鳴ったレネさんに、先生は、はっとしたように、私に歩み寄って、苦笑する。
「怒鳴らんでもいいじゃないか」
「呆けてるからでしょうが! まったく。なんであんたまできれいな恰好してるのよ」
「ちょっと町中に連れ出そうかと思って」
そういう先生の格好は良家の若当主といったところだろうか。
もともと、すっと鼻筋の通り、彫りの深い整った顔立ちをしているから、こういう恰好のほうがしっくりくる。
いつものくたびれた白シャツ姿ではなく、糊のきいた白シャツに、ジャケットを合わせて、少し抜け感を出すためだろう、リボンタイではなく、スカーフをおしゃれに襟に仕込んでいる。下はタイトで装飾の少ないズボンで、先生の長い足が強調されていた。
「じゃあ、この靴じゃ駄目ね。ちょっと待って」
「先生?」
「少し、遊びに行くのもいいと思ってな。何、少し散歩だ」
あわててレネさんが、服装に合わせたかかとの低い歩きやすそうな靴を出してくれる。
それを履いて、先生を見上げると、先生は、ふっと表情を緩めて手を差し出した。
「お手をどうぞ、お嬢さん」
きざったらしく言われたその言葉と仕草は、銀髪に眼鏡越しの切れ長の藍色の目、そして、全体的にすっきりと整った面立ちの先生によく似合っていた。
その手に手を合わせて、エスコートされて外に出ると馬車が待っていた。
「先生?」
「最近暗い顔をしていたからな。俺も、少し行き詰っていたから、気晴らしに。どうだ、じゃなくて行くぞ、だが」
馬車に私を載せて、そして、向かいに座ると、扉はぱたんとしまった。
「御者はショウだ」
「え?」
「一応、警戒はしますからねえ」
のんきなショウさんの声に、私は、ふと、兄さんが心配になった。
「あの……」
「大丈夫だよ。さすがにいつ帰ってくるかわからない状態で手を出す節操なしじゃない」
「いや、そういうんじゃないでしょう……」
ややずれた返事に、あきれたように突っ込みを入れてくれたのはショウさんだった。やがて馬車は動き出す。
「先生は行き詰ったら、こうやって?」
「散歩はするな。まあ、酒は抜いてだが……」
そういえば、あって間もないころ持っていた酒瓶を手にしているところを、最近見ない。首を傾げると、彼はばつの悪そうな顔をして肩をすくめた。
「酒に使う金がない。別に、アルコール依存でも何でもないからいらないことはいらないんだが」
「嘘つけ。私の家からしょっちゅうブランデーやらラム盗ってるくせに」
「ありゃ、俺の金で買ったものだろ。お前のところにおいてるだけであってあれは俺のもんだ」
そういって先生はそっぽを向く。なんでだろう。最初の印象とずいぶんと変わったな、と自分でも思う。
「どうした?」
「いえ。……なんでもありません」
解決したら、たまに顔を出していいだろうか、と、つい、レネさんが言っていたことを聞きそうになって、そんな勇気なくて、口をつぐんでうつむく。
「君の事案は、俺が責任を持ってどうにかする。おまわりに言って、ロベルト君をパクっただろう組織に注意を入れてもらったが、果たしてどれだけ効果があるか……」
肩をすくめた先生に、私は、先生をじっと見ていた。
「効果がないって、判断したらどうするんですか?」
そうつぶやくと、先生は、ごまかすように笑って肩をすくめた。もう、傷はほとんど癒えたようで、痛み走った顔をすることも少なくなった。
「それはそのとき思いついたことをするさ」
すこし視線をそらしていった先生に、何か嘘をついていると、感じる。黙ったままのショウさんがすごく気になる。
「それより、こうやって表を見たことは?」
「ないです」
窓を開けて、見ると、楽しそうなご婦人方がおしゃべりを楽しんでいた。流れる景色の中、生き生きとした世界が広がっている。
「世闇を知らない、まっとうな、表の人たちだ」
「先生?」
「きれいなものしか見たことがないから、汚いものを消したがる。それらは表裏一体なのにな」
窓枠に頬杖をついて物憂げにそうつぶやいた先生に、私は何もいうこともできずに、静かに、話を聞いていた。
「いっそ、裏の汚いものを表に引きずり出すのも一興かな……」
何気なくつぶやかれた言葉に、怖気が走った。なぜかはわからない。けれど、それはかなり怖いことだとわかった。
「先生?」
「ああ、いや、済まないな。聞き流してくれ」
先生は窓から流れる景色をぼんやりと見つめて、それきり黙り込んでしまった。
私も、何か話題を持っているわけでもなく、先生と同じ窓から、流れる風景を、時々先生の絵になる横顔を眺めていた。




