リセットボタン。
何もかもが憂鬱だった。学校も、友達関係も。先生や両親たち大人は、諦めなければ夢は叶うだの、可能性は無限大だの、そんなありふれた薄っぺらな言葉で何とかしようとしてたけど、自分はそこまで能天気にはなれなかった。世の中で成功するのなんて、ほんの一部の人間だけだ。実際は、そこそこの生活をして、ほどほどの幸福を噛み締めて、成功した奴らを見上げながら羨望の眼差しを送る、そんな人間のほうが多い。
そんなことを考え歩きながら、俺はくしゃくしゃに丸めた通知表を無造作に投げた。こんなゴミ屑とはおさらだ、という風に空に浮かんだその塊は、落ちてきてコツンと何かに当たった。それは、四角い箱であった。掌に乗るくらいの大きさで、どこもかしこも真っ黒。上には蓋がついている。落し物の割には、ずいぶん堂々としていすぎやしないか。何とはなしに、裏を見てみる。
『これは、リセットボタンです。これを押せば、簡単に人生をやり直すことができます。さあ、平凡な人生をやり直しましょう。リセットしたいことを口に出しながらボタンを押してください。ボタンそのものをリセットしたい場合は、リセットと言ってボタンを押してください。』
そこまで読んで、俺は笑った。リセットボタン?こんなもの誰かがふざけて置いたに決まっている。馬鹿馬鹿しい。そう思って、その小さな箱を地面に置き直し…また持ち上げた。手の中に収まったその黒い直方体をしげしげと眺めてみる。これを押して、もし人生をやり直せたら最高だろうな。もし、これが本物なら。…押してみるか?どうせ誰も見ちゃいない。押して、何もなかったら何食わぬ顔でまた置いていけばいい。押すだけ押してみようか。箱の上の蓋を開けると、中からいかにもといった様子の赤いボタンが現れた。震える人差し指で、一気に押しながら、とりあえず叫んでみる。
「下校時間からやり直したい!」
カチン。安っぽい音がした。漫画やアニメにありがちな白い閃光もなければ、天からの声もない。やっぱりな。そう思って目を開ける。…と、そこはほんの10分前までいた学校の前だった。10分前に別れたはずの友達がまた明日なと手を振って去っていく。10分前…10分前?間違いない。俺は下校の瞬間から人生をやり直そうとしていたのだ。
それからというもの、俺はこのボタンを使って、それはそれは充実した毎日を送った。テストだって1度受けて問題と答案を確認してからもう1度受ける。部活の試合だって、何度だってやり直してシュートが打てた。夢だと思っていた完璧な毎日も、このリセットボタンさえあれば簡単に作り出せた。
そんなある日、俺は廃ビルの屋上に立っていた。というのも、地元では有名な暴力団に呼び出されたからだ。どうやら、ボタンの恩恵により輝き出した俺のことが気に食わなかったらしい。
喧嘩なんてからきしだが、今や怖いものなしの俺は、迷わず約束の場所へとやって来た。逆にチンピラ共を締め上げて、ヒーローにでもなってやるか。そんな気持ちだった。
案の定、奴らは俺を見つけると恐ろしいほどの力で掴みかかってきた。しょせん高校生、力では敵わない。あっという間に崩れかけた手摺まで追い詰められてしまった。そして、止めとばかりに俺を突き飛ばす。体が宙に浮く。参ったなぁと俺は苦笑しながら、ポケットに手を突っ込んでボタンを押した。
「ビルに着いた瞬間からやり直したい!」
ボタンを押す。ふぅ、助かった。…しかし目を開けた俺は、手摺に押さえつけられていた。奴がまた俺を突き飛ばす。体が宙に浮く。…おかしい。冗談じゃない。俺はカチカチとボタンを連打する。そういや、最初に裏を見た時、ボタンをリセットするやり方も書いてなかったか?…ああ、助かった。ボタンをリセットすればいいんだ。
「リセット!」
俺はそう言ってボタンを押した。カチン。安っぽい音が、空中に消えていった。
夕方のニュースが、1人の少年の死を報じていた。何やら、自殺らしかった。恵まれた生活を送っていただけに、精神を病んだのか。幸せすぎるのも考えものよねぇと井戸端会議の主婦は噂した。
『これは、リセットボタンです。これを押せば、何のリスクを負うこともなく、人生をやり直すことができます。さあ、つまらない人生をやり直しましょう。リセットしたいこと、やり直したいことを口に出しながらボタンを押してください。ボタンそのものをリセットしたい場合は、リセットと言ってボタンを押してください。
ただし、ボタンそのものをリセットした場合、ボタンによってやり直してきた過去は全て消えます。
また、やり直せる時間の総量は、貴方が生きてきた時間の総量に相当します。それ以上はやり直せませんので、ご注意ください。』
18年8ヶ月6日7時間0分4秒…1886704
箱の蓋に、そんな文字が現れ、数度点滅すると、すっと消えていった。