プロローグ:あの日
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その日の夜、マコトはとうとう病室から抜け出した。
死は、あの真っ白な牢獄のような部屋の中に取り巻いている。マコトにはそう思えてならなかった。
『ぼくは死なないよね?』
そういったマコトに対する医者や家族の明るい返事には、刹那の感覚が常にあるように思えた。その僅かに一瞬答えが遅れる間隙に、マコトは常に気の狂うような不安を味わわなければならなかった。
いくらマコトが子供であるといっても、自分の生命が非情な危機に立たされていることくらいは把握できた。どんなに大人から『大丈夫だ』と言いくるめられていたとしても、自分自身の命の終わりは、他でもないマコト自身が強く認識していた。
だから抜け出したのだ。自分を死にゆかせるこの白い牢獄の中から。
真っ白な廊下を忍び足で進む。ここを抜ければすぐに外に出られる。外にでて、がむしゃらに冒険をしてみようと思った。外の世界にならば何か自分を救い出してくれる希望もあるのではないのか。この病室にいる限り自分の未来は変わらない。そのことだけは、マコトは強く実感せざるを得なかった。
からからと車輪を転がす音が聞こえてくる。マコトはぞっとして身をこわばらせる。巡回の看護士だ。そう思ったマコトはすぐに死角へと体を潜ませる。この角にいればやり過ごせる……そう思ったマコトは何かやわらかいものにぶつかった。
「うわっ」
小さな声でそう言ってしまってから、マコトは振り返った。そこではマコトと同じような声を発した、マコトと同じくらいの背格好の少女が身をこわばらせていた。
患者服を着ていることから、彼女が自分と同じように病室を抜け出してきていたことは把握できた。声を出そうとするマコトに、少女は手を突き出して静止を促す。二人で息を殺していると、巡回の看護士をやり過ごすことはできた。
「……あなたは?」
少女はマコトに尋ねる。マコトは「ここの患者」とだけそっけなく答えた。
「それは知ってるよ? 名前はなんていうの?」
優しい声で少女は言った。「マコト」それだけ言って、幼いマコトは無造作に彼女のそれを指差して尋ねた。
「ねえ。それはどうしたの?」
その少女には右手がなかった。白い患者服の袖は病室の冷たい空気の中でだらりと垂れ下がっている。少女は落ち着いた表情でその先をつまみ上げ、言った。
「事故だよ。事故で失ったの」
「そうなんだ」
マコトは素直にそれだけをいい、続けて
「残念だったね」
「うん」
それで十分だった。
幼い二人はそのまま手を取り合って、病院を抜け出していった。
○
向かう先はただの公園だった。
どこに行く? と顔を付き合わせたところで、何もなかった。幼い二人にたどり着けるところなど数限られていたし、そもそも彼らには行きたいところなどなかった。ただ、病院の中にいたくなかった。それだけが一致していた。
「あそこからでていったって、他のどこにもいけないんだね。わたしって」
少女は力なくそう言った。
「でてこられただけでもすごいじゃないか」
マコトはそう言った。少し興奮していた。少女は首を振る。
「もう何度もなんだ。こうやって外に出かけるの。でもね、何も変わらなかったの」
そう言った少女の表情は沈んでいた。彼女のその一言がマコトの中でじわじわと広がっていく。
「どうやったらあそこから出て行けるんだろう」
「健康になったら、いけるんじゃないか?」
「じゃあ。どうやったら健康になれるの? わたしの右手はどうやったら戻ってくるの?」
少女が嘆くのも無理はなかった。マコトの体は病魔に冒されていたが、五体満足だ。
「ねぇ……君さ。その腕が事故でそうなったっていうの、嘘なんじゃないの?」
尋ねると、少女ははっとして。
「どうして分かったの?」
「だってさ……。君がいたのは長期病棟だったし、もう何度も抜け出しているってことは、少なくともその腕のケガ自体は完治しているはずだよね? 腕ならリハビリは家でもできるはずだし……だったら病院から出られないっていうのは、おかしいじゃないか」
「……すごいね」
少女は笑った。
「そうだよ。わたし嘘ついた。ごめん」
「いいよ」
少女がどうして自分の腕の欠損を事故と偽ったのか、マコトはそれに興味はなかった。ただ、彼女が自分と同じ、病院という牢獄の中で病魔と戦う者だと知って、強いシンパシーを感じていた。
「ぼくね。もうすぐ死ぬかもしれないんだ」
マコトは言った。
「誰もがぼくがもうすぐぼくが死ぬことを知っているような顔をするんだ。それでいて、皆でそれを隠すんだ。……ぼくが一番知っている、自分の体がもうダメだってことは。だってあんなに苦しいのに大丈夫なんておかしいじゃないか」
嘆くような声は次第に大きくなっていく。マコトは頭を抱えた。
「あのまま病院の中で死んでいくなんていやだ。もうあそこには戻りたくない。あそこには、死があるんだ。あそこで死んであの暗い地下の霊安室に行くのはいやだ」
逃げ出したかった。自分を取り巻くすべての死から。あの病院で治療に明け暮れる日の先に何があるものか。そう思ったマコトに、静かに手が差し伸べられる。
「……帰ろう」
それは少女のものだった。
「ごめんね。わたしが連れ出したみたいになっちゃったね……。そろそろ帰ろうか、生きていたら、また会えるよ」
「……生きていたら」
「うん。生きるんだよ。そのためには、こんなところにいちゃダメだ。あなたが一番分かってるでしょ? だからね……帰ろう。死ぬのは怖いかもしれないけど、それを乗り越えたら、きっと生きられるよ」
「死ぬのを……乗り越える」
「あの病院には、確か死があるよ。あそこにはたくさんの死がある。だけれどね、死を乗り越えられるのも、あそこだけなんだ。マコトくんならきっとそれを乗り越えられるよ。そしたら、きっと生きられるから」
にこりと笑って、少女はマコトと手をつなぐ。
「わたしも。こんなになっちゃったけど。生きるから。だからね。また、一緒に……」
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