1st Captor カフェフォレストの憂うつ
1st Captor カフェフォレストの憂うつ
耳を澄ませば潮騒が聞こえる距離にある場所、しかし店内は、古いロックがかかり潮騒も海岸で騒いでいる夏の喧騒達も当然聞こえない。流行りのスクラッチが入る曲や邦楽がかかることのないこの店で、一度だけ海の日に開催されたオープン1周年記念パーティーで「今夜はブギーバック」がかかった。それは、本当に珍しく懐かしいロックを聴きに来るかっこつけた大人達も驚くほど知っており、異常に盛り上がった。ラップの部分は、まったくでたらめだったけど、底抜けに明るくファンキーでこれから本格的にやって来る夏に皆わくわくしていた。
夏ならもっと他にすることがあるだろうと誰だって思うが、僕はこのところ毎日夕方になると地元のカフェフォレストに入り浸っていた。カフェと言ってもフォレストは、夜はバーとして酒も出す今時のカフェだ。海岸通りにあるのにフォレストとは、天邪鬼のオーナーらしいネーミングのつけ方だが、このあたりではめずらしく、カウンターにカナダからわざわざ取り寄せた天然のオークを使っていたり、壁にはAndy Warholのもっとも有名なキャンベルスープ缶やモンロー、ドル紙幣、フラワーのシルクスクリーンが飾られているこじゃれた店だ。そして、リキュールが並んでいる棚の脇に、さりげなくザ・クラッシュのロンドンコーリングのポスターが貼ってあり、僕はそれがとても気に入っていた。もちろん、クラッシュなんてバンドは知らなかった。かっこ良いポスターだなと思って眺めていたら店のオーナーが、イギリスのパンクバンドだと教えてくれた。ちなみに、あえて説明の必要は無いと思うが、この店でかかっている音楽は、オーナーのセンスでチョイスされており、僕の音楽知識を増やすことになった。
海岸通りの松林の中にあるこの店は、夏に限らず人が集まるらしい。奥のコーナーにある居心地の良いL字型のバックスキンのソファー席、向い合せで2シーターのテーブルが4席、テラスが2席とこじんまりしている。海水浴場が目の前にあるので、夏の客は若者が中心だが、ときどき絵に描いたような平和なファミリーが来たりして、オーナーはちょっと困った顔をする。スパイシーな無国籍料理が中心で、あまり子供が好むようなメニューを置いていないからだ。秋から冬にかけて高波になる頃には、サーファー達がやってくる。そして、常連客達は、ここフォレストからサブカルを発信しようと何か画策している。そんな具合で、いつでもわりと混んでいるのだが、今日は店内2組、テラス一組とそうでもなかった。
僕は、誰もいないカウンターに陣取り、リキュールの棚の上に設置されている32インチのモニターに映し出されている無音声のCNN放送を眺めながらナチョスをつまみにアイスコーヒー一杯で、ときおり溜息をつきながらぼぅとしていた。そして、気が付けば2時間もそうしていた。ジャニスの死を予感させる「サマータイム」が流れ始めた時、僕は深い溜息を思い切りついた。
「帰れよ」
白いシャツにスリムなブラックデニムのいつものスタイルで、グレープフルーツジュースをグラスに注ぎ終えると僕を見て先生が言った。流行りのディタが出来上がっていた。
「うん、でも、もう少し居させてよ。みゆが来るかもしんないし」
「お前、みゆきと待ち合わせしていたのか?」
「違うけど」
同級生で幼馴染のみゆきとは、幼い頃いつも一緒に遊んでいた。小学校に上がると従兄がコーチをしていた少年サッカークラブにしつこく誘われ、仕方なくスクール生になった。当初はそれほどでもなかったが、上手くなるにつれ面白くなり夢中になった。中学に上がると迷いなくサッカー部に入部した。僕は、ミッドフィルダーで僕のヒーローは、ワールドカップのアメリカ大会決勝で、PKを外しブラジルに優勝をさらわれたイタリアのロベルト・バッジョだった。それも高校までは続かず、あっさり辞めた。Jリーグが発足し、競技人口は野球を遥かに上回り、平凡な選手であった僕は、プレイヤーとしての興味を急速に失った。それよりも僕のプライオリティが、女の子になったからだ。というわけで、高校も一緒だったがみゆきとは、まともに話す機会がほとんどなくなった。それでも、僕の姉と仲が良かったこともあり、みゆきが家に遊びに来ていた時や、ときどき近所でばったり会うと、お互いの近況や興味があることを報告しあったりした。二人とも東京の大学に行くことになり、僕達はときどき会うようになった。そろそろみゆきも帰省しているはずで、もしかしたらここに来るかもしれないと思ったのだ。
「なんだよ。じゃあ帰れ。うっとうしいよ。さっきから。溜息ばっかりつきゃあがって」
カフェのオーナーはかつて、僕達の通学していた高校の英語教師だった。僕達の卒業と同時期に教師を辞め、その後しばらく旅にでていたらしいが、1年前からカフェのおやじになっている。自分でもよく言っていたが、教師の仕事が全く向いていない。なにしろ、教師として当たり前の人に何かを教えるといった情熱も足りなければ、おそらく文科省が指導する授業方針を全く無視していたにちがいない。職員室でもかなりの確率で浮いていたはずだ。だが、僕は先生の授業で何のために英語が必要かわかった気がした。
授業は、大抵自習で例えば、グリーンデイのライナーノーツでも、アリスインワンダーランドの絵本でも、とにかく英文を読んでさえいれば、授業は成立していた。その代り、1か月に1度、その本についてのレポート提出と3カ月に1度気にいったテーマでのプレゼンテーションを5分間要求された。
「本当に必要なものは、日本語でも英語でも何を伝えたいかだ。英語の場合は、伝えたい相手が日本語をしゃべるとは限らない場合便利だ。基本的なグラマーはすでに中学で習得しているはずだから、私の授業では特にやるつもりない。好きなものを読んでその物語について君たちが何を思い、何を伝えたいかを英語で書き話す」
神谷先生は、そう言ってよくある受動的授業を放棄した。ほとんどの生徒たちは、前期、後期2回ずつのプレゼンを除けば単位が簡単に取れそうだと喜び、大学の英文科を目指す生徒数人は反対した。まあ気持ちはわかるが、しかし受験はテクニックなので神谷先生の授業でどうこういうものではない。僕はといえば、前者後者どちらでもなかった。ただ、なんとなくおもしろそうだと思った。この授業について僕は、留学中で一時帰国していた4歳年上の姉に相談した。その頃姉は、わざわざ漱石の「それから」をペーパーバックで読んでいた。英語のタイトルは、「And Then」。日本語独特の美しいひらがなの表現やリズムが伝わるのだろうかと疑問はつきないが、どちらにしろ僕にとって日本文学ほど遠い存在はなかった。そこで、姉は「あんたみたいなちゃらちゃらした男は、これを読んで人生を勉強しなさい」と言って、ロバートBパーカーのペーパーバック「Early Autumn」を僕にくれた。姉は、僕より自主休校していたはずなのに、要領が良いものだからまったく周囲には気付づかせなかった。ところが僕は、学校をさぼって女の子と映画を見に行き、運の悪い事にたまたま僕達を見かけた学校関係者に見つかり、通報され、3日間の停学をくらったりした。だけど、ちゃらちゃらしていたわけではない。ほとんどあきらめていた大都市の小劇場でしか上映されない「バスキア」が、バスで30分、電車で15分のこんな地方都市の映画館でも上映されるとわかり、それも1週間という期間にかぎられ、すでにそれを知った時には、翌日の金曜日で終了だった。期末テストが終わり気が緩んでいたこともあるが、僕は学校を休んで映画を観に行くつもりだと当時つきあっていた彼女に話した。彼女は、一緒に行きたいとせがんだ。豪華キャストが脇を固めているとはいえ、彼女が好むようなポップでわかりやすいデートムービーではないと説明し、見つかった時のリスクもあると説得をしたが、どうしても一緒に行くと強情で結局彼女と観に行った。案の定というかやっぱりというか、僕達が映画館を出た大通りで、どこかで見たことのある顔にぶつかり、しばらくじろじろ見られた。私服を着ていたのでばれるはずはないと自分に言い聞かせ、どきどきしながらしれっと無視し、急いでその場を離れた。その顔が学校関係者だと後でわかり、担任に呼びだされ、問い詰められ、言い訳もできず、結局3日間の停学処分。そして、僕達は、この事件がきっかけで別れた。彼女にしたら泣き面に蜂で、上映中ずっと寝ていたし、さぼっていた事が見つかり停学処分にもなった。僕は、一瞬バスキアの存在を教えてくれたみゆきを恨んだが、自業自得だと思い直した。停学処分中に家に様子を見に来たみゆきに散々バカにされたが、受け流した。なぜならこの映画がきっかけで僕は自分の描く将来をぼんやり決めたからだ。姉の僕に対する評価はその事件で決定的になりはしたが、素直に姉がくれた本を読んだ。姉に面と向かって言ったことはないが、だいたい彼女が話すことやしていることは僕の心に響いていたからだ。
ネグレクトの少年が、たった15歳で、自分の人生を選択しなければならない物語。探偵スペンサーは、母親から別居中の元にいる子供を取り戻す仕事を依頼され、その少年と出会う。子供に一切興味をもたない両親に翻弄される少年は、深く傷ついていた。スペンサーは、劣悪な家庭環境の中で生きなければならない少年をほっておけなくなり、仕事の範疇を超えて自立をさせる。方法は、キャビン作りとウエイトトレーニング。それらを通してタフな心と誇りを少年に教える。ひ弱な少年は、当初辛いトレーニングの最中に言う。「It’s not my fault.」いつも孤独で、誰にもかまわれない故に何事にも無知の上、関心が持てない事は、自分の所為ではないと。スペンサーは、言う。「Dependent on yourself.」両親は当てにならない。15歳で自立するには早すぎるが、他に選択の余地がない。少年は、肩を震わせて泣く。泣いている少年のそばに寄り添うスペンサー。泣く事は、悪くない。自分もときどきそうしている、と。やがてキャビンの完成とトレーニングの成果により少年は、以前よりタフな精神と肉体を手に入れ、人生を選択する。少年の成長と二人の信頼関係、すべてにおいて感動的で泣ける話だった。僕は、早速感化されレックレイズ、クランチ、プッシュアップをそれぞれ8カウントずつ、3セットというNo Pain No Gainには程遠いかなり緩いルールを毎日実行すると自分に課した。そして、それは今でもできるかぎり続けている。いづれにしても、この本を紹介してくれた姉に深く感謝したが、僕の事を信用していない彼女は、本当に読んだの?と疑っていた。僕はこの本についてレポートも提出したし、プレゼンもした。そして、この本は、神谷先生の琴線に触れたのだと勝手に僕は思っている。なぜなら先生は、無類のハードボイルド好きだったからだ。放課後、なんとなく先生と話をしたくなって教務室に行くと先生は、レイモンドチャンドラーの本を読んでいて、こんなことを口にした。「人生で大事な事は、すべてレイモンドチャンドラーに教えてもらった」冗談とも本気ともつかないが、案外本気で言っていたかもしれない。
少年は、人生を決めた。僕には劣悪な家庭環境があるわけではない。極めて平和だ。しかもすでに成人している。世間的には大人の男だ。しかし、僕は自分自身がよくわかっていない。どこに向かって行くのだろうかと。だから意外と深刻な溜息をつく。
僕は、いまだ4月下旬に誘われるままに行ったAIRのライブにしびれていた。ホールの熱は、作り上げられたAIRのステージと、オーディエンスの興奮が融合し、始まるとすぐにヒートアップした。オーディエンスの一部はダイブを繰り返し、僕たちはマッシュといわれるおしくらまんじゅうの中にのみこまれていく。僕は、その中で拳を突き上げ、体中でリズムを刻み、飛びはね踊りつづけた。音、声、動き、そしてバックのスクリーンに映し出される映像。AIRのすべてのパフォーマンスは、享楽だけでは済まず、その先の何か、たぶん自分自身と向き合うこと、そう、自分が何者であるかを突きつけられた気がした。美大で専攻しているグラッフィックは、企業の広告やロゴやパンフレット等をデザインするクリエイターを育てる教育でどうも僕はそれに馴染めなくて、行き詰っていた。きっかけは劣悪な家庭環境ではなく、AIRのライブだった。少なくとも僕は、熱狂のライブの後、そんな風に感じ、そのことをうまく言葉で説明できず、夏休み地元に戻ってきてからというものカフェフォレストに通いつづけ、先生にうんざりされている。
「先生さあ、教師やめるって決めたとき結構勇気いらなかった?」
先生は、ビールサーバーから濃い色のビールをビアグラスに注ぐと、それをバイトのチカに渡し僕の方を向いた。
「なんだよ、いきなり」
「前から聞きたかったけど、なんかさあ・・いずれ教師、辞めちゃうかと思ってたんだけどね」
「それと秋幸の溜息と何か関係あるわけ?」
「まあね。なんかさあ、今年の成人式でね、久しぶりに同級生に会ったりしたわけ。高校は違ったから中学校の同級生なんだけど、働いていてね、昔話もしたんだけどなんか違和感があって。結構不良だったのに落ち着いててさあ、あれって何だろうって。大人になって行くって感じなのかな?大学行ってる高校の同級生にも先週あったんだけど、こっちはなんだかさめちゃってコンサバだし、何が本当に大切かとかまだなんもわかってないのにさ。東京の大学の友達も似たようなもんなの。無理に熱くならなくてもいいけど、あきらめ
ちゃっているっていうかさあ。もちろん一部にはいるよ。ほら、クリエーター目指しているわけだしね。でも、なんかピンとこないっていうかさ。ごめん、どう言っていいかわかんない」
「皆お前と変わらないよ、そんなに簡単にいろんな事がわかる年じゃない、これからさ。これからだってわらからないことだらけだ。お前達はまだガキだし、青臭くてちょうどいいよ」
「そうだよね、青くて何が悪い」
答えになってないと思いながら、僕は、そうつぶやいて、マイルドセブンに火をつけた。だが、実際僕は焦っていた。焦る対象もわからないまま。
「で、どうなの?本当にやめちゃって、この店開くのって不安がなかった?」
「秋幸に語れるような事はないな。実際お前も承知のとおり、俺は教職に向いていなかった。そうだろうと思っていたが、5年やって心底思った。人に何かを教えられるほどりっぱな人間じゃない。なら、自分に嘘をつかずに食べていけ方法を探すしかない。教師を辞めた後、やれることといってもそれほど選択肢があったわけじゃない。この商売ぐらいしか思いつかなかったってことが真相だ」
「ふうん」水商売も向いているか怪しいものだが、教職員の中で仕事をするよりずっとましだろうな、と僕は思った。僕の知る限り担任を持ったことはないはずだから、生徒との接触は授業以外ではそれほどあったわけではなかったと思うが、先生の存在も先生の授業も決して狭い学校社会で理解されるものではない。ただ、何でも話してしまいたくなる雰囲気を持っている。だから、気軽で、何度も足を運ぶはめになる。そんな客がいるから先生の商売は成立するのかもしれない。
「悪いな、お前の憂うつを解消できる話じゃなくて」
先生は、そう言って奥の厨房に消えた。
なんだか飲みたくなってきた。車なので飲めないのだが、酔いたい気分だ。最悪車を置いて歩いて帰っても30分もあれば着くだろう。僕は、先生の変わりにカウンターに入ったチカにジントニックをオーダーした。チカは、氷を入れタンカリーとトニックウォーターを上手い具合にグラスに注ぎ込み、三日月型のライムをグラスに刺すとアイスコーヒーのグラスをかたづけ、ジントニックをコースターの上に置いた。
「なんだかさえない、最近毎日そんな感じだよ。思春期はとっくに過ぎたでしょ?それに真夏に悩むなんて損ね。悩むなら秋になってからにしなさい」
長い髪にラスタカラーのキャップをかぶったチカが僕の相手をする番になった。僕はその通りだと思ったが、それに答えられない。説明するのはすごく面倒だ。僕は、ジントニックを一気に飲み干し、おかわりした。チカは、にっこり笑って新しいグラスにジントニックを作り始めた。
三杯目のジントニックを飲んでいる時、髪を悲劇の女優ジーン・セパーグのようにベリーショートにしたみゆきがあらわれた。Stussyのロゴが胸に入った白いTシャツとカーキのハーフパンツにカラフルなadidasのスニーカー。僕も偶然StussyのグレーのTシャツを着ていてなんだか照れくさくなった。みゆきは、腕も足もすっかり陽にやけて、少女というより夏を満喫している少年のように天真爛漫で健康的に見える。彼氏と沖縄に遊びに行くと言っていたのでその所為だろう。傍目ではとても楽しそうに見えるが、彼女の心はそんなに単純ではない。でなければ、僕をAIRのライブに誘いはしなかっただろし、その夜みゆきと寝ることもなかっただろう。確かに僕達は、興奮していた。ライブの熱気に圧倒され、AIRのパフォーマンスに魅了され、帰りの電車の中では放心状態で、とにかく早く二人きりになりいろんなことをしゃべりたくてしかたなかった。同じ時間を共有したもの同士。
「アキは、暇ね。毎日来てるんだって」
みゆきが、僕の隣に座った。僕の母親に犬の散歩中会って、愚痴をこぼされたらしい。毎日何もしないでここに通っていると。みゆきは、チカにカシスオレンジをオーダーするとトートバックからバニラフレーバーのキャスターを取り出した。
「暇で悪かったな」
「バイトくらいしなさいよ。夏休みなんだし」
「時間がもったいない」
「ばかじゃないの、ここに毎日くるのは時間の無駄じゃないわけ?」
「じゃあ聞くけど、みゆだって何もしてないだろ?」
「私はいいの。来週にはもう東京に戻るから」
「そうなの?」
「そうよ。いろいろ忙しいの。君は暇でいいわね。うらやましい」嫌みたっぷりだ。怒ってる?久しぶりに会って怒られる理由は?まあ、なくもないな。僕は気を取り直し、
「この場所は考えごとをするには最高の場所なんだよ」と力なく言った。
みゆきは、もう一度「ばかじゃないの」と言うと、チカからカシスオレンジを受け取り一口飲んだ。
僕は少し酔いがまわっていたが、素面でももみゆきと今までどおり変わらない、幼馴染の関係をつづけることができる自身があった。チカが客のオーダーを取りに行ったタイミングで聞いた。
「ところで、沖縄どうだった?」
「楽しかったよ」
言葉に抑揚がない、棒読みのセリフのようだ。僕は、次の言葉を待ったがそれきりみゆきは話さない。
「それだけ?」
「うん」
「じゃあ、沖縄のどの辺に行ったの?」
「慶良間」
最小限の言葉で済ますみゆき。テンションもあきらかに変わってしまったようだ。僕は、別に嫉妬しているわけではないので、気を使われても困る。あの時のことは、お互いそれきりでAIRのライブの延長なのだ。それとも何かあったか?
「ダイビング?」
「うん」
「そう、それで?」
「奇跡的にマンタに会った。普通いないの、慶良間には。でも会ったわけ」
「すげぇー、一緒に泳いだ?」
「近づけなかった。思い出したのよ」
「何を?」非日常の別世界で何を思い出すことがあるのだろうか?マンタ?そういえば、僕もどこかで見た記憶がある。どこだろう?そうか、AIRのライブだ。確かあれは「Heavenly」を演奏した時だった。スクリーンに映し出されたマンタ。みゆきは、おそらくそのことを言っている。そしてあの日のことを。
「それ以上聞いたら泣くから」
みゆきが僕をにらむ。その瞳がうるみかけているのを見て僕はあわてた。ちょうどBGMが第三世界のスーパースターBob MarleyのNo Woman No Cry。絶妙のタイミングだ。
「ごめん」どうしてここで僕が、あやまる必要があるのだろうか?複雑だ。
「アハハハ、アキは単純ね、昔から」
ときどきみゆきは、そうやって僕をからかうのだが、あまり腹もたたない。むしろほっとした。みゆきは、カウンターに置いたままのタバコをパッケージから1本抜き取ってくわえかけたがやめ、パッケージに戻した。そして僕の顔を覗き込み言った。
「アキ、この前電話でも言ったけど、私全く気にしてないから」
「わかってるよ」なんだよ、意外と気にしているじゃないか。わざわざ何度も言うのがその証拠だ。
「ただね」そこでみゆきは言葉を切る。しかたなく僕が続ける。
「ただ、何?」
「やっぱり私達、気が合うなって。幼いころから知っているからかなあ。まさか同じブランドのTシャツ着てるなんてね、笑っちゃったわよ」
「笑ってなかった、どちらかというと怒ってたよ、最初。喧嘩腰だった。」
「そうかも・・・。アキの顔みたら腹立って。私意外と罪悪感かな」
おい、おい、やっぱり気にしている。でも僕だけが悪くないと思うけど。言おうとしてやめた。みゆきの罪悪感を煽るだけだ。みゆきの恋人に会ったことはなかったし、僕の前であまり恋人の話はしないので良くわからないのだが、大学の先輩のようだ。一度だけ「繊細な人」と、彼を評価した。みゆきに繊細な恋人、全く信じられなかった。女心は複雑だ。
ライブの後、僕達は電話で短い会話をしたきりだった。あの日、みゆきは僕のワンルームに泊まった。二人とも放心と興奮をくりかえすという奇妙な感覚で、それを鎮めるにはアルコールが必要だった。僕の部屋にはタンカレーがあり、今日のようにジントニックを飲みたい気分だった。途中コンビニでトニックウォーターを半ダースと、さすがにライムはなかったので、変わりにレモンを買った。僕達は、部屋に着くまでずっとAIRの曲を次から次へと口ずさんでいた。近所迷惑だと知りながら馬鹿みたいに大声で。そして、終わったばかりのライブの話で朝まで盛り上がろうと話していたのにもかかわらず、部屋に着くなり何の逡巡もなくキスをし、抱き合った。朝、目が覚めるとみゆきの姿はなく、レジ袋に入ったままのトニックウォーターとレモンが床に転がっていた。
「俺達のゴールはまだ遠いよ、みゆ」
「なんの話?暇すぎておかしくなったみたいね」いつのまにか戻っていたチカが、カウンター越しに笑う。みゆきは呆れ、カシスオレンジを飲み干した。僕自身もよくわからない事を言っているのは承知している。世間は、目前にせまったシドニーオリンピックに湧き、来年はミレイアムで激動の二十世紀は終わる。だがしかし、ゴールはまだ遠い。その目的も目標もわからないまま。本当にゴールはまだ遠いのだ。
「チカちゃん、神谷先生は?」みゆきがチカに聞いた。チカは、僕達の頭越しに視線を向ける。ガラス扉の向こうがテラスになっていて、先生はそこにいた。なじみの客と話し込んでいる。みゆきは、席を立ちテラスに向かい扉をあけ、そこにいる先生の肩をたたき、強引に話を中断させ耳打ちした。
「何話してたの?」
気になって僕の隣に戻ったみゆきに聞いた。
「別に。アキには関係ないこと」
あっさり、拒否られて僕は落ち込みそうになるが、洗練されたラテンのリズム、Gipsy Kingsが聞こえてきて、なんとか気持ちを持ち直すことができた。人が思うより繊細なのだ。みゆきは、トートバックから、Alice Munroのぺーパーバックを取り出すと、カウンターに置いて言った。
「申し訳ないけど、加奈ちゃんにこれ返してもらえる?お礼も言いたいから直接返したいんだけど、すれ違いになりそうだから」
姉の加奈は今、友達と優雅にヨーロッパを旅行している。外資系のコンサルティング会社で働いている彼女は、いつも忙しいが、心待ちにしていた夏季休暇を楽しんでいるようだ。
姉の本らしきその本のタイトルは、「The Progress of Love」。
「この本の感想は?」僕は、本を手に取りぺらぺらめくった。
「Just Complex」みゆきは、その短い感想を迷いなく述べるとストゥールから降りた。いわゆるコンプレックスではなく、複雑、込み入った話だったってことか。タイトルだけでそんな感じがする。僕は、酔った頭でそう解釈した。
「わかった、伝えとくよ」
目が覚めたら、外が白み始めていた。一瞬ここがどこかわからず、夢の続きでも見ているのかと思ったが、その夢さえ覚えていない。ガラス扉から入ってくる淡い光は、けだるい感覚を呼び起こし、次第に覚醒していった。僕は、フォレストのソファーで眠ってしまったようだ。腕時計を見た。4時を少し回ったばかりだ。日の出には、まだ早い。
一瞬で気が滅入りそうな地を這うジャズが、静かに流れていた。だるさが全身を駆け抜けたが、気合いを入れて起きた。そして、思い切り欠伸と伸びをした。たいして飲んでいないはずだが、足がつりそうになり、頭がくらくらした。みゆきが帰ったあと、僕は先生と常連客の中に割り込み、しゃべりまくった、と思う。先生の元同僚で美術講師の森先生が、Andey Warholが作った制作拠点、Factoryについて話をしていた。Factoryは集団を形成し、彼らはしきたりと政府への嫌悪感で結ばれていたと。20世紀も終わるというのに、今更そんな昔のサブカルにシンパシーを抱いている大人になぜかむかつき、僕は教師も体制側ではないかと喧嘩を売った。僕が、高三の春悩んだ末、思い立って美大を受ける為のアドバイスを貰った先生に。森先生は、「秋幸の好きなバスキアもその一人だ」と反論したが、「バスキアがWarholに出会わなかったら27歳の若さで死ぬ事はなかった、バスキアは、Warholのように商業主義の海を二枚舌で渡り歩くほど、したたかさを持ち合わせていなかったんだよ」と、すごい剣幕でまくしたてた。だが都合が良いことにその後、何を話したか記憶は曖昧だ。身体を点検したが、殴られた痕跡はなかった。あるのは、激しい喉の渇きだ。
カウンターの奥にあるofficeと書かれたドアをノックした。返事があり部屋に入ると、香ばしいコーヒーの香りがした。6畳ほどのその部屋で、デスクの上にデスクトップとラップトップPCが並んで立ちあがっており、先生はオフィスチェアに座り背中を向けながらデスクトップPCのキーボードを叩いていた。
「仕事?」キーボードを叩きながら先生はメ面倒くさそうに「ああ」と言った。
「ソファーで寝ちゃったみたいだね、俺。途中からほとんど覚えてない」僕は、頭を軽くたたきながら、この部屋にあるフェイクレザーのソファーに座り顔をおおった。
「コーヒー飲むか?コナのピーベリーだ。貴重な豆だぞ」先生は、作業を止めマグカップをもって振り向いた。ピーベリーがどれほどのものかわからないが、僕は丁寧に断り水を求めた。
「ありがとう。貴重な豆も良いけど、水の方がありがたい」
「厨房にミネラルウォーターがあるから、勝手に飲め」
「ありがとう」
僕が、だるさを我慢して立ちあがると、先生が僕を見て笑った。
「お前は、年とってもずっと変わらないだろうな」
「どういう意味?」
「いや、別に、そんな感じがしただけだ。わざとからんだり、なんだかわけのわからない事をずっとしゃべり続けて。お前のいらだちはわからんではないけどな。何をして良いかわからない時期っていうのはあるもんだ」
「やっぱり。森先生にあやまる気ないけど、ちょっと大人げなかったな」
「気にするな。それにお前は、大人げないほど大人でもない」
「そうだね。俺、他に何しゃべってた?」
「そうだなあ、ライブにみゆきと行って、そのライブを見た後、自分が何者かわからなくなったとしきりに言ってたよ」
眠気が一気に覚め、恥ずかしさで一杯になった。まさかみゆきとのこともぺらぺらしゃべったのではないだろうな?自分が信用できない。みゆきとのことがばれるのが恥ずかしいわけではなく、酔いに任せて軽率に話したとしたら自己嫌悪で立ち直れない。思い出せない事がこれほど辛いと思った事はなかった。これ以上聞いたら藪蛇になりかねないと判断し僕は、喉の渇きを理由にあわてて部屋を出た。
フォレストを出た僕は、1.5リットルのペットボトルを持ってまだ太陽が昇る前の海岸に向かった。誰もいない。遊泳時間は9時からだが、陽が昇る頃には、人で込み合うだろう。しかし今はただ、遠浅の海の波は、静かに行ったり来たりしている。履いていたビーチサンダルを脱ぎ、カーゴパンツの裾を膝までたくしあげ、海に入る。ゆれる波であげた裾が濡れたが、かまわなかった。海水が目に浸みないように、固く目を閉じ顔を洗う。初めてそんなことをした。着ていたTシャツで顔を拭く。喉の渇きを再び覚えたが、先生にもらったミネラルウォーターのベットボトルがまだ残っていた。それを飲めば良い。このまま深いところまで行って泳いでみようかと一瞬迷ったが、やめた。溺れるだけだ。もう一度海水で顔を洗っていた時、誰かが僕を呼ぶ声がした。Tシャツで顔を拭いて振り返るとみゆきが、浜辺に降りる手前の階段から僕に手を振っていた。ちょうど海の家が林立する隙間から。幻想か?いや、まぎれもなくこの時間に僕に手を振っているのは、みゆきだ。今度こそあやまる必要があるかもしれない。そして、みゆきから預かった姉の本をフォレストに置いてきてしまった事を思い出した。しかし散歩にしては早いよな、と思いながら僕は、砂浜にあがり、波打ち端においておいたペットボトルをあけ水を顔にかけた。そして残った水を一気に飲んだ。
「お姉ちゃんがファンキーだと、やっぱり弟も影響受けちゃうのかな?」みゆきは、ずっと僕を見てくすくす笑っている。昨日の夜とは違って早朝から機嫌が良い。複雑だ。
僕達は、砂浜にぽつんぽつんと横たわっている丸太の一つに並んで腰かけた。日の出にはまだ時間があるが、気温はすでに30度を超えそうな勢いだ。額から汗が絶え間なく流れ落ちるが、心地よい海風のおかげで一度存分に流れた汗は渇き、そしてまた流れる。僕は、いつもより塩の匂いを強く感じていた。そして、気がつけばセミがけたたましく泣き始めていた。
今朝のみゆきは、gapのキャップをかぶり、ネイビーのひざ丈ポロワンピースにシルバーのミュール。そして耳にターコイズのピアス。化粧はしていない。だから、そばかすがうっすら浮いているのがわかる。僕は、びしょびしょの服の不快感に耐えられず立ちあがり濡れたTシャツを脱ぎ、思い切り何度か絞り丸太に干した。
「確かにねーちゃんは、ファンキーかもしんねえけど、俺は長いものに巻かれちゃうタイプだよ」
「そうかな、アキはニュートラルだと思うけどな」
姉が、カナダのバンクーバーに留学していた頃、僕は一度だけ高二の夏、二週間ほど、姉の元を訪ねたことがあった。たいして傷ついていたわけではないが、一応夏休み直前に失恋をしていたから、なんだかむしゃくしゃしていたのだ。僕は、姉がルームメイトとシェアしていたダウンタウンのアパートメントに泊めてもらった。その部屋のベランダからは、イングリッシュベイが真正面に眺められる贅沢な環境だった。正確には、そこを拠点としてカナディアンロッキーを旅していたので、実質1週間もお世話になっていないと思う。また基本的に姉は、依存されるのが大嫌いなタイプなので旅の相談も頼りにならず、僕はルートを決め一人でグレイハウンドに乗りとりあえずバンフまで向かった。地元で自然を見あきている僕は、美しい山々の針葉樹も野生動物(さすがに僕の地元にはグリズリーもムースもいないが)もレイクルイーズに代表されるエメラルドグリーンの湖も写真で見るだけで十分だと思っていたのだが、実際にまのあたりにすると、そのスケールの大きさに圧倒され、美しさに感激した。15時間もバスに揺られ感動して戻った朝、疲れ切った僕は、誰もいないリビングで寝袋にくるまりながら泥のように夕方遅くまで眠った。午後6時をまわっても一向に日が沈む気配のない真昼のような部屋の中で目覚めた時、しっとりとしたAnnie Lennoxの音楽が聴こえてきた。さすが、バンクーバーの夏は一日が長いな、とぼんやりした頭で起き上ると、姉がリビングのソファーでWeekly Timeを読んでいた。姉は、その雑誌を閉じ「おかえり」と言うとキッチンに行き、冷蔵庫からガス入りミネラルウォーターを二人分取り出し、一本を僕にくれた。
「迷ったんだけど、やっぱり話しておいた方がいいと思って」と続け僕をソファーに促した。僕は、目をこすりながらソファーに座った。姉の話は、僕を本当に混乱させた。ルームメイトは、コケイジョンのカナディアンで美しい人だった。たが、その彼女は、HIVに感染していた。なんでも、スコッティアバンクという組織が主催しているAIDS Walk for Lifeというイベントに参加し、知り合ったらしい。「彼女、アキが好きなタイプでしょ。惚れても構わないけど、そういうリスクはあるってことをね、一応話しておいた方がいいかなと思ったの」
僕は、その時どんなリアクションをしたのか覚えていない。姉は、本当に普通に風邪がうつるといけないから、気をつけてね、と言っているのとほとんど同じトーンで話した。
彼女はいたって普通で、教えてもらえなかったらわからなかった。当時の僕は、思春期の後半だったが、その状況は刺激が強すぎた。彼女の感染の原因は、性行為そのもので性に対する興味がピークだった僕だが、実は意外と無垢な想いを抱いていて、ショックを受けた。僕は、皆無と言っていいほど正確なHIVに関する知識が無かった。世間が騒然としたAIDS問題は、喉元すぎればと言われるほど、終息気味でその話は、青天の霹靂だった。姉は僕のHIVに関する知識不足を補うため訥々と根気よく説いた。
「日本の田舎でね、身近に社会問題になっている対象がいないと対岸の火事なのよ、誰も関心を持たない。自分は関係ないってね。でも、ここには普通にそんな人もいるのよ。とにかく必要以上に敏感になる必要はないってこと。差別する理由なんてどこにもないんだから」姉は、HIVに関する一通りの説明を終えるとそんな風に言った。
それから、僕はできるだけ普通に彼女に接した。彼女は、免疫機能が著しく低下しているので、風邪などの感染症を避けるため注意深く、静かに暮らしていた。しかし、調子の良い時ちょうどクイーンエリザベスシアターで上演していた「Miss Saigon」を観劇したいと言ったので、僕達3人ででかけた。ブロードウェイのオリジナルキャストで公演されたそれは、舞台装置は噂どおりすばらしかったが、僕は悲恋の物語についていけなかった。姉と彼女は、しゃくりあげていたが、僕は、ほとんど感情移入出来なくて、つくづくポップなものが好きなのだと思ったりした。日本に帰る時、彼女は玄関で見送ってくれた。「本当にありがとう。とても楽しかったわ。気をつけて、楽しい旅を」と僕に言った。僕は、何も彼女にしていなかったので、いつもの挨拶程度と受け取ったが、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ、僕はあわてて「こちらこそ、ありがとう。元気で」と、答えハグをしたのを覚えている。
姉はまたこんな話をした。アメリカのモンタナをボーイフレンドとキャンピングカーで旅した時のことだ。田舎町を歩いていたら、いきなり向こうから歩いてきた白人の老人に腕を掴まれ、中国人か?と聞かれ、日本人だと答えると汚い言葉で日本へさっさと帰れと言われたそうだ。パールハーバーと叫びながら。今だにそんな人もいると言う事実。からかわれたにしては、きついジョークだ。マイノリティーだけではなく、強固なコミュニティーの外では、誰にも相手にされない。姉はこの出来事があってから、無知による想像力の欠如と差別を憎んだ。あるいは、個人的に話せばわかってもらえたかもしれない。だが一度ついてしまった固定観念を覆すのは難しい。最も難しい事だが、相容れない文化や思想や歴史を乗り越えて許しあうしか方法がない。時の流れはその為にあるはずだ。誰かにアジテートされて、一斉にそちら側に向かう過剰なナショナリズムは、ワールドカップサッカーだけで十分だ。物事に対する解釈は人それぞれだろう。姉から学んだ教訓は、多面的視点。だが、物事の本質を捉えることはたやすいことではない。そしてみゆきに、こんな話をしていたのを僕は思い出した。
「それより、こんな朝早くから散歩?」
「うん、暑くて目が覚めたら、もう眠れなくて、外が明るくなって来たから、ご来光見たくなって海に来たの。そしたら海に入っていくアキをみたわけ。帰らなかったの?」
「うん。気がついたらフォレストのソファーで寝てた」
「そんなに飲んだの?」
「いや、大して飲んでないよ。常連達のつまんない話に割り込んだんで、悪酔いしたかもな」
みゆきは、「ふ~ん」と言ってキャップをかぶりなおした。
「あのさ、どうしてAIRのライブに俺とじゃなくて彼氏と行かなかったの?」
みゆきに誘われなかったら寝ることはなかった。確かにあの日の夜、ライブの延長だったとはいえ、衝動的だったと認めざるをえない。しかし、僕達は言葉で語りあうより、ずっとお互いの熱を伝えあった。
「アキは、戦っている人好きでしょ?」
「戦っている人?」
「うん、AIRって、戦っている感じがするじゃない?アキならきっと好きになるだろうと思ったの。だってはまったでしょ?」
「確かに、かなりやられた。でも、みゆの彼だってあの場にいたら拳を振り上げるよ」
「あの人は、きっとついていけない」
「そうかな、誰だってはまると思うけどな。すげーかっこいいし。でもまあ、音楽は嗜好品と同じだからな。合わないものも確かにある」
「とにかくあの人は無理。だってあの人は自分の世界しか信じない人だし、世界が広い事をわかってない」
「それは言い過ぎだよ。先生にも言われたけど、俺達はみんな同じだ、なんもわかってない」
「そうじゃないの、わかってないことがわかってないの」
現実はいつも楽しいわけではない。むしろ辛い事の方が多い。バブル崩壊の影響はまだ続いていて、いつまで続くか不透明だ。目に見えない影響を個人に与えたとしても、それが何かわからない。つまり、実感がない。不況による就職難やリストラ?そうかもしれない。かなりリアリティがある。生活が成り立たたなくなるのは、深刻だ。でも違う気がする。20世紀が終焉に向かいこれまでの価値観の崩壊?もしくはキャピタリズムの限界?それも違う気がする。もっと別な何かだ。わからないから不安になる。だから知ったふりして流される方がきっと楽なのだ。そして、世界はもっとやっかいだ。自分が何者かわからないのに、目に見えない力に説き伏せられる。そんなのはごめんだ。僕は、自分が何者なのか知りたい。
「バタフライエフェクトだな」僕は、ふとそんな言葉をつぶやいた。何の脈絡もないことを言う僕にいつも呆れるみゆきが珍しく、真剣な眼差しだ。僕は、いろんな事が一辺にリンクし始めたような気がしていた。
「何がつながったの?」
「実は、よくわんねえ。でも、なんとなくそんな気がすんだよ。先生の授業もねーちゃんの影響もみゆにバスキアを教えてもらったことも。AIRのライブも。全部、自分とちゃんと向き合っていかないといけないっていう覚悟かな」
バタフライエフェクト。そうだ。先生の授業やねーちゃんの影響もみゆきに教えてもらったバスキアもAIRのライブで感じたことはつながっている。確かに僕は今、何者かわからないけれど、悪い感覚ではない。ここから何かが始まる気がしているからだ。焦る必要はないな、と昨日の夜とは違った気持ちになっている。
「なんだか哲学的。でも、そういうの嫌いじゃないよ」
「それでね。あの日の夜もそんな気持ちだったと思って、それをみゆと共有したかったっていうか」支離滅裂だな、と思いながら言葉を探していると、みゆきは、続く言葉をまたずに言った。
「ねえ、私達親友だよね?」
「まあ、そうかな」
「ソウルメイト。私はそう思っているから」
僕は、日の出を見るというみゆきを残して海岸を後にした。松林を抜け、30メートルも歩くと国道に突き当たる。僕は、国道沿いの狭い歩道を歩き始めた。車の往来は、早朝だけあってまばらだ。僕の車はフォレストの駐車場に置いたままで、とにかく重い身体をひきずりながらでも歩いて帰ろうと思った。東から光が差してくる。日の出だ。僕は、太陽の光の中で何かを見つけられるのだろうか?リアリティがない。リアリティは、濡れたTシャツの不快感だけだ。そのうち汗と混じりあいどうでもよくなる。
『ソウルメイト』と、みゆきは言った。確かに僕は僕にとって大事なことを、その時々のガールフレンドではなく、みゆきに語ってきた。この感情が愛なのかわからないまま、僕はいつしか歩道を走りだしていた。