時間
美とは人の意識の檻のようなものだ、と律は思っている。
ひとたび美に囚われた者はその他に視線が外せなくなり、またその裏に本当は何が潜んでいるのか気付く事ができない。この国の聖女信仰はその盲点とも言うべき人の美を好む性質、或いは芸術性を利用して太い信仰を集めている。神聖なる聖女に清廉なる美貌の王族、善政が続くこの居心地のいい世界に人は感謝こそすれ、それが別世界の人物の人生という犠牲の上に作られたものであると誰が思うだろう。世であれ人であれ、真実とは往々にして美の裏に醜さを孕んでいる。表が美しければ裏は醜さが渦巻き、裏が澄んでいれば表には濁りが現れるもの。影が無ければ日向が存在できないように、美醜も善悪も常に表裏して一体にある。美しいだけの世の中などあり得ない。
「―――だから、」
「ぬうりゃああああああ!!」
雄叫びを上げながら突っ込んできた男の斧を律は突きだした左手の鞘で弾き飛ばし、拳に固めた右手は抉るような角度で下から顎を掬い上げる。
「こういった小悪党の存在っていうのは、世界にとって必要不可欠なものであるわけで」
まともに入ったカウンターに吹っ飛ぶ男を見届けることなく、背後で剣を振りかぶっていた大男へ振り向きざまの回し蹴りを繰り出した。大男は絶叫をあげて前方へ上体を折り曲げ、無防備に晒された後頭部に律は思い切り鞘を降り下ろす。固いなにかが砕ける鈍い音と感触にうむと頷き、ふいに陰った左斜め後ろに鋭く肘を突き出した。
「現実が綺麗なだけじゃないんだぜっていう世の理を思い出させる大切な存在だと思う訳ですよ」
ごっ、と聞いている方が痛くなる音を立て突きだされた肘が最後の一人の鳩尾に決まり、崩れ落ちた男の頭をついでとばかりに蹴飛ばして頷く。
「そんな訳ですから、彼ら野盗や盗賊、悪党の類こそがこの世界の影の立役者だと私は思うんです。彼らのお陰で現実が成り立っているのだと思えば、多少睡眠を邪魔されたところで可愛いもんだと諦めもつくというもんですよ。ええ、例え十二回目でも」
ね、と真面目くさった顔で律が振り返って言うと、旅行用の大型の馬車の中から唖然とした五名の騎士の視線が届いた。それを受け止めて得られない同意に口を曲げれば、御者台で頭痛を堪えるように眉間を押すエヴィが疲れを滲ませた声で言った。
「…言いたいことはよく解った。解ったから、とりあえず馬車へ戻ってくれリツ。あと少しで領地に着くから、もう誰もお前の眠りは妨げないと思う」
そう言われて見回した馬車の周囲は、睡眠不足の律の八つ当たりを受けた盗賊が死屍累々と大量に横たわっていた。ここにきて、やっと律は己がちょっと短気になっていたと反省した。
エヴィの領であるエディンバは、王都クィネザより馬車で2日程行けば到着する距離にある。これは何も急いで2日だとか無休憩であるとかそんな但し書きがつく日程ではなく、ゆったり進んで2日というごく常識的な無理のない日程だった。
そのはずだったのだが。
一行がエヴィの別邸へ集合し出発してから間もなく、まずたちの悪い当たり屋に出くわした。足が折れただの頭を打っただのわめく男に休暇中であれ騎士である彼らが怯むはずもなく、そこは早々に恐喝現行犯として近くの警備隊に突きだして問題にはならなかった。が、悪かったのはそれからで、王都の関所を抜けた途端、一体何の恨みがあるのか断続的に盗賊だの追い剥ぎだのが馬車を狙ってちょっかいをかけてくるようになった。最初こそ律も、まぁこんだけ立派な馬車使ってたら狙われもするさと騎士らと一緒に笑って流していたが、それが二回三回、七回八回と続けば流せなくもなる。襲われる度に馬車は止まり、柄の悪い連中の下品な口上と攻撃を一通り相手していたらゆったり組まれていたはずの2日では足りなくなった。加えて連中は何故か律が眠気を覚えた頃に狙ったように現れて、襲撃が八回目を越した辺りで律の顔から笑みが消えた。そして襲撃九回目、交代で行っていた御者がヴォルフガングだった時の深夜、律の不満が爆発した。道は森に差し掛かり、天気のいい夜空に美しい満月が煌々と輝いていたそこへ、複数の足音が卑下た声と共に現れて言ったのだ。『命が惜しかったら荷物と馬車を置いっブ』
別に盗賊が語尾にブをつける個性的性格だったわけではない。言葉を最後まで言えず男が沈んだのは顔面に律の拳がめり込んでいたからだった。同行者の騎士であるエヴィらが剣を持つ暇さえなかった。それから馬車が襲撃に会うたびに、エヴィたちは馬車を降りる間も無く無言の律に一方的に殴り付けられる盗賊の姿を見ることになった。悪いのは盗賊なので自業自得とは思うが、どこか哀れと思う同情心を抱いた騎士六名がいた。
「あぁほら、あれですよリツさん。エディンバが見えました」
「ほー、あれが……また随分と自然豊かですね」
結局到着まで倍の四日かかったエディンバは、もりもりと覆うように続く深い緑の景観をしていた。寝ぼけ眼を覚醒させ感想を漏らす律に、そうですね、と笑うのは秋の稲穂を連想させる濃い黄金の髪を揺らす29歳の爽やか好青年、ブレーズだった。
ブレーズ・プロヴァンシアル・パンセ。エヴィが率いた第三中隊の生き残り中最も誠実的で真面目な性格をしており、王都からここへ来る途中律も何度か手合わせを頼まれた。寝ようとしたら必ずやってくる盗賊のせいで寝不足ではあったが、律はブレーズの真っ直ぐな性格に好感を抱いていたのでまぁ眠気覚ましにと相手していた。一度も刀を使う事は無かったけれども。
「中隊長の領地は土地に恵まれてるから、住むにはとても理想的な土地なんです。ただその代わりというか、一つ大きな荷物もあるんだけど」
「荷物?」
「はい、まぁお陰でこれだけいい土地であるのに誰にも手出しされる事無く平和を保てるって隊長は言ってました」
「あぁ…ニールスの森とかいうあれですね」
はい、と頷いたブレーズの視線がちらりと御者台を見たのを横目に、律はふむと前方に広がる森を見つめた。午前中の透き通った日差しを燦々と浴びて輝く森は一見何の異常も見出せないが、何かしら問題を抱えているらしい。そういえばその反則的な強さが重要だの言っていたな、と律が眉を寄せていると、ブレーズが朗らかに笑って言った。
「だから高位魔族も倒せる異常な強さのリツさんがあそこに住んでくれれば、領主である中隊長も助かるという打算も少なからずあると思うんですよ。戦闘樹が群れを成して生息する以上、人間が手を出せる領域じゃないし」
「―――ちょいとお待ちなさいよ」
朗らかな笑顔で穏やかならざる発言を聞いて、律はぎゅるんとブレーズに視線を向けた。今この男は何と言った。異常と言うたか。
「黙って聞いていれば何です。異常だの人外だの言い過ぎじゃないですか。私はね、願いを叶えてくれる龍を七つの玉で呼び出せるあの世界の人種のように髪と目の色素を瞬間的に欧米系へと変化させあまつ万有引力の法を頭部のみ可逆変化させるアレ的なスーパー性は所持していないんですよ。いたって普通に人類してるんですから」
目の前のブレーズはぱちくりと目を瞬かせているが、何かどうもブレーズに限らず、彼らは会ったときから律の事を怪獣か何かと勘違いしている気がする。こればっかりは律も声を大にして言いたいが、律はちょっと立ち位置が違うだけの普通の人間だ。立ち位置が違う故に若干の反則はあるけれども、だからといって無敵ではないしどうあがいても矮小なただ独りの人間にしかなりえない。
「いいですか、強かろうが人間である以上捻挫もするし風邪も引くし食あたりも起こします。365日元気いっぱいではありません。血だって赤いんですよ。疑うなら証人がいます。ね、エヴィ!私の血は赤いですよね!打撲したところ蒼くなってただろ!」
証言を求めて御者台に叫ぶと、怪我を治療をしたことのあるエヴィが些か呆れた顔で頷いた。それを確認するやほら見ろと言わんばかりに再びブレーズへ視線をやり、そこに口を押さえて肩を震わす男を見つけ口を閉ざした。なんかどうも、必死な律が彼のなにがしかを刺激したらしい。
「…ちょいと、ブレーズさん」
「…っ、す、すいませ、っぐっ…」
憮然として名を呼ぶと堪えきれなかった笑いで苦し気に謝罪され、律は口をへの字に曲げてため息を落とした。まぁ理由が律というのは多少引っ掛かるが、それでブレーズが笑えると言うのならそれも吝かではない。四日前に律が見たプレディーオール邸へ集合したブレーズは、顔は強張り彼の持つ素直な瞳も真っ直ぐな性格も翳って力を失ってしまっていたのだから。
会わなかった2日の間に死んだ仲間を想い己を責め続けていたのだろう。律はブレーズという人間が根が真面目過ぎる為、自責もきっと人一倍するだろうとエヴィが心配するのを聞いていた。そういった負の念は仲間といる間はまだ分散できるが、一人になると一気に全てが押し寄せる。2日ぶりに会ったブレーズはやはり、憔悴の色濃くして窶れていた。懸念が当たったとそっと顔を歪ませたエヴィと、各々辛そうではあるがまだ気を保ちブレーズを気遣う他の面々の様子を見て、律は何とも不器用な連中だと思ったものだ。
「っあー、もう。リツさんて本当凄いですよね。圧倒されて一生勝てる気がしません」
「何がですか。なんかあまり誉められている気がせんのですけど」
「そうだそうだ、ブレーズ笑いすぎだろ。リツさんに失礼だぞ」
「そうですよ、リツさんが凄いと思うのは同感ですが自分のは尊敬ですから。ブレーズさんとは違いますから」
「そういうヴェルナーさんとヴォルフガングさんもさっき笑ってましたよね。視界に入ってましたよ口押さえてたの」
「あ、僕も見ました。肩震わせて二人とも笑ってました」
「私も私も。見ましたよ」
「ちょっ、バートランド!エルンスト!売るな!」
「ぶっ」
そのやり取りに落ち着きかけていたブレーズが再び吹き出し、腹を押さえて笑い出した。それをやいのやいのと言いながら見つめるヴェルナーたちの目は優しく、安堵したように微笑んでいる。律はその様子を見ながらこれならそう遠くないうちに皆上手く乗り越えるだろうという安堵と、支え合える者がいる若干の羨ましさを感じた。
―――去るものは日々に以って疎しという。
彼らはきっと、己を一生許すことは出来ないだろうなと律は思う。律も娘を助けられなかった己を一生許す気は無く、また許せる日など来なくていいと思っている。だがそれと同時、感情も記憶も時と共に薄れ消えて行ってしまう事を律は知っている。時の残酷さとは、図り知れない力で一切のものを奪っていくことにある。人は生きる以上前を向かなければならないが、その為には哀しみは引きずって行くことは出来ないからだ。
そして時が持って行くのは痛みや哀しみだけではなく、思い出さえも連れて行く。そのままにしておいてくれた方がどれほどに良いかと思っても、生を歩む人には許されざる願いでしかない。何故なら人は、生きねばならない。立たねばならない。何の為にかは解らないまでも、それでも前を向き歩いて行かなければならない。人は生きる権利があるが、同時にそれは義務でもあるのだから。
「おい、いつまでリツをネタに笑ってんだお前ら。もうエディンバに入るぞ、領民に俺の部下は馬鹿ばっかりかと思われたらどうしてくれるんだ。しっかり顔作って格好つけとけ」
「わははっ了解!」
生い茂る森を前に振り返って言ったエヴィに、部下五人の明るい声が返った。朗らかな彼らを見るエヴィは穏やかな笑みを浮かべ、彼らをまとめる長として、そして見守る者としての暖かさをそこに湛えている。―――その若葉の瞳がふと、律を見た。
時にして数秒。ほんの僅かな瞬きを残しエヴィの視線は前方へ戻ったが、律はそれに目を細め律儀な奴だと肩をすくめた。"ありがとう"と、そう言っていた若葉の瞳は、律のブレーズに対する小さなお節介に対してのものだろうから。
だが、それにしても。
「どうでもいいけど、あーたら私にちと失礼すぎやしませんか。人ネタにして盛り上がるのやめてくださいよ、失敬な」
憮然としてこれだけは本気で訴えた律に、何故か返ってきたのは更なる爆笑だった。
なんとも納得いかない話だと律は思った。
***
森に入った律が漏らした感想は、なるほどという納得を示す言葉だった。
光を反射し合う木々の葉にちらちらと落ちる輝きは光彩陸離たる美しさではあったが、物言わぬ大自然であるはずの彼らから発せられるものは何とも剣呑な、それこそ殺気と言うべきものだった。一つも人影はないと言うのに、何故だか大勢の敵の中に放り込まれたような心持ちがする。
「戦闘樹と言って、一見普通の木と同じように見えるが今感じている通り意思を持つ。だからといって直接的な攻撃をしてくるわけではないから、こうして通るだけなら何の問題もないんだ」
気味は悪いけどな、と緊張している馬を苦心して操りながらエヴィが言う。馬車を引く馬の蹄がカポカポと木霊するが、風にざわめく木々の息遣いが鋭すぎて呑気さの欠片もない。
律は森全体に渦巻く殺気を浴びながら、だがどうしてか奇妙な懐かしさを感じていた。解せない、と心中で呟く。百年前と二百年前にこの世界へ連れてこられ、併せて二十年の時をこちら側で過ごしたが、戦闘樹なる名前は律の知識にない。知るはずのないそれであるのに、殺気を撒き散らす樹木の気配になぜ懐かしさを覚えるのか。
「…この森は何故お荷物なんですか。確かに緊張は強いられる場所ですが攻撃もなにもされないなら特に警戒する必要ないでしょうに。何が問題なんです?」
「通るだけなら、と言ったでしょ。立ち止まると攻撃されるんですよ」
隣に腰を下ろしていたヴェルナーが、若干声を小さくして言った。
「この森のやっかいなところはそこなんです。人が立ち止まったり、敵意を少しでも持ってここに入ると追い出される」
「―――追い出される?森が動くんですか?」
「ええ。比喩的な意味でもなんでもなく、そのまま捉えてもらっていいです。地面から出てきて追い回されますよ。キャンプでもしようもんならここにある全ての戦闘樹が動くでしょうね。一度国から調査隊が来たらしいですが、葉一枚も取れず森に追い返されたそうで」
苦笑するヴェルナーを見て、律は馬車の外に目をやった。見えた森は至って静かで、殺気を除けば他に変わった動きはない。ざわざわと囁くように揺れる木々。
―――追い出される。
突然はっと目を見開き、律は弾かれたように窓へ視線をやった。折り重なるように高く延びた枝葉、すべらかな樹皮を持つ幹はどれも大樹と呼ぶに相応しい威厳に満ちている。律が注目したのは、その根。
「殺さないんですか」
「え?」
「戦闘樹。追い返すだけで、殺さないんですか?」
「は―――ああ、うんそうですね。人が死んだという報告は確かなかったかと。…中隊長!ありませんよね?」
御者台に声をかけたヴェルナーに、エヴィが振り返って頷いた。
「無い。少なくとも俺と俺の父が治めている間にそんな報告はない。せいぜい追いかけられて骨折したというものだけだな」
律は再び森に視線をやった。ざわざわとさざめきあう大樹の群れ。大地に降り注ぐ木漏れ日が、向けられる殺気とは裏腹に優しく暖かい。
律はそっとため息をついた。込み上げそうになった笑みは苦心して飲み込み、視線を大樹の根元にやる。
地と幹の接地面には、あるはずのものがなかった。木の命とも言える根、それがこの森の木々はどれももたず、まるで太い杭でも打ち込んだかのように不自然な唐突さで生えていた。
正体不明とされるこの樹を、律はとてもよく知っていた。
―――ざあぁ。
風が吹き、律は顔を上げた。森の出口が迫り、拓けた視界に美しい町並みが見える。エディンバと名づけられたこれは、二百年前は無かった風景だった。
「さーて、おい森を抜けるぞ。領民が出迎えに来てくれるからな、全員しっかり顔作れよー」
エヴィの声に各々が安堵の溜め息を溢し、解ってますよと返答した。律はそれを聞きながら、殺気を飛ばす森を瞬きもせずただじっと見ていた。
戦闘樹と呼ばれる意思あるこの大樹、本来の名はデラシネという。フランス語で根無し草という意味を持つこの植物は、今は滅んだ芽吹きの民という種族が隠れ家を守るため植える守護の植物だ。芽吹きの民はこの植物を名を奪う事で縛り、運命共同体としていた。だから本来なら芽吹きの民が滅んだ時に、彼らも共に滅ぶ運命だった。
―――二百年前、最後の芽吹きの民が死に逝く現場に居合わせた律は、名を持たず滅びを待つばかりだった種にデラシネの名を与え、気まぐれに庭で育てていたことがある。
(なるほど、エディンバは前大聖堂があった場所か)
今は隣りあわせで建っているが、過去、王宮と大聖堂は離れた位置にあった。律も[佳代子]もそこに住み、十年の時をそこで過ごした。
今ニールスの森と名付けられているここは、二百年前律が作った家庭菜園の成れの果てである。