未来
置いていっていた十年分の記憶を一気に脳に放り込まれた律は、膨大なそれに目を回した。脳への負荷に耐えきれず膝をつき、充血した目に逢瀬は二度目となる巨大な召喚の陣が映った。絶望的な思いで目を閉じ、律は呻いた。どうして。荒い呼吸のまま隣を見れば、二十代半ばほどの白人の女性が怯えた顔で陣を取り囲む王たちを見ていた。襟ぐりのあいた青いワンピースから覗く鎖骨には、聖女を表す花の形をした印が咲いていた。
『な、何よこれ…!』
悲鳴じみた彼女の言葉は、恐怖と混乱で震えていた。頭痛に顔を歪めたまま、律は彼女に声をかけようとした。が、ふと見た己の手に違和感を覚え我が身を見下ろす。目に映ったのは機動性に特化した黒い上下にブーツ、腰に下がる刀とそれを括る緋色の組紐。見覚えのある格好。ある予感に頭へ手をやれば、伸ばしていたはずの髪がなかった。短すぎる。まさかと立ち上がった律は、体が異様なくらい軽快であるのに気付いた。どうして。どうして!―――これは今年二十六になる己の体ではない、あの日[佳代子]を看取った十六の日のものだ!
『何なのよ一体!!』
聖女が叫んだ。若き王が微笑んで言う。初めまして愛しき我が妃。そして長き眠りよりよくお目覚めになった、聖なる乙女の守り人よ。
微笑みを絶やさず、両手を広げ歓迎の意を示す若き王。美貌の王が言った言葉に律の眉が寄せられる。
お目覚めに。
長き眠りより。
"律おはよう"
頭の中に友人の声が木霊した。―――"どうしたの、どっか痛いの。律、どうして泣いてんの"
佳代子。あの日呼べなかった友人の名前は、本当に佳代子だったか?聖女の[佳代子]と、己の友人は本当に、はじめから同じ名前だった?だったら何故呼べなかった?名は「識っていた」が、まるであれは、取って付けたような。
―――ぐわん、と律の何かがズレた。無理やり括り付けられていた「過去」が、急速に色を失っていく。これは一体誰の記憶だろう。
誰。
―――律ではない、でもそれは確かに「律」のもの。
ああ、
そういう事。
律の目に理解と表現しがたい笑みが浮かぶ。この時律は、初めて【神のご意志】を正確に理解し、己の立ち位置が聖女以上に厄介なものに成り果てていたことを知った。
律はあの十年で解放された訳ではなかった、あれは単に始まりにすぎなかった。律は神に捕まったあの日からずっと、どんな形で眠っていたのかは知らないがこちらの世界に【いた】のだ。
この体はつまり、律であって律ではない。理屈をつけるならあらゆる時空の他の己、パラレルワールドの律とでも言えばいいだろうか。人間はあらゆる選択を重ねて生きていく。その選択肢の向こうには無数の違った世界がある。あの日神は聖女の近くにいた律だけでなく、全ての時空の【律】全体を取り上げたのだ。神があちらから物理的に連れ去ったこの「体」は、違う時空を生きていた「六歳の律」。この先の未来という「人生」を奪われたのは「聖女の近くにいた十六歳の律」。律は十年前、律のあの日あのときへ帰ったのではなく、別の時空の「律」に継ぎ接ぎされていた。【律】という存在は命有る限り守り人として使われるべく、その生涯を神に全てまるごと絡め取られていたのだ。ただ、律が目をつけた[佳代子]の近くにいたという、それだけの理由で。
『やめて、近寄らないで!来ないでよ!ねぇ、あなたも私側なんでしょ!?なんなのこれ!助けて!帰して!』
微笑みながらゆっくりとこちらへ来ようとする王と神官に、女性が恐慌状態でそばに立つ律にすがり付く。律はきつく目を閉じると、吐息をこぼして目をあけた。狂いそうなほどの笑い出したい衝動を飲み込み、こちらへ来る王と神官に止まるよう合図する。すがる女性の青い瞳を静かに見つめると、服を掴む白い手にそっと自らの手を重ねた。
―――私はリツ。リツ・ムラカミ。日本人です。あなたは?
『わ、私は、』
見た目は女性より随分と年下である律の落ち着いた声に、女性が僅かに理性の色を取り戻す。震える体を抑えながら、ゆっくりと懸命に律の目を見て、言った。
『私は、ナターシャ。ナターシャ・ユシチェンコ。ウクライナ人…ねぇリツ、これは夢なの?』
視界の隅で、しびれを切らした王が近寄ってくるのが見えた。律はナターシャを見ながら、夢であればどれ程に良かっただろうかと思う。けれどこれは否応もなく現実だ。聖女に選ばれ余命十年となった彼女も、この先生きる限り一生守人として使われるだろう律も。
そう、どうしようもない現実。
律は微笑み、目を細めた。
―――えぇ、夢ですナターシャ。これから十年、私と長い夢を見ましょう。私はあなたを守るナイト、あなたは今から世界の羅針盤として未来を照らすプリンセスになるんです。
律はまた十年、聖女を守った。
聖女を恨みも憎みも慈しみも愛しもせずに、ただ守った。
聖女が死に行くその時も、律は泣きも笑いもしなかった。
もはや一生が己のものにはならぬと知った今、もう全てが律にはどうでもよかった。
* * *
「ご歓談中失礼致します、エヴァンジェリスタ様」
控えめなノックと共にかけられたジェネンガの声に、衝撃から立ち直り口を開こうとしたエルンストをエヴィが手で制した。そのまま入るようジェネンガに告げると、流れるような動作で現れた執事はエヴィに来客の旨を伝える。律とエルンストが顔を見合わせエヴィを見ると、当の本人も不可解そうな顔をしていた。予定されていた来客ではないらしい。
「ジェネンガ。俺はエルンスト以外の来客があるとは聞いてないが」
「申し訳ございません、私も存じないご訪問で…お見えになったのはマリエラ・ニェンバイロロ・リザ様です。出直していただけるようお願いしたのですが、お聞き入れ頂けず」
「…あいつか」
申し訳なさそうなジェネンガに、エヴィが頭痛を堪えるような表情で呻いた。名前からしてどうやら女性のようだが、友人や婚約者と言うには些かエヴィの反応が芳しくない。はて何者ぞと律がエルンストに目をやれば、先程まで知的好奇心に輝いていた顔は見事にひきつっていた。もしかしなくても、マリエラなる人物はどうやら両方共にあまり歓迎できない相手のようだ。
律はふむと頷くと、対応を決めかねているエヴィを横目にあのーとジェネンガに手を挙げた。
「何でございましょう、リツ様」
「差し支えなければなんですが。どうもお二人とも会いたくない方のようですけど、どういった方か聞いても?」
「はい、マリエラ様はニェンバイロロ公爵家のご令嬢で、一部の騎士達を大変情熱的に敬愛されておられるお方です」
「成る程」
律はジェネンガの言葉を正しく理解した。つまりあれだ、追っかけだ。否、追っかけというよりエヴィ達の反応から察するにストーカー一歩手前か。彼らの気持ちとしては追い払いたいが、相手が公爵家と下手に地位が高いものだから邪険にできず手を打てないというところなのだろう。
「…エヴィ、エルンストさん、どちらか今剣持ってます?」
「え?―――いえ、私は今日は短剣しか」
「あるぞ、長剣」
唐突な律の問いに戸惑いぎみに答えたエルンストの隣で、エヴィが部屋の隅に立てかけている剣を指差す。律は頷くと失礼、と一言断り席を立ち、ジェネンガの方へ近寄った。律が何事か耳打ちする。
「それは」
執事の目が軽く驚いたように開かれたが、律の顔を見るや頷き 「かしこまりました」とお辞儀をして部屋を辞した。
「リツ?」
エヴィの訝しげな声に律が振り向き、壁の剣を持つとエヴィへ差し出した。目を点にするエヴィ。
「リツ、何を」
「エヴィ、ちょっとこの剣抜いて構えて下さい」
「―――は?剣をか?今?」
「うんそう。ほら早く立った立った。エルンストさんはちょっとテーブルから離れて…あ、そこの執務机の横でしゃがんでください。危ないので」
訳がわからないといった顔で、それでも二人が指示通り動く。エルンストが移動し、エヴィが困惑した顔で抜いた剣を構えて見せる。それを確認すると、律は部屋の扉を全開にし、言った。
「これからマリエラさんがこちらに来ます。一芝居打つのでまぁ適当に合わせてください」
「は!?」
「リツさん!?」
慌てた顔で抗議するように見る二人を見返し、律は笑みを浮かべて刀を握る。
「お願いしても帰らないなら、帰りたくなるよう仕向けましょう。調子こいてるお嬢様にはいい薬にもなるんじゃないですか。―――来ましたよ」
律の目配せと共に鈴を転がすような笑い声とジェネンガの穏やかな声が聞こえ、エヴィとエルンストが顔を引きつらせて身構える。律はそんな二人を見て頷くと、腰の刀を抜いた。
瞬間。
「…リ!?、―――ぐぅッ!!」
凄まじいまでの威圧が律から溢れ、エヴィに向かって刀身が降り下ろされた。予告なしのそれを咄嗟に受け止めた剣は、ぎぃんと物騒な音を奏で火花を散らせた。律が足で側の椅子を蹴倒し派手な音を立てる。
「と、…突然何を!!」
「何をじゃねぇよ中隊長殿ォ!俺の顔忘れた訳じゃねぇよな!!」
世間話をするような普通の顔で、律が開いた扉の方を向き物凄く柄の悪い事を言った。そのドスの効いた声と言葉にエヴィがぎょっとして目を剥いたが、目線を戻した律が「貴様はあの時の、と怒鳴ってください」と言ったのを聞き顔に理解を浮かべる。修羅場を装い逃げ帰らせようというのだ。
剣を構え直し、エヴィも扉の方へ怒鳴った。
「貴様はあの時の!!賊め!一体どこから侵入した!―――皆のもの、逃げよ!!」
「ヒャハハハハハ!!逃がすかよォ!てめぇのお粗末なイチモツぶった斬って干物にしてやるよゴラァァアア!!」
片手を口に添えてメガホンのようにし、律が言いながらもうひとつ椅子を蹴倒す。どがしゃん、と脅すにはとてもいい音が鳴った。 律は怯えた気配がする扉の方を見ながら、これはうまく行ったと思った。
が、言い返すはずのエヴィから何の反応もなく、律があれと思い視線をやると 、愕然とした顔で固まっていた。え、と思いエルンストの方を見たら、そちらも同じことになっていた。―――そうか、貴族だった。
律は己が罵り言葉のランクを上げすぎたと気付いた。
気付いたが、その時には遅かった。
「い、一体何なのです貴方は!」
高圧的な声に振り向いた先、全開の扉にブロンドを美しく結い上げた清楚な美少女が、蒼白で震えながら律を睨んでいた。どうもこれがマリエラ嬢らしいが、勇気だして見に来てしまったらしい。
―――え、どうしようこれ。
本来なら姿は見せずに厳つい賊っぽい声でエヴィとやり合い逃げ帰らせるつもりだったのに、ドスの効いた声と反対の小柄な律の姿は見られるし、エヴィはショックから抜けきれていないしで最悪の展開だ。
律は事態の収集に悩み、とりあえず喧嘩してますというアピールをしようと咄嗟にテーブルに乗って身長差のあるエヴィの胸ぐらを掴む。キャアアと恐慌状態のマリエラ嬢が悲鳴をあげたが、冷静に見れば状況はコントの様相を呈していた。律も実はかなり動揺している。
「誰か!誰か来て!エヴァンジェリスタ様が野蛮な男にぃぃ!!」
いやあああと喚き散らすマリエラの言葉に律がひらめく。そうだ男だ。マリエラ嬢が己を男と思っているなら好都合、襲う方向性を変えればいいのだ。おあつらえ向きにもエヴィは新世界のアニキが好きそうな容姿、そうだ、これだ。
律はマリエラ嬢の方向を向くと、物凄く悪い顔で笑った。
「あぁん?何だ嬢ちゃん、俺のお楽しみに混じりてぇのか?でも悪ぃなぁ、こいつはな―――オレの獲物なんだよ!!」
そう口にすると、目一杯下品に笑いながら律は掴んでいたエヴィの胸ぐらを引き寄せた。え、という顔をしたエヴィ。律はその唇に、噛みつくような口付けをかました。絶叫を上げるマリエラ嬢。
がちゃん、とエヴィが剣を取り落とし、目を見開いて逃げようとする。律はそれを許さず、掴んだ胸ぐらそのままに益々獰猛に貪って、マリエラ嬢によく見えるようやたら卑猥に舌まで入れた。どう、という音が扉から聞こえ、口と手を離して見ればマリエラ嬢が泡を吹いて卒倒していた。勝ったと思った。
「エヴィ、エルンストさん、やりましたね」
勝利に満ちた顔で律が二人に視線を戻すと、エヴィが口を覆い、前屈みでしゃがんでいた。眼帯のない右目は軽く涙目で、情事の後のような生々しい色気を漂わせている。あれ、と次にエルンストの方を見ると、顎がはずれんばかりに口を開いて硬直していた。
―――あれ?
律の達成感で高揚していた気持ちが冷静になっていく。勝利による軽い酩酊感がひんやりと覚めて行き、律は己の行動を省みた。
沈黙した律に、エヴィが掠れくぐもった声で言った。
「やりすぎだ、この馬鹿…」
強制送還されるマリエラ嬢の馬車を見送りながら、律はどことなく哀愁漂うエヴィの背中に眉を下げた。一応目一杯謝罪はしたが、気にしてないと言ったエヴィは今目に見えて影を帯び沈んでいる。隣に立つエルンストを見上げ、律は小さく問う。
「あれはあの、どう慰めたら良いんでしょうか。ご愁傷様でしたと言うべきですか」
「いえ、それだと物凄い他人事に聞こえるんですが。・・・まぁあれはリツさんというより、中隊長が己自身に凹んでいるだけだと思いますから。そっとすべきかと」
苦笑交じりにそう言われ、律は困って思案気に眉を寄せる。一応加害者である自覚があるので、何もせずほっとけといわれても落ち着かない。
「よく解らないんですけど、つまり?」
「えーっと、・・・その、中隊長は恐らく、唐突とはいえ女性に翻弄された事がショックなのではと。くだらないが捨てられない男の見栄と矜持ですよ」
「―――何と」
エルンストの言葉に律が驚き、目を見張った。律は己がエヴィの中で女性の部類に入れられていたとは思わなかった。
いや、ささやかだが一応有る胸は握られたし生物学的には間違いなく女ではある。だが思い返しても宿屋は全員で雑魚寝であったし彼らも下着で普通に律の前を通り過ぎていた。屋敷に着いてからも密室の部屋に二人で居て、脇腹の治療もエヴィがした。防御用胸当てをしているとはいえ律が何のてらいなく脱いでもエヴィは平然としていた。
どこに女の括りに入る要素が。
加えて律も自分の性別をたまに忘れる。
―――それに。
「・・・百歩譲って女扱いしていたのだとしても、年の功と思って納得できませんかねぇ」
「年の功?」
エヴィの背中を見ながら呟く様に言った律を、エルンストが見下ろした。多分バートランドあたりにでも聞いたのだろう、その顔は律の年齢を知っている上での怪訝な表情だった。
「リツさ・・・」
「エルンスト、リツ、明日出発するぞ。この分だと近いうちに俺達が帰っている事が広まりそうだ。早急に王都から出ないとまた縁談だ夜会だ書面が来る」
馬車が見えなくなり、振り返ったエヴィの苦々しげな言葉にエルンストがはっと顔を上げた。瞬時に顔色を変え、慌ててエヴィに頷く。
「了解しました。ブレーズたちにもその旨伝えて参ります。出立は明日の早朝という事で宜しいですか」
「あぁ。今はこれ以上騒がれるのは御免だ。頼んだ」
「はッ」
引き締めた顔で踵を鳴らす礼をとると、エルンストは律にも軽く礼をして踵を返した。去る直前、見せたその目はまだ何か聞きたそうな色を浮かべていたが、エルンストは優先事項を間違わず「またの機会に」と言うに留まった。
エヴィは本当に良い部下に恵まれていると律は思う。彼の人徳に依るものも大きいのかもしれないが。
「リツ」
「はい?」
「お前――・・・」
見上げた若葉色の瞳は静かに、物問いた気に煌めいていた。律はそれを見て先程のエルンストとのやり取りをエヴィが聞いていたのだと知る。
苦笑して頷いた。
どうぞ、訊けば良いと。
「・・・バートランドに聞いた。リツは俺と同じ歳だと。でも」
年の功。そう言った。
見惚れるほどの瑞々しい若葉色。それを揺らして躊躇い、律を見下ろし、困惑を滲ませエヴィが問う。
「違うんだな?リツの見た目はどうみても二十代だ。だがお前の目は見た目通りとするには悟りすぎて、しかし俺と同じとも思えない。どこかで見たと思っていたら、俺の祖父とよく似た目をしてるんだ。
―――リツ、お前一体何年生きている?」
決して怯まず、そらされることのない瞳。
律は視線を広大な庭に向け、そっと溜め息を落とす。
「さぁ……どうなんだろう。正直言うと、私
にも自分が本当は何歳なのかよく解らない。どこからどこまでが【私】のものでどこから違っているのか。《神》に随分といじられてしまっていてね、さっぱりなんです」
「いじられた?記憶をか?」
「記憶というより、人生だね」
笑い、律は己の短い黒髪に手を伸ばす。これもそう。こちらに来る前の律は、肩より長い髪をいつもクリップで留めていた。男と見紛うこの短い髪型は、[ナターシャ]を看取ったあの時、確かにしていた長さ。
「…推測を言っていたよな。《神》は初代聖女ではないかと。どうしてそう思った?」
「八割は勘ですよ。《神》のやり方がいやに打算的で人間くさいなと思ったのがきっかけ。あとはまぁ……聖女の記録を記した魔具が大聖堂にあるんですけど、初代の部分のみ改竄されていて、加えてあの召喚の陣作ったのは初代だと聞いたもんで」
律の漏らした情報に、歴史にあまり通じてないエヴィでも動揺した。律の話が本当なら、初代は尋常でない魔術者であったことになる。世間には全く知られていない情報だ。これが流れでもしたら、聖女の神秘性は間違いなく揺らぐ。
「どこの世界から落ちたのか知らないが、初代はとんでもない化け物ではないかと思う。そこら辺が《神》とどことなく似通う気がして、そういう推測になりました。以上が理由」
「…成る程。良く解った」
笑って説明を終えた律に、眉間に皺を寄せたエヴィが頷いた。そこで律は、さて明日の用意を、と口にしようと―――して。
エヴィを前に立ち尽くした。
「リツがどれだけこの世界の犠牲になってきたのか、良く解った。俺ごときがこうしたところで何の意味にも償いにもならないと解っている。それでも、この世界の住人として俺はリツに謝りたい。―――済まない」
そう言って伏せられてしまった若葉色の瞳があまりに辛そうで、律はそれを残念に思った。
―――お母さん、あたらしい葉っぱってキレイだね。
ふと脳裏に聞こえた娘の言葉に、律は笑って頷いた。
そうだね、とても綺麗だね。 綺麗なものは大切にしなきゃいけないね。
「解りました、じゃあさっきのキスの件はこれでチャラにしてください。これで気にしっこなしですよ」
「―――は!?」
「さ、明日の用意をせねば。エディンバって2日かかるんでしたよねぇ…。エヴィ、バナナはおやつに入りますか?」
「……ばななが俺には何なのか解らん」
困惑の顔でそう言うエヴィを見上げ、それが妙におかしくて律は笑った。爆笑した。
だから目尻に浮かんだものは、笑いすぎたせいに違いなかった。