歴史
びゅう、と風がないていた。
叩き付けるように頬に当たる風がぴりりと痛覚を刺激する。思わず瞼を閉じるたくなるような、そんな寒さ。
びゅう。
風の音の聞きながら、律は静かにその情景を見ていた。律は知っている。これが夢であることを。
―――おかあさん!
可愛らしい声がする。
振り向けば、車道を挟んだ向かい側に愛娘が微笑んで手を降っていた。真新しい赤いランドセルを誇らしげに揺さぶり、お母さん、とまた叫んでこちらに駆けてくる。
―――お帰り柚子。今帰り?今日は早いね。
―――今日はね、先生たちがお話し合いするって!でね、みっちゃんち遊びいくの。
嬉しそうに話しながら、娘がぴょんぴょんと回りを跳ねるように歩く。危ないよ、と買い物袋のない方の手を出せば、満面の笑みを浮かべて小さな手で握りしめてきた。
―――おかあさん、おてて冷たいね!私のより冷たいね!
―――スーパーから歩いてきたからね。柚子の手は暖かいねぇ。
―――今日みっちゃんにも言われた!
―――みっちゃんの手、冷たいんだ?
―――冷たいよ、ちょーヒヤッとするよ!
―――冷え性なのかねぇ。
頬を真っ赤にして報告する娘にそう呟けば、ヒエショーって何?と見上げてきた。そのあどけない瞳に微笑み、まろい頬に目を細める。律が29の頃に産んだ一人娘の柚子は、やっと6歳になったばかりだ。己は老化の一途を辿るだけだが、毎日の彼女の成長が楽しみでならない。
―――家に帰ったら教えてあげる。
―――わかった!ね、これ私持ってあげる。
律の買い物袋を柚が取り上げた。横断歩道で信号が青になるのを待つ。
―――おかあさんあのね。
―――うん?
―――私ね、好きなひとができたー!
―――えっほんと?だれだれ?
―――ひみつ!
信号が青に変わった。彼女は急げとばかりに駆け出した。が、すぐ振り返るとはにかんだ笑顔で手を降った。
―――お母さんはやく!
―――待っ―――、
そのまま 駆けていこうとした背中。叫ぶより早く、どご、と鈍い音がした。
娘の小さな姿が宙を舞う。パールピンクの軽自動車が耳障りな音を響かせて止まった。アスファルトに黒いタイヤ跡が描かれた。ばちん。娘がその上に落ち、転がった。
弾かれたように、走った。走り出し、急ぎすぎた足がもつれて転んだ。起き上がる。走った。娘のそばへ。
―――ゆ、
小さな、細い左腕がおかしな方向へ曲がっていた。顔を見る。目は開いていた。体が痙攣している。何か、赤いものがじわりとアスファルトに流れ出した。娘の体の下から。
―――ゆず。
手を伸ばした。小さな頭。手のひらに温かい濡れた感触がした。
鉄の匂い。
―――あの。
「―――ーっっ!!」
跳ね起き、咄嗟に傍らの刀を掴んだ。脳裏に焼き付いた女の残像。憎悪に任せ刀身を鞘から抜きかけたところで、燻る火とこちらを驚いて見る白髪の男が目に入った。
「リツ、さん」
―――は、と溜め息を落とした。
白髪の彼は、女ではない。短い白髪の男。バートランド。バートランド・アースウィリアン・ラッセル。32歳と聞いた。アイスブルーの瞳が戸惑いと心配を宿して瞬いている。
そうだ、と思い出した。今は移動中で、己は野営していたのだった。
「リツさん?」
「…すいません。寝惚けました」
「いえ、それはいいのですが…大丈夫ですか?顔色が」
数センチ浮いていた刃を鞘に戻し、律の威圧でも察知したのだろう、それぞれ剣を片手に身を起こしかけていたエヴィらにも右手をふりお騒がせしました、と謝罪する。
眠かったのだろう、皆異常がないことを知るや納得し再びぱたりと眠った。よく訓練されているなと感心する。律も野営には慣れているが、さすがにここまで寝起きはよくない。
(今日はもう、眠れそうにないなぁ、これは)
季節で言えば暑くもない春頃の気温であるのに、律の全身はびっしょりと汗をかいていた。気持ち悪さに嘆息して、律は火の番をしているバートランドの向かいに腰を下ろした。伺うような視線に目を向け、軽く微笑む。
「今日はもう寝られそうにないので。良ければ寝てくださって構いませんよ、見張りは代わりましょう」
「いえ、でしたらご一緒に」
「そうですか」
緩く白い煙が伸び上がり、暗闇に散り行く姿をただぼんやりと見つめる。柔らかい風が汗に濡れた肌を撫で、体温を奪う。
(虚しいもんだな、仇討ちなんて)
目を閉じればいつでも甦る愛娘。事故とはいえ殺された瞬間、憎悪に支配されて相手を殺した。それは後悔してないけれど。
(殺しても、あの子は生き返らない)
それどころか、亡骸すらなくなった。召喚の不足分のエネルギーを補うため、聖女召喚の陣に贄として喰われてしまった。どこまでもふざけた神だと思う。
(本当に己の世界のためならなりふりかまわんな。潰れてしまえよ、そんな世界)
け、と内心で神を嘲笑っていると、目の前に湯気を纏う携帯カップが差し出された。目を瞬かせ、それを持つ手を辿れば、バートランドが苦笑していた。
「どうぞ、落ち着きます。―――物凄くすさんだ笑みを浮かべてらっしゃいましたよ」
「・・・すいません、出てましたか」
「はは。何かご不快な事でも考えておられました?」
くすくすと笑うバートランドに、世界崩壊を考えた罪悪感を隠しえぇまぁ、と笑った。礼を言いながらカップを受け取り、口をつける。ホットワインだ。
「あの」
喉を暖かい刺激が通り過ぎるのを楽しんでいたら、躊躇いがちに声をかけられた。目を向ければ、些か思いきったような風合いのアイスブルーの瞳と出会う。
「リツさんは、女性、なのですよね?」
「え?」
「いえ、その。中隊長から伺いまして・・・」
律の顔が強張る。握った手のひらに違う汗が吹き出た。やばい。
あの、とひきつった声が出た。
「あのですね、違うんです、あれです。温泉の件は、知らなかったんです。性別で入浴時間が違っているとか知りませんで、行った時受付の人何も言わなかったんです。本当です。だからそうか混浴なのかと思っていただけで、別に私は決して、断じて彼らの裸を覗こうとしていたわけでは」
「いえ思っていませんから!違いますから!」
必死の形相で弁解する律に、バートランドの方が慌てた。彼はそういう事が聞きたかったわけではなく、ただ性別が女性だと知らなかったと言いたかっただけだ。
「というかむしろ、そういう論点で言えば失礼だったのは中隊長の方ですし。本当に申し訳ない話です」
「あぁいえ、脂肪握られただけですから」
律が笑って気にする必要はないと言うと、バートランドが束の間、唖然とした表情を浮かべた。律が問うより早く復活したが。
「しかし言われて見れば、骨格も顔立ちも女性ですのに。全く気付かず・・・失礼を致しました」
「気付かれないようにしてるんですよ。一応こんなおばさんでも、女だと面倒事を呼びやすいんでね」
男装してるわけでもないんですけど、と笑うと、バートランドが妙な顔をした。律の言った「おばさん」という単語と律が一致せず理解できないのだろう。それを解っていながら、そ知らぬ顔で「何か?」と聞いた。
「いえ、あの――失礼ですが、お歳は」
「おたくの中隊長と同じ歳ですよ。36」
「―――」
絶句するバートランドに、律は苦笑して肩をすくめた。歳の通りに見えないのは知っている。事実、律の肉体年齢は実年齢より十ほど若い。十年前の、元の世界に還ったその日その時のままなのだ。
「・・・異界の方は、若く見えるのですね」
「そのようですね。寿命は変わらないんですがね」
しれっと答え、律は笑う。神はきっと、今頃激怒している事だろう。神が律をこうして呼びつけた目的を、律は知っている。この世界の神は、己の世界には直接手を下す事ができない。だた他所から何かを放り込む事だけしかできない。だから、己と世界との意思疎通ができる唯一の存在である聖女を、守りたくて律を呼んだ。十年前も。二十年前も。
けれど律は、聖女を殺した。神の協力者を消した。
聖女がいなくば、神は世界に何もできない。
(―――ざまぁ)
そして律も、何もできない。聖女召喚は百年に一度。あちらの十年がこちらで百年だが、どのみち百年待たねば元の世界へ還れない。あと百年など生きられるはずもない。
もっとも、娘のいない世界へ還るつもりはなかったけれど。
リツさん、と再び声をかけられ、顔を上げた。思案気に眉を寄せていたバートランドと目が合う。
「もしかして、この世界は二度目ですか?」
「いいえ?二度目ではないですね」
そう、二度目ではない。嘘ではない。微笑を浮かべて言うと、そうですよね、とバートランドが恥ずかしそうな顔で頬を掻いた。
「申し訳ありません、もしかしてと思ってしまって。我々騎士は学舎で歴代聖女の事も学ぶのですが、史実として聖女には守り人がついておりまして。その守り人、異界人という事以外の素性が不明なので賛否両論あるのですが、伝わる容姿が似通っていた為同一人物ではないかとも言われてましてね、その、そんなわけないですね。百年とか、いや守り人だったらそもそも殺しませんよね、済みません」
余程恥ずかしかったのか、早口に言うバートランドの耳が微かに赤い。一見冷たそうな容貌なので、照れ隠しなのだろう、無表情で火種を弄くる姿が意外だった。これがギャップ萌えというものかと律は思考の片隅で呟いた。現実逃避だった。彼は今、学舎で学んだと言った。嫌な予感がした。なんというか、こう、レジェンド的な。
―――と。
「・・・バートランドさん」
「え、」
律が静かに名を呼び、立ち上がった。視線は上空に据え、手には抜き身の刀を下げていた。
バートランドが口を開こうとした途端、ずん、と体が何かに押さえつけられたように地面に倒れた。見れば、律を除く全員が苦悶の顔で伏している。―――拘束の魔術。
「魔族が一人、遊びに来ました。すぐにそれ解除してもらうんで、少し我慢しててくださいね」
凄まじい重力の中、バートランドはどうにか動かした視線の先で、リツが跳んだのを見た。その跳躍した先に紫の魔術光が飛ぶ。空中で身を屈め、刀を一閃。白くきらりと光った。
学舎で受けた歴史の授業で、教師が言った一節が浮かぶ。
『その戦闘は白い弧を描くカタナがくるくると舞うように見えるため、白拍子の守り人と呼んだそうだ。綺麗だったんだろうな、是非見てみたかった』
バートランドは思った。綺麗な、舞いのようだと。
―――教師が言ったのは、これだ。
どちゃりと何かが潰れたような音だか声だかがする。
とん、とリツが着地した。
あまりにも鮮やかで、静かな舞いだった。
「―――か、は、」
拘束が解かれ、地に伏していた彼らが肺に空気を送り込む。全員が、咳き込んでぜぇぜぇと言っていた。
「皆さん、大丈夫ですかね?」
「リツ、今のは」
けほ、と噎せながらエヴィが尋ねる。律はそれに頷き、苦しそうな顔に貼り付いた金髪がなんとも言えず色気があるな、と腐ったことを考えた。
「高位魔族ですね。廃墟の残党というか、宿からずっと着いてきてたんですけど」
「うわ」
顔をしかめるエヴィに、肩をすくめて律が笑う。
「ときに、バートランドさん」
「は、はい?」
「先ほどの異界人の守り人、現れたのは百年前と二百年前ではないですか。白拍子の守り人だの聖女の守り人だの言う」
「そ、そうです。やはり、リツさんはその縁の方でらしたのですね!戦闘の姿が世界史の教師が言った様子とあまりに酷似していたので、これは守人の子孫に違いないと」
「あー、」
若干興奮ぎみに言うバートランドに、律が気まずそうに呻いた。
その気まずいというか、むしろ面倒くさそうな態度に、バートランドが訝しげな顔をした。そして、は、と目を見開く。
「リツさん、先ほどの問い、『二度目ではない』と仰いましたが」
「え、あー、そうでしたかね」
確信めいたアイスブルーの瞳に、律は言葉を濁す。
「質問を変えます。この世界は何度目ですか?」
「おい、バートランド?」
まさか、と目を丸くするエヴィに、バートランドが頷く。そしてあ、と質問の意図に気付いた他の面々が律を凝視した。
それを困った顔で受け止めた律は、すいっと視線を泳がせる。
―――これは。
全員が目で頷く。
「リツさん、・・・三度目ですね?」
バートランドの問いは、問いというより断定。律は物凄く、それはそれは嫌そうな顔で溜め息を落とした。
「・・・えぇ、三度目です。あちらとは時間の流れが違うようで」
言葉を無くす騎士たちを前に、律は呻いた。レジェンドどころか世界史か、と。