武力
『ねぇ、リツは地球でどんな生活をしていたの?』
美しいドレスに身を包み、全身磨かれ美貌の人となった聖女[ナターシャ]が無邪気にわらって問うた。
『普通の生活を』
『それじゃ解らないわ。学生をしていたの?』
『OLをしていました』
律の返答に[ナターシャ]が目を見開く。飲みかけのお茶を優雅にテーブルへ戻し、斜め前に立つ律を見上げた。
『リツ、あなたティーンエージャーではないの?凄いわね日本人て、どうみても高校生にしか見えないわ。いくつなの?いえ、そういえばリツは初めからこちらの知識に通じていたわよねぇ…』
丁寧に手入れされた指先を顎にかけ、綺麗な笑顔で[ナターシャ]が呟いた。律を見る目は無邪気としか言えぬそれで、眉ひとつ動かさない無表情の律を絶やさぬ微笑みでじっと見詰める。
『ねぇリツ。思えば私、もうこちらに来て8年も経つのにあなたのこと何一つ知らないわ。リツはここに来たのは初めてではないんじゃない?』
[ナターシャ]は頭のいい聖女だった。王や神官長が謀に利用しようとして、逆に手玉に取られたのを律は知っている。
『初めてこちらに来たのは…いえ、違うわね。あなた、今何年生きた記憶があるのかしら?』
何も言わない律に[ナターシャ]が微笑んで両手を伸ばした。そしてがしと音がしそうな乱暴さで首をわしづかみ、唐突にそれを絞め始める。研がれた爪が律の皮膚を破り痛みを覚えた。
『ねぇリツ。おしえてよ、何年生きてるの?言いなさいよ、聖女が十年しか生きられないのに付属品のあんたは何年生きてるの。言いなさい、言いなさいよ下僕!』
ぎりぎりと締め上げられる首に、苦しさで律の顔がやっと歪んだ。それを恍惚とした表情で見る[ナターシャ]の目は狂気がちらつき、彼女の心が蝕まれはじめている事が悟られた。神に奪われた[ナターシャ]の人生。定められた寿命の短さは刻々と迫り、日々崇め奉られ神の手足として国母たる王妃として存在せねばならぬ生。何の変鉄もない、多少頭がいいだけのただの人であった彼女にはそれはあまりにも重すぎた。[ナターシャ]のまだ柔らかい心を歪めるにはそう時間がかからなかった。
『リツ、ねぇリツ!私あと2年しかないわ!あんたはこの先もずっとずっとあるの、あるんだわ!神が言うの。リツのこと教えてくれるの。リツは…まぁそうなの、その顔でもう四十年以上生きてるのね!』
[ナターシャ]がころころと涼やかな声で笑いはじめ、律の首から手を離した。塞き止められていた血と酸素が流れ、意識にノイズが混ざりかけていた律の視界が一瞬暗くなる。どうと地に伏し荒い呼吸と咳を繰り返した。
『素敵!素敵!ふふ、うふふふ、あぁ……大聖堂にいかなくちゃ。リツ、いつまで寝ているの?早く起きて、私を守って』
『…は、……』
ひゅうひゅうと鳴る喉を押さえ、律はどうにか立ち上がった。律の肌を突き破った[ナターシャ]の爪は血に濡れ、律の首にはくっきりと絞められた指跡と爪傷が残る。けれどそれは血が滲む今の傷だけでなく、治って跡だけになったものから割りと最近の治りかけのものまで、夥しい数の傷跡が首から胸にかけて刻まれていた。
『早く早く、リツ早く。神が私をお待ちよ、王も神官長も待ってる。ねぇリツ、このドレス素敵でしょう?』
王がくれたのよ―――。
無邪気に笑いながらドレスを翻し見せる[ナターシャ]。律はそれを無感動にただただ眺めた。
重圧と不安感に押し潰され、律に狂気をぶつける聖女[ナターシャ]。それを何の色も浮かべず受け、ただ傍らにいて聖女に従う守り人[リツ]。
それは異常でありながら当人達にも周囲にも疑問一つ湧かせない、繰り返される日常のごくありふれた風景だった。
***
律がそれに気がついたのは、エディンバの街道を半ばまできた活気のある市場での事だ。
「リツ?」
買い物目的で馬車から降りていたところで、笑みのない、どこか険しい顔で町の一点を注視する律に、エヴィが声をかけた。五人の彼の部下達も何事かと立ち止まる。
リツ、と再び名を呼んだエヴィに、律が振り返り口を開いた。
「つかぬことを聞きますけど。エヴィ、エディンバに神殿はありますか」
「は、神殿?―――いや、無いが」
「では大聖堂の神殿関係者が来るような施設は?」
その言葉にエヴィが眉をひそめ、律の見ていた方角に目をやった。途端、その表情が強張り、顔色が変わる。エヴィの視線をたどった彼の部下達も同じ態度を取った。
飲食店が軒を連ねる一角、襟の青いラインと紋章が見目麗しい、白い聖衣に身を包んだ厳かな一団が歩いている。
「―――大聖堂神官」
思わずと言った呈で呟いたエルンストに、エヴィがなぜ彼らがここに、と呻いた。
「…確かにエディンバは大昔に大聖堂があった。だがそれはニールスの森付近だ。何故なのかは知らんが神殿の連中は森を嫌う。だから奴等がエディンバに来ることはまずない。施設も何もここにはない」
「ふむ?…てこたぁ、何か嗅ぎ付けたか、或いは…」
―――神の差し金か。
口にせず言葉を飲み込んだのは、認めたくない可能性であるからだ。
聖女がいないというこの現状は、召喚を行った世界にとっても律にとっても初めての事だ。世界に直接的に手出しできない神が聖女を手足として干渉していたことは知っているが、その聖女がいないこの状態の場合、神の力がどう働くか正確な事は律にも解らない。異界の門を開くことで神が力を使いきり、あとは聖女頼みであることは過去の召喚資料で知っている。けれど神が使っていたのは聖女の命だけでなく、己の力も多少使っていたという事実にも律は気付いていた。神は聖女から力を吸いとって使役していたが、運命丸ごと切り離された律と違い、一つの人生という刹那的な存在の聖女はこの世界に維持するという力が必要になる。つまり神は聖女を維持するだけの力は持っていたという事だ。ではその維持する対象がいない今はどうなのか。それだけの力が余った状態の神が、何か別の手段で干渉しようと考える可能性がないとも言えない。
―――それに私物化したと思っていた[リツ]にこうも手酷く裏切られたんだ、怒りも半端なかろうよ。
苦笑を浮かべる律の前に、突如すっと大きな影が立った。顔をあげると先ほど律が注視していた神殿関係者から、まるで隠すように立つ大きな背中が目に入る。黒い髪のヴェルナー。目を瞬いて何事かと尋ねようとして、律は己が背の高い騎士達により周囲から隠されるように囲まれていることに気付いた。
「…何です、皆さんおしくらまんじゅうでもするんですか?私肉体的には然程強靭ではないので真ん中は遠慮したいんですが」
「何でそんなもんするんですか。ほらリツさん早く馬車に戻って。奴等の目的は解らないが見付からないに越したことはないでしょう」
「あ、なるほど」
呆れ顔ながら厳しい表情の騎士達に促され、律は騎士の影に隠れて馬車に戻った。さり気無く隠してくれていたので何の注目も浴びず戻れたが、馬車で立ち去る際ちらりと見た聖衣の一団が、魔石を取り扱う店に入るのを見て。
小さく呻いた。
魔石。そう魔石だ。―――魔石はいつも、聖女が全身に身に付けさせられていた。
プレディーオール侯爵家本邸であるエディンバの屋敷は、王都の別宅と違い随分と無骨な佇まいをしていた。たしかにそれなりに広く立派ではあるが貴族らしい装飾がまるでなく、どちらかというとその辺の大きな商家の方がまだ贅を凝らしているかもしれない。
「…何かこう、随分と男気溢れる造りですね?」
帰宅の旨を門番に伝えるエヴィを離れた場所で見ながら、律がヴォルフガングにそっと問うた。それに苦笑を溢した青年は、艶のある飴色の肌の頬を掻いて囁くように同意を示す。
「自分も初めて中隊長のご実家に来たときはそう思いました。…何でも、亡くなられた侯爵夫人――中隊長の母上は貴族でありながら武人であったそうで、住むなら無駄を省いた実用一辺倒の家しか受け付けないと求婚した侯爵に宣言したらしいですよ」
「な、なんと」
「そんな条件突きつける夫人も夫人ですが、それを了承して家を全面改装してしまった侯爵も侯爵ですよね。余程愛しておられたのでしょう、侯爵はこちらを愛の巣と呼んでおられました」
「…似合いませんね」
「ですねぇ」
苦笑混じりではあるが微笑ましそうに言うヴォルフガングから視線を本邸へ戻し、律はううむと感心した。愛の巣、確かにエピソードを聞けばその通りだが、見た目が無骨過ぎて違和感が拭えない。例えるなら筋骨逞しい猛者にピンクのフリル付きハンカチーフとでも言えばいいか。そこでふと斜め後ろを見た律は頭に豆電球が光輝き、隣で本邸を眺めるヴォルフガングに言った。
「これはあれですね、頭にリボンを付けたヴェルナーさんですね」
「ちょ、リツさん何だよそれ?」
「―――、ぶふっ」
どうもそこだけ聞こえたらしいヴェルナーから抗議の声が上がり、それに余計笑いを誘われたらしいヴォルフガングがごいんと殴られた。
「すいません、あまりにもいいタイミングでヴェルナーさんの顔が目に入ったもので」
「そうですかい…」
別邸と本邸との差に律達がそうやって観察していると、開かれた門の向こうに一人の男性が立っているのが見えた。太陽の光を反射して煌めく柔らかい金髪、若干垂れ気味ではあるが初夏の新緑を思わせる若葉色の瞳。はてどこかで見た配色のナイスミドルだなと律が見詰めたその先で、当のナイスミドルがいきなりこちら側に全速力で駆けてきた。ぎょっとする律と騎士を全く気にせず、ナイスミドルは目の前にたどり着くとそのまま頭を急降下させた。九〇度はあろうかというそのお辞儀に律はおののき、一歩後退した。初めまして、とナイスミドルが言い、今度は頭が急上昇した。そこに浮かぶ満面の笑みに律はまた一歩後退した。ナイスミドルを追うようにやってきたエヴィは疲れを滲ませた様子で空を仰ぎ、またやったか、と片手で目を覆っていた。
「あ、あの?」
「初めまして!初めましてリツ殿!私はレイヴァンディエスタ・プレディーオール・サイフォンと申します!レイヴィとお呼びください、ええそこのエヴァンジェリスタの父親ですよ、似てるでしょう?!そう、そうだ!まずはお礼を言わせて頂きたいのです。リツ殿、私の息子を助けてくれて、本当に本当にありがとう!」
「え」
「感謝しているのです、心から!この溢れる感謝の心を今にも絵にして見せたいくらい!でも絵心がないので叶いません…」
おお世は無情、と悲しみに暮れるナイスミドルを見ながら、律はえええー、と内心で声をあげた。まさかと思ったが、どうやら本当にこれがプレディーオール侯爵ご本人らしい。会って三秒で侯爵に頭を下げられたのも然り、何よりこのよく解らないテンションに律は呆気に取られた。そしてその間にも再び何かぺらぺらと侯爵は語り出し、完全においてけぼりをくらった律は対応を悩んだ。果たしてこれは、突っ込みを待つボケであるのか、ただの天然であるのか。
律が沈黙して固まっていると、その肩をぽんとエヴィが叩いた。茫然としたまま振り返ると、「すまん、こういう人なんだ」と申し訳なさそうな顔で首をふるエヴィと目が合った。色々と諦めた苦労の目をしていた。
「という感じのね、いわゆるこうなんていうか、上目遣い的な?そんなリーサルウエポンをエルザに繰り出されて僕心奪われ愛溢れ、でもその時に」
「あー、父上、父上父上父上」
「え、何?エヴィ」
突然割り込んだ息子の声に、侯爵が言葉を止めきょとんと律の隣を見た。目元以外は実に良く似た二人が向き合い、けれど正反対の雰囲気で美丈夫がナイスミドルに苦笑を向ける。
「リツが困ってます。初対面の相手にいきなり頭下げられると普通困惑するものですよ。仮にも侯爵という地位にいるのですから、父上が気を回してやらねば」
「え、うそ困らせた?父さん困らせちゃった?ごめんねリツ殿、僕はどうも空気が読めないというか、初対面の人を困らせる傾向にあって」
慌てて再び頭を下げた侯爵に律はまたえええー、と内心で声を上げた。隣で頭痛をこらえるようなため息が聞こえ、律はエヴィに代わり場を収集すべく手をふった。
「い、いえ、その。おかまいなく。それにほら、初対面の人困らせるなら立場的に私もですし」
「立場的?」
「ええほら、私指名手配犯じゃないですか」
「あ、そっか!なるほど!」
じゃあお互い様だね、と笑った侯爵にしかし、律とその場にいた騎士全員が微妙な顔をした。空気が読めない性格相手に指名手配犯の肩書きでは、少々荷が重すぎやしないか。そう突っ込みたいが一緒だ一緒だと笑う侯爵に誰も何も言えず、微妙な空気のまま侯爵家の玄関をくぐった。因みに息子のエヴィは思考すら放棄したように無の境地を顔に張り付け、部下と律を部屋に案内するからと早々に侯爵から離れていた。慣れというより諦めたんだなと律は思い、部屋で脱力するエヴィに大変だなと声をかけた。
エヴィは静かに解ってくれるかと頷いていた。
「それで、見た感想としてどうだ?ニールスの森はリツの手に負えそうか?」
「あー、そうですねぇ…」
パンを口に放り込みながら尋ねるエヴィに、律は手の中の酒を揺らして口を曲げた。
律と騎士達が侯爵に屋敷へ招き入れられ、各々与えられた部屋で身支度を終えた頃には夕食の時間を迎えていた。食堂に晩餐の用意をしたという侯爵からの言伝てに律もご案内しますと使用人から声をかけられたが、己が犯罪者である立場を考慮し侯爵との同席は遠慮した。いくら皆が寛容であろうとも、犯罪者が貴族の晩餐に同席するのは好ましい事態ではない。けれど遠慮する旨を謝罪と共に伝えた律の部屋に、使用人と入れ違いに現れたのはエヴィと二人分の食事だった。どうも始めから律の返答は予想していたらしく、遠慮する隙さえない手際と然り気無い強引さで用意を終えてしまった。なかなかどうして、エヴィも立派な《貴族》である。
ゆらゆらと波を作るグラスの液体は淡いピンク色を宿し、けれどその甘い色を裏切る後味がスパイシーに舌を走り去る。そうだなぁ、と律はもう一度呟いた。
「何とかなるとは思います。まぁ穏便にとはいかないかもですが、一応アレとは、あー、知り合いなので」
「は?知り合い?何と?」
「ニールスの森と呼ばれる、あの戦闘樹とですよ」
手から落ちたエヴィのパンがスープに飛び込むのを見ながら、律はこの友ではあるが貴族であり森の持ち主たる次期領主に、どこまで守護の木・デラシネの事情を話すかなと思考を巡らせた。
「どこから話しましょうか。え―…そうだな、あの戦闘樹と呼ばれている樹、本来の名をデラシネと言います。別名を守護の木とも呼ばれ、あれを縛り飼っていた一族により存在を秘匿されていました。―――エヴィは芽吹きの民はご存知で?」
「デ、デラシネ…芽吹きの民?」
手の中の酒を見ながら語り出した律の問いに、呆然とした顔でエヴィが首を振る。まぁそうだろうなと律は頷き、皿の果物を一つ口に放り込んだ。酸っぱい。
「二百年前に滅びた一族です。歴史家のエルンストさんなら知ってるかもしれませんが、滅びた理由がこの国による弾圧でしてね。あ、迫害と言った方が正しいかな…当時の王がその芽吹きの民の飼っていたデラシネの存在を知り、国の守りとして使おうと思い付いたんですよ。でも肝心の飼い主である芽吹きの民がデラシネの引き渡しを拒み、激昂した王は彼らを叩き始めました。何故奪わなかったのかは、デラシネは飼い主にしか従わないので奪ったところで意味ないからです。だからどうしてもデラシネが欲しかったらしい王は何とか彼らごと自分のものにしようと、また随分えげつない事やってましたよ。そりゃもう聖女もドン引きで、王が来ると私の後ろに隠れてしまって…恨まれたなぁ。威勢だけは良いのにやたらとビビリーな方だったので処刑こそされなかったんですが、もう突っ掛かり方がウザいウザい。あの若い王様名前何つったかな、ス、えー、スフ、スホ」
「…少年王スフィトニクスか、もしかして」
「あ、そうそう、そんな名前でした」
ぽんと手を打つ律に頷かれ、エヴィが若干ショックを受けたように沈んだ。まぁあれだ、これが歴史の弊害というか、律の言う威勢だけはいいビビリーは、現在いくつもの戦を勝ち抜いた英雄、少年王スフィトニクスとして名を知られている。騎士として多少なりとも英雄に憧れはあっただろうエヴィに、律はもう少しぼかせば良かったと反省した。
「それで、えーと…当時大聖堂が王都から離れたこの地にあったことは、うん、昼間言っていた通りご存知ですね。芽吹きの民は平和を愛し争いを嫌っていましたが、実に手強い集団でした。元から数が少なかったので滅び行くまでそう時間はかかりませんでしたが、吃驚するくらい武力を持ってたんです。とは言え多勢に無勢、土地を追われ滅びを待つばかりとなり、その最後の一人をこの大聖堂に住む聖女がたまたま見つけて保護し匿いました。そして彼が天寿を全うし眠りにつこうとするその時に、居合わせたのが私です」
飲み干して空になった酒のグラスをテーブルへ戻し、律は一瞬黙った。そして気まずそうな顔を浮かべ、視線を暗闇に支配された窓の外へと放り投げた。
「その時に、あー、種を引き継がされてしまったんですよ。…まさか【所有者に新たな名を乞われた上で与え、植える】事が所有権譲渡の契約になるとは思わなかったんです。だからこの種に名前付けるならお前は何とするかと訊かれ、デラシネかなーと答えたらそうか、じゃあこれやるからその辺に植えろとくれたんです。それで折角貰ったしと彼の死後、気が向いて野菜の種と一緒に庭に蒔いたら光る芽が出て―――契約は成った、我が名はデラシネ、と」
「な…!」
がたん、と立ち上がったエヴィはやはり、驚愕に染まった顔で律を見ていた。それはそうだろう、お荷物扱いの謎の森とされていたそれを、作った本人が目の前にいて、その始まりが家庭菜園だと言ってる訳だから。
「すみません、いえあの、申し訳ないと思っています。でも二百年前のあれがこんなことになってるとは思わなくて、それにその一年後あちらへ戻って、次来たの百年後だったんですよ。大聖堂も場所王都に引っ越してるし残って繁殖してたとか微塵も思わなくて!」
「…あー、うん、わかった。解ったからリツ、落ち着け」
喋る度に落ち着きをなくし、早口に捲し立て始めた律に逆に冷静になったエヴィがそう言って手を振った。それを見て無意識に立ち上がりかけていた腰を下ろし、律は無言で酒瓶から新たな酒を注ぐ。取り敢えずこんな時はアルコールだ。
「…まぁその、事情は解った。つまりここの森はリツになら従うってことだろ?」
「あ、はぁまぁ恐らく」
「それが解ればそれでいい。原因がお前の蒔いた種であれ、ここまで木を育て森を築かせたのは自然界の住民だ。人間は非合理で不確実性に満ちた生き物だが、彼ら樹木は合理的で確実な生き物だろ。こうなるのが彼らにとって正しかったんだ、お前が気にする事じゃない」
飲もうと持ち上げていた酒のグラスを宙で止め、口を閉じた律はふと遠い目をした。今しがたエヴィの口にした言葉を反芻するように舌に乗せ、ふっと小さく笑みを刷く。
「リツ?」
唐突に酒のグラスをテーブルへ戻し、そこへ残っていた果物を落とし込んだ律にエヴィが片眉を上げた。
「あぁ、行儀悪くてすいません。―――これ、芽吹きの民が行う弔いの作法なんです。グラスに注いだ酒に、森の恵みを落とす。……種を寄越した爺さんが、毎日飽きもせずやってましたよ」
「ほお」
苦笑混じりに言う律に、エヴィが興味深そうにグラスと果物を見た。律は足下に置いていた刀を拾い、手にそっと馴染ませる。そう、毎日毎日、窓辺から大聖堂のささやかな庭を見ながらやっていた。彼の死んだ孫娘に名前が似ているという理由だけで、律に芽吹きの民の知恵や技を幾つも教えて嬉しそうに笑っていた。
―――争いを嫌う癖に何故武力を放棄しなかったかって?なぁ嬢ちゃん、我らに限らずどこの国の人間も、平和を求め、争いを嫌悪する。それは当然の事でそれが一番望ましい。
だがな、真に平和を希うなら、争いを理解する必要がある。人間は不完全な動物だ。弱い人間ほど危機に直面すると理性を失い凶暴になる。人ってのは理性的で計算高い生き物である前に、感情的で意志的な動物なんだ。そんな生き物だらけの中で丸腰になるのはただの馬鹿だよ。争いを嫌い平和を愛するからこそ、武力を持つ必要があるのさ。丸腰なんかになったら、避けられるもんも避けられない。武力放棄を声高に叫ぶだけの輩ってのは争いの恐怖を何一つ解っちゃいないよ。きっと平和しか見たことがない幸福者だろう。だが心から争いを恐怖している者は、武力放棄を恐れるんだ。平和を希求するが故に争いの恐ろしさを知った上で、武力の必要性を説くのさ。
嬢ちゃん、この自然界において、人ほど非合理で不確実性に満ちた生き物は居ないよ。
そう言って笑っていた彼の名はそう、確かリーフォン・グレルロワナといった。
律は手に握る刀を見下ろし、苦笑混じりに呟いた。
あなたが仰った通りだな爺さん。何よりも平穏を望んでいる私が、今一番武器を手離すことが出来ないよ。




