序
そっと、手を伸ばした。
可愛らしい、小さな頭。手のひらに温かい感触がした。そして、ぬるりとすべる。――――鉄の匂い。
あの。
声が聞こえた。振り向くと、若い、高校生くらいだろうか。耳に大きなゴールドのわっかを飾り、きつめに化粧が施された女の子が真っ青な顔で立っていた。ミニスカートからのぞく両足が震えている。
さらにその背後には、鼻先が軽くひしゃげたパールピンクの軽自動車が、運転席のドアを開けて停まっていた。
あの、ごめんなさい。ごめんなさい、私まだ仮免許中で。
真っ青な、女の子。両腕にずしりと力なく抱かれる娘。
見下ろすと、僅かに痙攣していた小さな体は、そっと動きを止めていた。完全に、永遠の沈黙をしたのだと知った。
ぴし。
何か、ヒビが入るような音がした。その正体など気にもとめず、構うことなく、娘を抱き寄せた。そっと立ち上がり、女の子を見る。
足元を光が走った。眩しさに目を細め、それでもそれが何であるのか確認せず、ただこちらを硬直して凝視する女の子へ手を伸ばした。
真っ赤に濡れた、手のひら。
それを、恐怖に染まった顔でこちらを見る女の子の細い首にかけた。
びぃぃん。
強く張った弦を弾くような音がし、ようやく足下を見れば、絵のような紋様のような、判別のつかないものが円形に描かれていた。紋様の中心は、今目を見開き口角から泡を飛ばし、締まる首に巻かれたこの右手に爪を立て暴れている、女の子。
今、胸に抱く、世界で一番愛しく大切な大切な、たったひとりの愛娘を殺した女。
ず、と全身が下に引きずられる。
食い入るようにヨダレまみれの真っ赤に鬱血した女を見詰めた。同時に脳裏にどんどんたくさんの記憶が甦る。ここではない、別の場所の、記憶たち。
思い出す。
なるほどと、この現象に納得した。
今回は、この子だったのか。
けれど、今回ばかりは協力できない。
地鳴りのような音が光と共に場を満たす。
――――ぎ、いぃぃぃぃんんんん――――
引きずられる。娘の体が消える。吸収されてしまった、光る陣に。贄にされたのだ。
笑った。
女の体から力が抜けた。ふと、その鎖骨に花の印が滲んでいるのが見えた。それを「聖女の印」と呼ぶ事を知っている。
ず、――――――――
全てを引きずり込まれる感覚に、抗うことなく静かに両の目を閉じた。
異界への渡りが始まる。
けれど、と思った。
もうきっと、二度と自分はこの世界へ戻らないだろう。望まないだろう。
娘の消えた世界に生きるのは、あまりに辛くて耐えられないから。