エルテゲーン・ティーヴ年代史 ―序章 ある英雄の死 ―
モンゴル帝国史が好きで、いつか広大な大陸の統一史のような物語を書きたいと思っていました。
今回の作品は、自分の趣味全開で密かに書き続けてきた「架空大陸史」の序章となります。
登場人物の一人、ハルバルという男は変人です。
生きることへの執着が希薄で、唯一興味を持てたのは将棋(この大陸にも似た盤上遊戯があり、便宜的にそう呼称します)だけでした。
そんな男がひょんなことから将軍となり、戦争という“別の将棋”で淡々と勝利を重ね、そして飽きたように、未練なく死んでいく――
そんな奇妙な男の物語を書きたかったのも、この作品の理由のひとつです。
これは、その男の終焉から始まる「大陸の記録」です。
終局(エルテ歴975年)
1. 投了
長期にわたり雷光のアルウィンの侵攻を防いできたハルバルの本陣に、王がアルウェンから提示された和睦交渉の条件として「ハルバルの首」を差し出すことを受け入れたという情報が、副官サランによって持ち込まれていた。
「……将軍、逃げましょう。和睦など嘘にきまっています、将軍が亡き者になればこの国はアルウィェンに飲み込まれます!王は何もわかっていません」
サランの声は震えていた。馬も、路銀も、偽造した通行証も、すべて揃えてある。だが、地図を眺めるハルバルは何の感情もない声で答えた。
「サラン、もう詰みだよ……王が和睦に応じたのも隣国の降伏が原因だ、こうなった以上、もうこの盤面の勝ち筋はないし充分楽しませてもらった。」
「逃亡してまで新しい盤面を探す気力も起きない、この国を守れという仕事は十分に果たしたつもりだよ。」
サランは激昂し、彼の胸ぐらを掴んで揺さぶった。
「何が仕事よ! 明日の朝には憲兵が来るの。貴方が守った連中が、貴方を殺しにくるのよ! なぜ怒らないの、なぜ抗わないの!」
ハルバルは困ったように眉を下げた。彼はサランがなぜこれほどまでに怒り、悲しんでいるのか、その根本的な「感情」が理解できず困惑した、ハルバルはそういう男だった。
ただ、長年自分の隣で膨大な情報を処理し続けてくれたこの「優秀な副官」が、ひどく混乱していることだけは分かった。
「……なんだかすまない。でも、ありがとう、サラン。君のおかげで、僕は盤面を解くことだけに集中できた」
2. 痕跡
その、あまりにも淡々とした姿が、サランの心の糸を切った。 彼女は言葉を奪うようにハルバルに無理やりキスをした。
ハルバルは驚きに目を見開いたが、抵抗はしなかった。
サランは泣きながら彼を押し倒した、 もうすぐこの男は死ぬ、この世から消えてなくなる。
何も望まず、死すらも仕事の終わりとして受け入れるこの空っぽな男のなかに、たった一瞬でもいいから、自分という女がいたという「痕跡」を刻みつけたかった。
ハルバルは、重なり合うサランの体温と涙を感じながら、やはり困ったような顔で、されるがままにそれを受け入れていた。
翌朝、霧の中から現れた憲兵たちに、ハルバルは抵抗ひとつせず縄をかけられた。
3.処刑前夜の感想戦
地下牢の静寂の中、アルウェンは勝ち誇るでもなく、苛立ちを隠せない様子で鉄格子の向こうに座る男を睨みつけていた。
「ようやく詰みだな。ハルバル。貴公を盤面から排除するためにはこれがもっとも合理的だった。」
ハルバルは頷ずく。
「それを選ぶと思っていた。僕を戦場で斃すよりも王室の『欲』を突く方が効果的だ、実に合理的な一手だよ」
「悔しくはないのか。武人として、剣を交えることもなく、調略によって背後から刺される幕引きが。貴公の口から呪詛の一つも出るかと思っていたぞ」
「呪詛? なぜだい。君は膠着した盤面に対して、盤面の外からひっくり返すという最適解を出したんだ。君が指した手の中で一番、必然で素晴らしい手だった。」
「必然で素晴らしい手だと? 」
勝利を誇りに来たはずが、まるで自分の策を採点されたような奇妙な感覚に陥り、アルウェンは口を閉ざした。
「僕はこの盤面に長く居すぎた。そしてここまで綺麗な『詰み』を用意してもらえた、十分すぎる終わりだよ、君との対局は最後まで退屈しなかった、ありがとう。」
ハルバルはそこで話を切り、まるで「対局終了」の礼をするかのように、わずかに頭を下げた。
私は勝ったのか? いや、私はこの男に『盤面の相手』として扱われただけではないのか。
アルウェンは、勝利の熱狂などどこにもない、後味の悪さと敗北感に似た感情を抱え、無言で立ち去った。
4.幕引き
数日後、帝国の軍門に降った王宮の広場。処刑台の上に立つハルバルの瞳は、どこまでも澄み切っていた。
死を前にした恐怖も、裏切った王への憎しみもない。 彼は集まった群衆と、自分を殺そうとするアルウェンの将軍たちを眺め、最後に小さく、独り言のように呟いた。
「……皆お疲れ様。俸給分の仕事はしたつもりだよ」
刀が振り下ろされる。 その瞬間、国境を越えようとしていたサランは、まだ自分が生命を宿していることすら知らずに、ただ一人の「女」として、虚空へ消えた男の面影を求めて慟哭した。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
この物語は、ひとつの時代の終わりから始まります。
大陸の人々がどのように生き、どのように時代を渡っていったのか、
その記録を、これからも静かに書き綴っていきます。
どうぞ、次の章もお付き合いいただければ幸いです。




