第7話 アリア。
俺は騒いでいた席を覗きに来た支配人に、ヴァイオリンを借りてきてくれるように頼む。
オーケストラピットは片付けが進んでいる。
「はい、先生。一番いいヴァイオリンを借りてきたよ!」
走って戻ってきた支配人が嬉しそうに言う。
「お前、最後のアリアを弾いてみろ。」
ん、と赤毛の男にヴァイオリンを渡す。ふふん、と鼻で笑いながら構えた赤毛の男が自信満々で弾きだす。
席を立って出口に移動を始めていた観客が、二階席を見上げている。
…こいつ、上手いな。でも、違う。
「どうでしょう?これ以上の演奏ができますか?」
弾き終えた赤毛が、ふふんっ、と笑う。パチパチと一階の観客席から拍手が起きる。
随分自信家なんだな。昔の自分を見ているようで、胸糞悪い。
俺は手袋をはずして、赤毛が返してきたヴァイオリンを構える。
「いいか?フランチェスカ、よく聴け。」
あの頃、母親の再婚でフールに行くことが決まった俺は心細かった。言葉も分からないところに行くんだもんな。
優しい音だ、とお前が言ってくれた。素敵な曲ね、って。あなたの音を目印に、きっと探すからね、って…待ってて、って。そんな小さな約束がどんなに心強かっただろうか。
子供のころの口約束なんて、本気にもしていなかったけど…お前は本当に探しに来てくれたんだな。
心細さと、共鳴と、将来への期待、祈りと…あの夏の日の約束…
俺が青い鳥のアリアを弾き終わると、戻ってきていた観客から拍手が起こる。
胸に手を当てて、感謝のお辞儀をする。
中々鳴りやまない拍手の中、礼を言ってヴァイオリンを支配人に返す。
「いやー先生のヴァイオリン、久しぶりに聞きましたが、やっぱりいいですね。うちでリサイタルでもやりませんか?」
「…やらない。」
「まあ、でしょうね。お連れの男の方は先ほどお帰りになりましたよ?ふふっ、この女性が先生のミューズなんでしょ?ごゆっくり。」
そう言って、支配人がそっとドアを閉めた。
「わかったか?フランチェスカ?」
ハンカチを握りしめて泣いているフランに声をかける。
「…教授があの子だったの?」
「気が付け!このオペラを見て、なんで気が付かない??」
「だ、だって、あなたの音を聞いたのは今日が初めてだし…音さえ聞けば、あの子が大男になっていても山賊になっていても気が付いたわよ!しかも、あなた金髪じゃない?大人になったら、赤毛から金髪になったんだ。会えて嬉しい。」
そう言ってフランが泣いたり笑ったりしていた。
支配人が俺を通してくれたボックス席は、レディの席の二つ隣だった。2階席の微妙なカーブで少々向こう側が見える。赤毛と、レディ?
俺はイライラしながら終わるのを待った。
慌てていたのでよく見ていなかったが…今日はあのアラン、という赤毛の男のために着飾ってきたんだな?眼鏡もないし、ウエーブのかかった黒髪を下ろしている。ワンピースは今日は明るめのグリーン。これが…あいつのためだと思うと悔しい。
「もう!教授!わかっていたなら、なぜ教えてくれなかったの?」
「……」
「ひょっとしたら…女遊びばっかりしてたから?」
「…まあ、それもだけど…俺、ヴァイオリンをやめたから。お前と約束したのに。」
情けない話だ。出来ればしたくなかった。
「まあ…。でも、変わらず、優しい音色だったわよ?」
不思議そうに俺を見つめて首をかしげるフラン。
「それは、お前と会ったから。俺、フールに来てから神童と呼ばれていい気になって…20歳過ぎたらただの人。アカデミアに進んだらヴァイオリンの天才がゴロゴロいてさ…作曲科に転向した。落ちこぼれってわけ。」
なるべくおどけて言ってみた。誇れることでもなけりゃ、自慢できることでもない。諦めた夢が、時々俺を苦しめる。こんな情けない話、できればこの人に言いたくなかった。
「まあ…アドリアン…それでも音楽を諦めないでくれてありがとう。嬉しいわ。」
俺を真っすぐに見上げたフランが、俺の欲しかった言葉をくれる。
「…そう言ってくれると思っていたよ。フランチェスカ。」
このオペラを二人で見に来て、俺のことを話すつもりだった。会った最初から気が付いていた。あの時の女の子だって。
情けない話だから、なかなか切り出せなかった。フランに呆れられたら、劇中の男のように去っていくだけだし…。そんなことを考えていたのに。
フランの手を取ってベンチシートに二人で座りなおす。
「キスをしてもいいか?」
俺は…まるで初めて恋をした少年のようだ。断られたら、泣いてしまうかもしれない。
「まあ、アドリアン。そういうことは許可制なの?」
おかしな言い回しに笑いながら、フランに口づける。
これは…恋、なのだと思う。




