第5話 ミューズ。
このところ、レデイから週末のお誘いが来ないな、と気が付いたのは月が替わってから。俺は俺で、新しい恋人ができて忙しかったこともあったけど、もう別れたし。
アカデミアの試験も終わって、副業もひと段落して…
「あれ?」
冬前のこの時期、やれ収穫祭の演奏会だの、子供音楽コンクールだの、教会の讃美歌の練習が始まってあちこちはしごしたり…去年、おととしと俺たちは音楽漬けの日々を送っていた気がしたけど???
いつも俺から連絡することはほとんどなくて、いつもレデイが、アカデミアで預かった子供たちを見に来た帰りに、俺の研究室にお茶に来る、ってパターンだった。
サロンコンサートで、彼女が気に入った奏者に反対したからか?あれ以来、そう言えば連絡がない。
かといって、こちらから連絡するのもしゃくなので…ラルス座で今日から始まるオペラでも見に行こうかと歩き出す。正面玄関は面倒だから、裏口からこっそり出る。
前に…その頃付き合っていた女の子とオペラに出かけたら…演劇中ずっとその子の感想を語られ続け…何も頭に入ってこなかった。あれ以来、基本一人で行く。
…レディは別だけど。
彼女は耳が良い。本人は音痴だけど。音楽的に、というよりは感覚的に、という聴き方なんだろう。
おっ!と思う瞬間や、うーん、と思うタイミングが一緒で、音楽を聴きに行くには最適なパートナーだ。まあ、前回は違ったけど。
俺は…少しイライラしながら足を速める。
ラルス座で切符を切ってもらっていると、支配人に声を掛けられた。
「先生!なんだ、来て下さるなら、いい席用意したのに!!こっち!」
こっちに来いと言われた方へ付いて行く。急に高貴な人が訪れたりしたとき用に空けてあるボックス席に案内してくれるようだ。
「先生、最近調子いいですね!【美女姫と狼】もロングランでしたし、今回の新作もヒットの予感がします。」
「そう?ありがたいね」
スタッフ用の裏通路を歩きながら、支配人は上機嫌のようだ。
そう、俺は作曲科の教授なんだが、副業で大衆向けのオペラの劇中歌を書いたり、オペラの原案を提供したりしている。見に来る人たちは悲恋や、困難を乗り越えた大恋愛なんかがことのほか好物らしい。裏切り、届かない思い、すれ違い、勘違い…
俺は昔からネタに詰まると、女の子たちの恋愛話を聞く。
「ふーん、そうなんだ。大変だったね。」
そう言うと大体は本音を語ってくれる。女の子たちの恋バナは俺のいわゆる…原動力?
その流れで実際付き合ってみると、いつでもどこでも、思いついた時にナプキンの裏にでもなんでも、忘れないうちに曲を書きだしたりするので…そのうち飽きられる。
「2.3年前はスランプでしたのにねえ、1曲もかけなくて…何かいいことがあったんですか?」
案内してくれながら、支配人が俺に聞いてくる。
何か?か…2年ちょっと前の秋にレディに会ったことかな。
毎日大した発見もなく腐っていた俺の前に、あの人が現れて…俺の世界は柔らかな風が吹くようになったんだ。いつもそうだ。あの人は…特別なんだ。
五線紙の前で蹲っていた俺の扉を開けてくれた。
地方の音楽祭、子供たちの音楽コンクール。小さな教会の讃美歌…道の途中の地域のお祭りのダンス…世の中は楽しい音で満ちていると、あの人は思い出させてくれた。
いつものように思いついた曲を書きだし始めても、ニコニコしながら待っていてくれる。一緒に行ったレストランで、俺を待っているうち閉店時間になってしまったこともある。
「そうですね、ふふっ、ミューズに会えたんですよ。」
「ほお。先生のミューズなら、女神のように美しい人、でしょうね。」
支配人がうっとりと微笑みながらそう言う。
俺のミューズは…黒髪のお団子に眼鏡だけどね。




