空き続ける家
本件は、郊外に所在する一軒家に関する資料である。
築35年、相場より低価格で繰り返し売りに出されているが、十年以上にわたり契約が成立していない。
内覧を担当した不動産社員の失踪が複数報告されているため、弊社では当該物件を「0報」として分類した。
本文は、当該物件を内覧に来た人物の発言を元にした回想体験記録である。
——菱和不動産株式会社 調査資料部
物件資料の最初のページには、太字でこう書かれていた。
「築35年。日当たり良好。閑静な住宅街。価格は応相談。」
ページをめくると、簡易な平面図と、過去の内覧履歴が一覧になっている。日付の欄には赤いスタンプで「辞退」「保留」「連絡不能」の印がいくつも重なっていた。担当者のメモ書きは短い。「再連絡待ち」「体調不良」「別件優先」。紙の端は擦り減っており、何度も誰かの指が同じ場所をつまんだ跡がある。
間取りも広さも申し分ない。にもかかわらず、この一軒家は十年以上も売れ残っていた。
理由を尋ねても、不動産会社の担当者は曖昧に笑うばかりだ。
「まあ、立地が少し……とか、いろいろあるんですよ」
机上の名刺には、よくある屋号と「営業二課」の文字。無難なスーツに、磨き込まれた靴。形式上の欠点がないからこそ、言いよどむ間が目立つ。
俺は興味本位でその家を訪れた。
陽の少ない午後、白い外壁は乾いていて、ヘアラインのひびが均等に走っている。塗り直しはされているようだ。雨戸はすべて閉じ、雨樋に詰まりはない。庭は不自然なほど整っていて、砂利に足を下ろすと、均された面に足跡がくっきり残った。枯れ葉ひとつ落ちていないというより、落ちたはずのものが抜き取られている感じがした。
担当者が差し出したキーは重たく、シリンダーは最近交換されたばかりのように滑らかだった。玄関の鍵を開けると、湿りのない埃の匂いがわずかに漂った。新しい金属の匂いと古い木材の匂いが、廊下の空気の層で分かれている。
ドアが閉まる音が、必要以上に遠くまで響いた。外の生活音がぴたりと切れる。道路の車の音も、近所の犬の吠え声も、この家の中で一度吸い込まれてから遅れて戻ってくるような妙な反響がある。
廊下は静まり返っていた。薄い磨りガラス越しに、午後の白い光が細長く床を横切っている。足音を一歩立てるごとに、壁の石膏が微かに粉を吹き、空気が乾いた咳をした。
だが、誰もいないはずの二階から床板が軋む音がする。
ひとつ、間をおいて、もうひとつ。階上の重量が左右に移動する時の、あの規則性。風で鳴るならもっと軽い。これは、足の置き換えだ。
不動産担当者に視線を向けると、彼は苦笑した。
「風です。築年数が古いので……」
そう言いながらも、彼の額に汗が上がっては引き、喉仏が小さく上下するのを見逃さなかった。笑う口元と、固まった眼の焦点が一致していない。ポケットの中で鍵束が鳴り、彼の親指が自然と一本だけ鍵の頭に触れている──すぐ閉められるように。
リビング、和室、浴室。どこも普通だ。普通であることに力が入り過ぎている。リビングの角に置かれた量販店のルームフレグランスは新品で、フィルムがまだ付いている。浴室の排水口には髪の一本もなく、しかしシャンプーのボトルには輪染みだけが残っていた。人の欠片は消えているのに、人が居たという段取りだけが残されている。
ふと、廊下の壁にかけられたカレンダーに目を止めた。薄い紙が、画鋲の跡に沿っていくつも重なっている。めくられずに季節を越えた紙束は、重みでほんの少し斜めになっていた。
日付は十年以上前のまま。赤ペンで囲まれた日付が一つだけ残されている。丸は乱暴に描かれているのではなく、筆圧を変えながら何度もなぞられており、数字の周囲の紙はわずかに凹んでいた。
その日付は、俺の誕生日だった。
指先が冷える。理由のない一致ほど、説明できない。
視線を離そうとした瞬間、二階から音が落ちてきた。笑い声とも、声にならない呻きともつかない、音声の手前の生体の振動のようなもの。壁がそれをうまく翻訳できず、低い帯域だけが床に沿って這ってくる。
俺は思わず階段を見上げた。段鼻の木は真中だけ艶が抜け、踏まれた歴史をはっきり示す。手すりは拭かれているのに、支柱の陰にだけ灰色の埃が残っている。暗がりの先、階段の折れのそのまた奥で、視界の粒子が一箇所だけ濃くなった。目が物体を見つける前に、身体が「誰かがこちらを覗いている」と判断する瞬間がある。今がそれだ。
「今日はここまでにしましょう」
担当者が俺の腕を強く引いた。顔は笑っていたが、目は笑っていなかった。彼の手の温度が、あまりに現実的で、逆にこの状況が現実だと突きつける。踵を返すとき、二階の闇にわずかな白が浮いた。指? 目? 確かめる前に、廊下の照明がほんの一瞬だけ揺れ、音が止んだ。
外に出ると、庭の草木がざわめいた。風向きとは逆に、玄関脇の植え込みだけが内側へ撓る。ガラス戸に映る室内には、確かに人影が揺れていた。揺れ方が、呼吸のテンポと一致している。
だが玄関の鍵を閉めた瞬間、その気配はガラスの内側から外側へすべるように移動し、跡形もなく消えていた。鍵穴から遅れて、冷たい金属の匂いがひと呼吸ぶん遅延して鼻に届く。
門を出る前、担当者は振り返らずに言った。
「この物件、写真がいいんです。日が入る時間帯が短いのに、いつ撮っても明るく写る。誰かがカーテンを開けてくれてるんですかね」
冗談の形だが、声の底に濁りが残った。
数日後、不動産会社に連絡を入れると、あの担当者は「退職した」と告げられた。
電話口の女性は淡々と続けた。
「実は先週から行方が分からなくて……ご家族から警察に相談されているそうです」
受話器の向こうで、キーボードの打鍵が止まる。彼女は数秒間、何かを確認している気配を漂わせ、押し殺した声で付け加えた。
「すみません、内線に“さっきまで席にいた”って履歴が出るんですけど……おかしいですね」
俺はそれ以上何も言えなかった。
通話を切り、物件検索サイトを開く。あの家のページは、新着マークが付いたままトップに踊っている。写真は以前と同じ角度だが、ガラスの反射に、何かが増えているように見える。
更新日時は「本日」。価格は据え置き。紹介文の末尾に見慣れない一行が追加されていた。
「内覧はお一人ずつご案内いたします。※同行者の入室はご遠慮ください」
画面をスクロールすると、内覧予約のカレンダーが現れた。空き枠が多い。だが、俺の誕生日だけが、赤く囲まれていた。予約は不可。小さな注記が付いている。
「この日は先約が入っています」
俺はマウスから手を離した。部屋の空気が、家の廊下で感じたものと同じ層を作り始める。窓の外の音が一瞬、遠のいた。
ただ、あの家の物件情報が、今も“新着”として更新され続けていることだけが気がかりだった。
売れないからではない。売らせないのだ。関わった名を、ひとつずつ家の中へ連れていくために。
本物件に関しては、過去12名の関係者(不動産社員・購入希望者・契約事務員など)の失踪・死亡が確認されている。
最後に現地を訪れた弊社社員は、記録の末尾に次の一文を残している。
——「まだ誰かが住んでいる」
また、弊社の会長決裁印が付与された資料の一部には、通常の契約書では使用されない文言が見つかった。
「契約者は一名のみ。同行不可」
本件は調査継続の必要性が認められたものの、担当者の欠員により調査は停止。
分類「0報」として保管を続ける。
——菱和不動産株式会社 調査資料部




