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隣室の合唱

 本件「隣室の合唱」は、十数年前に弊社資料庫へ持ち込まれた断片のひとつである。

 原典は、当時の調査社員が夜間に記録した簡易メモと、回収された音声断片に基づいている。

 詳細な調査報告や裏付け資料は残されていない。

 そのため正式な“第一報”には至らず、現在も分類上「0報」に留められている。


 なお、同様の「隣室からの声」に関する報告は他地域でも散見されるが、本件と関連性があるかは不明である。

 社内では「過去の膨大な0報群」のひとつとして長らく放置されてきたが、一定数の社員が“特有の既視感”を訴えるため、ここに再掲する。


——編集担当 佐藤健司(調査資料部)

 それは、空気のひだに紛れ込むような声だった。

「……たすけて」


 時計の針は午前二時を指していた。秒針の律動に合わせて、部屋の暗がりは息を潜めている。

 俺は布団に潜り込む直前だった。テレビを消し、窓を閉め、静寂を確かめてから眠りにつこうとしたはずなのに——壁の向こうから掠れた囁きがにじみ出してきた。


 築四十年の安アパートは壁が薄く、かつての住人が流す低音のビートや、笑い声がそのまま響いてくることも珍しくなかった。だが、これは違う。音楽でも談笑でもなく、泥を噛み潰したような湿り気を帯びた「声」。


「……たすけて、ください」


 思わず身体が強張った。反射的に壁へ手を伸ばし、掌を当てる。ひやりとした温度が骨を刺すように伝わる。まるで壁そのものが呼吸をしているかのように微かに震えていた。

 返事をしようか迷った瞬間、声はぴたりと止んだ。残されたのは時計の秒針の音だけ。



 翌朝、管理人に訊ねた。

「隣の部屋……昨夜、誰かいましたよね?」

 老人は鍵束を弄びながら、怪訝そうに目を細める。

「隣? 十年前から空き家だよ。事故があって以来、誰も入ってない」


 言葉は淡々としていたが、その響きは妙に冷たかった。

 俺の背筋に氷の筋が走る。確かに聞いたのだ。幻聴ではない。あの「助けて」は、たしかに耳を震わせた。


 昼間の街を歩いても、昨夜の声が頭に残って離れなかった。耳鳴りのように「たすけて」が繰り返される。仕事の会話も、駅のアナウンスも、遠くの笑い声も、すべてが薄皮を隔てた向こう側から聞こえてくるような気がした。


 夜が来るのが怖かった。結局、居酒屋で時間を潰し、帰宅は午後十一時を過ぎていた。



 鍵を回す指が汗で滑った。ドアを押し開けると、埃っぽい空気が肺を圧迫する。床板が軋み、古い木材の匂いがまとわりつく。

 照明を点けた瞬間、ようやく緊張がほどけた。安堵の息を吐いたその刹那——。


 机の上のスマホが甲高い着信音を響かせた。

 表示された発信者は、俺自身の番号。


 震える指で画面をスライドする。耳に押し当てた刹那、昨夜の声が甦った。

『……たすけて……ここから……だして……』


 声は掠れ、遠くから漏れ出すように響く。だが次第に、その調子が変わっていった。

 湿った女の声は、ゆっくりと俺自身の声に重なっていく。


『聞こえる? はやくたすけて……』


 肺が収縮し、呼吸がうまくできない。

 電話の向こうと、壁の向こうで、同じ呼吸がぴたりと重なっている。

『……昨日も、この言葉を聞いてたよね……?』


 その瞬間、壁が膨らみ、乾いた木が軋む音がした。

 視線を逸らせば、継ぎ目の部分が微かに波打ち、今にも裂けそうに見える。


 スマホを握る手が震える。受話口からは、俺自身の吐息が流れ込む。

 次の瞬間——。



 壁の奥から、数十の声が噴き出した。

『たすけて』『だして』『ここから』『かわれ』『はやく』『まだ?』『おそい』『きいてる?』『だして』『どこ?』『くらい』『いたい』『まだ?』『ねえ』


 性別も年齢も揺らいだような、無数のバリエーションを持った「女」が、壁の中で合唱していた。

 低音、高音、嗄れ声、囁き声——あらゆる声質が渦を巻き、狂った聖歌のように重なり合う。


 耳を塞いでも意味はなかった。壁の内側だけでなく、床下、天井、押し入れの隙間からも同じ声が湧き出してくる。

 スマホの受話口が、最後にひときわ明瞭な声を発した。


『——つぎは、おまえの番』


 通話は途絶えた。だが壁の合唱は止まらない。

 むしろ増えていく。

 ひとつ、またひとつ。

 そして、後ろを振り向くと……



 部屋は、数え切れない「女」の顔で満たされていた。


 本資料をまとめる過程で、当時の原稿には多数の欠落や記載の矛盾が確認された。

 特に、通話記録の文字起こしについては「自分の声と他者の声が混在していた」との注釈が複数残されている。

 原稿整理を行った社員の中には、夜間に同様の“合唱”を聞いたと証言する者も存在するが、公式な裏付けは得られていない。


 結果として本件は、未だ「0報」の分類を越えることはできなかった。ただし弊社資料部の棚には、類似の「0報」が膨大に積み上がっており、それらの間に散発的な共通点が見受けられるのも事実である。


 本稿を読まれた方が、万が一似た現象に遭遇された場合には、必ず弊社へ“続報”をお寄せいただきたい。


——菱和不動産株式会社 調査資料部

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