誰もいない教室
窓から差し込む夕陽が綺麗だった。人の気配は感じられない、私一人だけの静かな世界。
私は教室の真ん中の席に座って、自分の傷だらけの手を見つめながら、ただぼーっとして時間が過ぎるのをまっていた。
ふと顔をあげると、窓際の席に、一冊のノートを大切そうに抱えた女の子が座っていた。私は驚きのあまり叫んでしまいそうになったが、彼女が静かに座っているのをみて、なんとか声を押し殺した。
彼女はふんわりとした笑顔で、膝に乗せたうさぎのぬいぐるみをやさしく撫でている。
「……動物って、ほんとうにかわいい。わたし、ずっとこうやって大事にしたいって思ってたんだ。」
突然喋りだしたことに、普通は驚くはずなのに、彼女の声は穏やかで、聞いているだけで心がやわらかくなる。
けれど、そっと目を伏せて、ぽつんとつぶやく。
「やさしくなりたかったの。誰かのやくに立ちたかった。でも……だれも気づいてくれなかったの。」
そういうと彼女は私の方へ振り返った。
夕焼けが彼女の輪郭を淡く染めていく。
「それでも、あなたに会えてよかった。やさしい気持ち、伝わったかな。」
そう言って、静かに微笑みながら、消えていった。
今度は教室の隅に、おとなしい男の子がひっそりと座っていた。視線は机の上、無表情で、そこにいるのかさえわからないほど。
彼はただ静かに、何も言わずに時が過ぎるのを待っているようだった。
ふと、小さく唇が動く。
「……本当は、気づいてほしかったんだ。」
声はかすれて、今にも消えてしまいそうだった。
「でも言えなかった。助けて、って。全部自分の中に閉じこめて……気づいたら、何も感じなくなっちゃった。」
彼は誰かの目に自分が映ることを願いながらも、うまく声にできなかった。
静寂の中、彼の姿もふっと淡くなり、先程の女の子のように、いつの間にか消えていた。
廊下から楽しげなリズムを刻んでいる足跡が聞こえた。ガラガラとドアが開いて、パッと明るい光のように、一人の少女が教室へ飛び込んできた。
彼女はくるくると踊るように歩き、主人公の目の前でにっこりと笑いかける。髪がふわりと揺れて、まるで春風のように教室を包み込む。
「ねえ、ここ、すっごく楽しいね! なんでもできそうな気がするよ!」
その声は無邪気で、周りを明るく照らすようだった。
だけど、ふと足を止めて、窓の外を見つめる。
「本当はね、わたし……ずっと自由になりたかったんだ。」
いつも元気な彼女の表情に、ほんの少しだけ影がさす。
「好きなことしたり、好きなとこへ行ったり、思いっきり笑ったり。でも……どうしても誰かの顔色を見ちゃって、じぶんを止めてしまうの。」
そうつぶやくと、また明るい笑顔を浮かべて、スキップのように教室を巡る。
「いつか、本当の自分で、思いっきり飛び跳ねられたらいいな!」
彼女は柔らかな光の中へ溶けるように、弾む足取りで消えていった。
また、教室の扉がゆっくり開き、小柄な少年が姿を現した。
大きな目がきょろきょろと周囲を見て、かわいらしい声で「こんにちは」と小さく挨拶する。まるで、年下の弟のようなあどけなさがあった。
少年は主人公の袖をそっと引っぱる。
「ねえ、一緒にいてもいい?」
その声音には、どこか不安げな色が混じっている。
「ぼく、一人だとさびしくて……ほんとは、誰かにそばにいてほしいんだ。」
彼はそれをうまく隠そうとして、明るく振る舞う。でも、ふとした拍子に寂しそうな顔を見せる。
「がんばって強くなろうって思ったけど……やっぱり、だれかに守ってもらいたかった。」
少年はちょこんと主人公の隣に座り、小さな手でぎゅっと袖をつかむ。その手はすこし震えていた。
やがて教室に優しい光が差し込むと、少年の表情が少し柔らかくなった。
「もし、そばにいてくれたら……それだけでうれしいんだ。」
彼の声は小さいけれど、本当の想いがこもっていた。
彼も、瞬く間に消えていた。
教室のドアが静かに開き、今度はメガネをかけた整った身なりの少年が入ってきた。手には分厚い参考書。彼は真っすぐ背筋を伸ばし、几帳面な動きで席に座る。彼も突然話し始めた。
「僕はずっと、がんばってきたんだ。誰よりも成績を上げて、ミスもせずにふるまって……」
そう言いながら、彼は参考書を見つめる。少しだけ唇をかみしめている。
「本当は、ただ――誰かに認めてほしかっただけなんだ。『すごいね』って言ってもらいたくて、がんばり続けて、それが僕の全てになって……」
声はだんだん細く、震えていった。
「でも、どれだけやっても満たされなかった。わかってくれる人は、いなかったんだ。」
静かな教室にページをめくる小さな音だけが響く。
淡い光のなか、少年はそっと微笑み、参考書とともに消えていった。
また教室のドアが勢いよく開いて、女の子が入ってきた。短く切った髪と、真っ直ぐこちらを見つめる自信に満ちた瞳。彼女は足音を立てながら、私のすぐ隣の席に座った。
「私はね、弱く見られるのが大嫌いなの」
彼女は、机を指でとんとんと叩きながら言う。
「本当は……ずっと、誰かに分かってほしかった。強がることでしか、自分を守れなかった。」
言葉の端に、ふと寂しげな色がにじむ。
「ねえ、あなたなら、私のことちゃんと見てくれる?」
彼女は私の瞳を不安げに見つめた。夕焼けが彼女の顔を柔らかく照らす。
「ありがとう。少しだけ、楽になれたかも。」
そう呟いて、彼女は席をたって、教室から消えていった。
次に現れたのは、すこし癖毛の男の子だった。彼はすこしだけ哀しそうに笑みを浮かべた。
「ねぇ、実はさ……僕、本当は友達がほしかったんだ。」
男の子は笑顔のまま、ぽつりとつぶやく。
「みんなにすごいねって言われたくて、明るくふるまってた。でも、気づいたらひとりぼっちだったんだ。」
外で遊ぼうって言っても、誰も一緒に来てくれなかったこと。自分が楽しいフリをするほど、空っぽになっていったこと。
彼は小さく手を振る。
「でも、ここに来られてよかった。君がいてくれたから。」
夕焼けの光の中、男の子の姿がふわりと薄れていく。
「バイバイ」
静寂の教室に、彼の笑顔だけがやわらかく残った。
教室の空気が、ふっと静かになった。
窓からはうっすらした光が差し込み、椅子や机の影を床に長く映している。しばらく何も起きないような、時間の隙間に取り残されたような気分。
やがて、ふと感じる。誰かの視線。
その瞬間、私は驚愕した。
顔を上げると、そこに「自分」が立っていた。
鏡を見るように、そっくりな顔。髪も背丈も、指先のクセまでも同じようだった。でも、その目だけは違った。深い寂しさと、なにか強い憧れを湛えていた。
「……こんにちは」
彼女はゆっくり口を開く。その声も自分と同じはずなのに、どこか懐かしくて、やさしい響き。
「会えて、うれしいな。あなたと、話したいことがたくさんあるの」
そう言って、彼女は教室の隅の椅子にそっと腰かけた。
沈黙のあと、彼女はぽつりとつぶやく。
「ちいさいころ、私はずっと待ってたんだ。ぎゅっと抱きしめられるのを。微笑みかけてもらうのを……『大丈夫だよ』って、ただ言ってほしかった」
彼女は机の上で指を組み、少し恥ずかしそうに視線を落とす。
「がんばれば、きっと好きになってもらえるって思った。いい子にしてたら、ほめてくれるって信じてた。だけど……うまくいかなかった。どうしても、こころの中がさびしいままだった」
自分が何も言えずにいるのを感じる。それでも彼女は、穏やかな瞳で続けた。
「でもね、本当はあなたに気づいてほしかったんだ。
どんなに明るく振る舞っても、なにかに一生懸命でも、心の奥にはずっと『愛されたかった』って気持ちがあったって。
ただ、抱きしめてほしい、守ってほしい、それだけだった、って」
ずっと前から心の奥底にあった、自分でも気づかないふりしていた思いが、目の前の彼女の口から流れてくる。
「大人になっても、強くなっても——それは消えなかった。
私はあなたの中に、今も残ってる。もう一度、あのときの自分をぎゅっとしてあげてほしい。
そうしたら、きっと少しだけ優しくなれると、私は思うの」
教室の外から、小鳥のさえずりが聞こえてきた。
「ありがとう、話を聞いてくれて――」
彼女は微笑み、ゆっくりと教室をあとにする。その背中は、ほんの少しだけ、あたたかい光に包まれていた。
そして、静かな教室にひとり残された。
夕陽が斜めに差し込んで、床や机の上に長い橙色の影が延びて、世界が静かに終わろうとしているようだった。主人公はひとり、椅子に座っている。
教室には、もう誰もいなかった。
大人しい男の子、真面目な優等生、強がりな女の子、優しい女の子、弟のような男の子――
そして、私とそっくりな容姿をした女の子。
彼らは、先ほどまで教室に漂い、私のすぐそばにいたはずなのに、いまは跡形もなく消えてしまっていた。その存在の残り香だけが、空気の中にわずかに揺れている。
静寂だけが私の周囲に広がる。
ぼんやりと立ち尽くし、机にそっと手をのせたまま、ここにいた“彼ら”を一人一人思い浮かべる。
みんなみんな、気付けば私だった。
喜びも、悲しみも、弱さも、寂しさも、彼らが受け持ってくれていた。
わたしはそっと目を伏せて、小さく呟いた。
「こんなふうに分かれてしまったのは、自分が弱かったからだ…」
涙が出るほど胸が痛い。
頼ることさえ出来ず、助けてと言えず、「自分でなんとかしなきゃ」と思い詰めて、
結果、自分を守るために心をわけてしまった。そうするしかなかった。でも、それだけが残酷な結果を生んだ気がした。
みんな消えてしまった後の静けさに包まれながら、心の奥底には空っぽの穴が生まれる。
誰かに迷惑をかけているという罪悪感、
何もできない無力感、
感情の嵐を一人で抱え込んできた絶望。
「全部なかったことにしたい」――心からそう願っていた。
(全部消えてしまえば、楽になれる…)
誰にも届かない声で、そっと心の中の願いを口にした。
「……消えたい。せめて、全部なくなれば…ごめんなさい…」
教室の中の色や形が静かに溶け始める。
床も、天井も、壁も、私の輪郭も、やがてすべて“無”の中へと溶け込んでいく。
心の中で、不思議と安堵のような静けさが広がる。
孤独も、痛みも、偽りの強さも、いまはもう、何も感じない。
こうして、私は静かに、何もかもを手放していった。
最後に残ったのは、なにもない、しんと静かな「無」だけだった。