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蒸甲機〈春時雨〉  作者: 押本詩
第一章
4/6

 三月末。開戦から一か月近くが経過した段階で、各戦線が一挙に崩壊した。

 当初の想定より攻めあぐねていた徳川方は、周辺大名へさらなる動員令をかけていた。これが功を奏した形である。美園が死守、あるいは奪還していた駅と要害は次々に制圧され、撤退を余儀なくされた。

 徳川の軍勢は、すでに桜木城へ迫っている。残った戦力を結集させた美園であったが、すでに負け戦であることを誰もが知っていた。

 

 

 日がとうに落ちた頃に、時雨もまた、桜木城へ戻ってきていた。春深と四年ぶりに言葉を交わた後、すぐに戦場に立ち己が力の全てで敵を退けようと試みたが、それは無為に終わった。

 城内の広場で周囲を見渡せば、戻ってきた〈春風〉はどれもが満身創痍の有様であった。腕がもげている機体、脚を失いもはや立つこともできない機体、風防が割れて中の座席が赤く染まっている機体……。その無残な姿が、瓦斯灯に照らされている。

 時雨の〈春風〉も、さして変わりはない。蒸気砲は逃げる途中で腕ごと失ってしまった。駆動系の不具合か、頭部の補助解析機を喪失したせいか、真っすぐ歩くこともままならない。ここまで持ちこたえたのは幸運だった。

 これでは、いつ転倒してもおかしくない。〈春風〉の膝を地につけ、梯子を下ろして時雨は機体を降りる。ここ数日は通り雨が多いせいで地面はぬかるんでおり、地に足をつけると泥が大きく跳ねたが、時雨は気にもせず目的の場所へ向かった。

 そこで時雨のなすべきことは二つある。

 一つは、春深との約束通り、〈春時雨〉を受け取り西へ逃れること。

 もう一つは、約束を違えて、春深をここから連れ出すこと。

 そう。春深を見捨てるつもりなど、時雨には毛頭なかった。

 胸は、ひどく痛む。

 これは美園家への裏切りでもある。時雨は、美園に拾われた子だ。恩もある。忠義もある。叶うことなら、運命を共にしたかった。故に美園を守り抜くために今日まで戦ったが、もはやこれまで。

 時雨にとっては、春深の方が遥かに大切なのだ。恩も忠義も、姉様のために喜んで投げ捨てられる。

 そんなことをすれば、春深には嫌われてしまうだろうが、元より報われようとは考えていない。生きていてくれさえすれば、それで十分なのだ。

 自分は何のために花守になったのか。姉様を守るためだ。妹として。他になすべきことは何もない。

 辿り着いた格納庫群は、城内のどこよりも騒々しかった。中も外も蒸甲機と技術者で溢れかえり、まさしく戦場のような様相を呈している。

 その中の三番格納庫に〈春時雨〉が運び込まれ、ここで春深から鍵を受け取る手筈であった。

 しかし、どこか様子が変だ。扉の前まで来て、その違和感はさらに大きくなった。

 静かすぎる。人の気配さえ感じられない。不穏な空気さえ、時雨は感じ取っていた。近頃は暖かくなってきたというのに、冷気が首を撫でた気がした。

 本当に、ここで姉様が待っているのか?

 怯む脚を無理やり動かして、中へと入る。

「姫様、いらっしゃるのですか? 時雨です。ただ今戻りました」

 返事はない。夜だというのに、灯りさえ点けられていなかった。

 そこに在るのは、たった一機。

 広く暗い、しん、と物音一つしない空間に、鋼鉄の人形が寂しげに佇んでいた。〈春時雨〉と、左肩にはそう記されているのが、夜目のきく時雨には分かる。春深が全霊をかけて造り上げた、唯一無二の蒸甲機。

 しかし、春深の姿はどこにもなかった。

「姫様……姉様、どこに、どこにいらっしゃるのですか!」

 思わず声を張り上げていた。何か得体の知れない焦燥感に駆られてのことであったが、虚しく響き渡る己の声のせいで、余計に不安になってしまう。

 と、その時だ。

「時雨様」

 突如、背後から声をかけられた。

 春深のことで頭がいっぱいであったから、ふいのことで心の蔵が大きく跳ねた。反射的に振り向き、相手が見知った顔であると分かってようやく、時雨は安堵の息をこぼした。

 造花衆の技術者である。確かな腕を持ち、春深からの信頼も厚い女だ。名を初穂という。時雨も幼い頃は、よく遊び相手になってもらったものだった。

 しかし安堵も束の間、時雨は凍り付いた。

 造花衆らしく、初穂はつなぎを身に纏っている。

 それが、夥しい量の血に濡れていた。

 力が抜けたように、初穂がふらりと倒れこむ。体が地に落ちる前に、時雨は慌てて駆け寄って、初穂の体を支えた。

「初穂さん、初穂さんっ! どうして……」

 狼狽する時雨であったが、初穂はすぐに目を開けた。

「申し訳、ございません。時雨様のお姿を見たら、安心してしまって……」

「そんなことより、早く治療を」

「不要です。これは、私の血ではありませんから……」

 え、と時雨は虚をつかれる。だが確かに、よく見れば初穂自身が傷を負っているわけではないようだった。

 これはまるで、誰かの血を浴びたような……

「初穂さん」

 嫌な想像が浮かぶ。振り払うように、時雨は訊いた。

「姫様は、今どこに」

 返ってきたのは、鉛のように重い沈黙であった。言わねばならぬことがあるが、どう言葉にすれば良いか分からない。そういった表情が、初穂の面に浮かんでいる。

「姫様は……」

「これを」

 遮るように、初穂が何かを差し出してきた。

 金属製の、所々に凹凸のある棒状の物体が、掌に載せられている。

 それが何であるか、時雨にはすぐに分かった。

〈春時雨〉の鍵だ。

 鍵を手に取り、訊いた。

「何故、これを、初穂さんが」

「わたくしのことは忘れて早くお行きなさい。そう、姫様から言付かっております」

 一瞬で。

 一瞬で、時雨は我を忘れた。

 加減もせず、初穂の肩に掴みかかる。

「姉様は!」

 悲鳴のように叫ぶ。

「姉様は! 今、どこに!」

 頭のてっぺんから足先までが燃え上がっているようであった。今にも泣きだしそうなのに、そのせいで涙が沸騰したかのように何も出てこない。

 答えぬのなら殺す。そう告げるように睨みつけながら、何度も初穂の肩をゆすった。無我夢中であったから、初穂の方こそ涙を流していることに時雨は気づかない。

「……組み立て場に」

 時雨の動きが、ぴたりと止まる。

 初穂は、嗚咽を噛み殺しながら続けた。

「組み立て場です……〈春時雨〉の研究資料を破棄している時に、突然、襲撃があって……みな、殺されて……私も……ですが姫様が、私を、かばって……私を逃がして、鍵を時雨様にと、私に託して……奴らは〈春時雨〉には気づいていないからと、今もお一人で……」

 時雨は駆けだした。「姫様を、どうか、どうか、お救いください!」と、背後で初穂が叫んでいる。応じる余裕さえなかった。時雨は花守である。体力など余るほどある。だというのに、息の乱れが収まらない。

 格納庫で働く技術者たちは、この事態に全く気づいていないようだった。誰も彼もが、己の役目を果たすのに精一杯であった。血に濡れた初穂と多くの者がすれ違ったはずだが、この混乱の中では目に留まらないのも無理はない。

 ならば――どうかお救いください。言われるまでもなく、それは時雨の役目であった。


 組み立て場に入ってすぐ、時雨は目を見張った。

「なんてことを……」

 いくつかの死体が転がっていた。みな斬られ、血を流している。息のある者がいないのは、一見して明らかであった。大半が造花衆の技術者だったが、中には警固の者も混ざっている。そのそばには、剣が展開された蒸気銃が落ちていた。これで応戦したものの、力及ばなかったのだろう。充填蒸気がやや心もとないそれを拾い、時雨は奥へと進んだ。一人ひとり弔ってやりたいが、そんな暇があるはずもない。

「姫様! どこですか、姫様!」

 時雨は、わざと大きな声を出した。襲撃者がまだ残っている可能性は高い。執拗に春深を追っているはずだ。なら、その目を自分に向けさせなければ。こっちを見ろ。姉様を傷つけるのは許さない。お前の相手は私だ。姿の見えぬ敵にそう告げるべく、時雨は叫び続けた。

 時雨の狙いは当たった。

 煩雑な施設内にあって、とりわけ狭く、いかにも敵が隠れ潜むには最適そうな区画に入った直後、ふいに背後の気配を察知した時雨は、咄嗟に大きく飛び退いた。

 狭い場所であるから、何かの機械に勢いよく体をぶつけてしまう。だがそうしなければ、先ほどまで時雨がいた空間を裂いた、恐ろしい斬撃の餌食となっていた。

「ちっ」

 と、舌打ちが聴こえる。その主の姿を見て、時雨は唸った。

「機甲忍び……」

 異様な出で立ちであった。濃紺の野良着をまとい、覆面で顔を隠しているところを見るに、おそらくは忍びなのだろう。夜闇に紛れての襲撃は連中の得意分野である。しかし、こいつはただの忍びではない。肩から先と腿から先が、明らかに人間のそれではなかった。生々しさを欠いた金属が、夜を灯す火を照り返している。その腕と脚は、背に負った機械につなげられているようだった。しゅっしゅっしゅっと音を立てているから、低出力の汽罐と見て間違いないだろう。

 体の一部を蒸気駆動の機械と化した、徳川の機甲忍びたち。

 まさか実在していたとは、と驚くのも一瞬、時雨は立ち上がり、そいつへと躍りかかった。銃剣を展開し、そいつの機械化されていない、いわば弱点とも言える肉体へ突き刺さんとする。だが機甲忍びはその攻撃を躱し、時雨の背後へと回った。生身の時雨には、信じがたい脚力であった。たったっ軽く地を踏んだだけで、即座に背後をとられてしまう。

 驚愕しながらも、時雨はどうにか体を捻り、繰り出された斬撃を受け止めた。だが衝撃を殺し切れず、後方へ弾き飛ばされ、またしても体を打ちつけてしまう。そして痛みに悶える暇もなく、次の攻撃が来た。座ったままの体勢で、上からの斬撃を受け止める。体重をかけられる不利な状態。まして相手は、蒸気の力を腕力とする敵である。時雨の命を刈りとらんとする刃が、じりじりと確実に迫ってくる。

 と、そのとき、機甲忍びが口を開いた。

「春深姫は、どこだ」

「なに?」

「春深姫はどこだと、訊いている」

 ざらついた声に、時雨は不快感を覚えた。

 やはり、こいつは春深を追っている。ここで仕留めなければならない。

「もう一度訊く。春深姫はどこだ。答えれば、命は助けてやろう。お前も、春深姫も」

「……それを、信じるとでも?」

 こうしている間にも、刀身が次第に沈んでいく。時雨に残された猶予を、指折り数えているようであった。

「嘘ではない。我らは春深姫を、春深姫の技術を欲している。我らに従順であれば、良い暮らしも約束されるだろう」

 それを聞いて、時雨は合点がいった。この襲撃の目的は殺戮ではない。造花衆の優れた技術者を――春深を拉致することが、連中の狙いだった。そもそも、この戦自体、美園家の蒸気技術を奪い取るためのものである。であれば、特に欲した技術者を確保せんと、先んじて忍びを放った理由も見えてくる。負け戦と判断した美園家が、技術者たちを秘密裏に逃がそうとする前に。もしくは逃げることさえ諦め、技術が流出せぬよう自害を命じる前に。大きな戦を起こし、最も欲したものを得られないという事態を、徳川は恐れたのだろう。

 時雨は、怒りで我を忘れかけた。同時に、美園家の理念に心から共感した。

 身勝手な戦、殺戮、簒奪。このような者たちに、全てを渡してはならない。

「春深姫も、愚かな女だ。我らに大人しくついてこれば良かったものを。あんな、どうでもいい女など庇いおって。死なれては、これでは俺が咎めを受けるではないか。どうなんだ? 春深姫は、ちゃんと生きているのか?」

 時雨の目に、憎悪の炎が灯る。


 自らの手で人を殺したのは、はじめてのことだった。時雨は蒸甲機の操士であるし、そもそも美園家が百年近く戦をしていなかったのだから、そんな機会はなくて当然だ。

 そして今、美園家は戦をしていた。

 刺す、引き抜く。刺す、引き抜く。刺す、引き抜く。

 それを何度繰り返したか、もはや分からない。

 無我夢中だった。でなければ、やられていた。大量に浴び、搭乗着を赤く染めた血は、もしかすると自分のものだったかもしれないのだ。

 何度目かのとどめを刺して、時雨はふいに、機甲忍びがもはや息絶えていることに気づいた。機械化されていない、人間の肉を刺し貫く感触が、生々しく脳裏によみがえる。

 吐き気を催しながら、しかし時雨は、よろよろと立ち上がった。

「姉様……」

 急がなければ。

 朦朧とした意識を支えたのは、その一心であった。

 ――どうなんだ? 春深姫は、ちゃんと生きているのか?

 機甲忍びが言ったことが、時雨を不安にさせる。

 初穂のつなぎを染めた血が、誰のものか考えたくない。

 探し回る間、時雨は春深との思い出を見ていた。

 姉様。

 姉様。

 姉様。

 幼い頃、優しく手を引いてくれた。

 姉妹仲良く、疲れ果てて眠ってしまうまで遊んだ。

 桜の木の下で、誰よりも大切な人への恋心を知った。

 そしてこれは……何だろうか。記憶になかった。覚えているどの姉様より小さな……いや、これは確かに自分の記憶であった。自分を、やはり桜の木の下で救ってくれた時の…………。

 まるで走馬灯のようであった

 どうしてこんなものを見るのか。

 自分はまだ、生きているというのに。

 これからも、姉様と共に生きていくというのに。

 ――時雨。

 ふいに春深の声が聴こえた気がして。

 時雨は、その方向に視線をむけた。

「…………あぁ」

 眼前の光景に、時雨は立ち尽くす。最初に発したのは、言葉にならない呻き声であった。

 さあっと、頭の熱が引いていく。まるで春の時雨が、燃え盛る炎を鎮火させてしまったようであった。

「あぁ、あぁぁ……あ、あ、あぁぁぁ、姉様ぁぁぁあ!」

 辺り一面、血の海であった。

 そこに、春深が沈んでいた。大きな機械に背を預け、顔を蒼白にしてぐったりしている。

「姉様! 姉様!」

 憑りつかれたようにそれだけを叫んで、時雨は春深のそばへ駆け寄った。

 もはや思考は形を成さなかった。

 なんだ。

 なんだ、これは。

 わけの分からぬまま、時雨は必死に呼びかけた。すると、虚ろであった春深の目に、僅かながらも光が戻った。

「……時雨」

 涙が流れる頬に、血に濡れた春深の手が、穏やかに触れた。

「姉様っ。しか、しっかりしてください。今血を止めます。大丈夫ですから、姉様は、助かりますから。私が――」

「時雨、もう、良いのです」

「そんな、姉様……」

「わたくしは、役目を、終え、ました。後は、あなたに……」

 春深の顔が苦痛に歪んだ。

「そんなことを、そんなことを言わないで、姉様、お願いだから……」

「時雨、最後に、一つだけ」

 春深の声がかすれていく。まるで命の灯が消えていくように。

「わたくしは、時雨が、大好きですよ。時雨は……」

 時雨の懇願も聞き入れず、春深は話し続けた。

「時雨は、わたくしを、嫌いになってしまったの?」

 何かが壊れる音がした。

 それはきっと、決して失ってはならないものであった。

 ああ。

 自分は、なんということを。

 時雨は己を呪った。

「違います、姉様。そのようなことは、決して、私は、姉様を……」

 この期に及んで、時雨は言い淀む。

 しかし、言わねばならない。

 自分が姉様を嫌うなどあり得ないのだと。

 違うのです。

 そうではないのです。

 もはや別れの避けられない姉様に、伝えねばならない。

 こんなことになるのなら。

 最初から伝えていれば良かった。

 春深の手は、決して時雨の頬から離れない。幼い頃から繋いできた、その愛しい手に、時雨は自分の手を重ね、告げた。

「私は、姉様をずっと、お慕いしていたのです」

 姉様としてではなく。

 言わずとも、全て伝わったのだろうか。

 あるいは、ただ姉妹の愛情を信じてくれたのだろうか。

 春深は安堵したように、あの優しい笑みを浮かべた。

「よかっ、た……」

 最後にその言葉を遺し、春深の体から瞬く間に力が抜けていった。


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