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蒸甲機〈春時雨〉  作者: 押本詩
第一章
3/6

 豊正三年、すなわち大坂夏の陣より百年が過ぎてなお、この国が統一される未来は夢想でしかなかった。

 家康の果たせなかった天下安寧のため躍起になり、繰り返し西への侵攻を試みる徳川方。

 かつて先祖が滅亡の瀬戸際まで追い込まれた愚を二度と犯すまいと、慎重な政権運営を重ねながらも、徳川方の侵攻に対して一歩たりとも譲歩しない豊臣方。

 西の関白家か、東の将軍家か。

 西国は元より豊臣寄りであった大名が多く、東国は夏の陣で敗れたとはいえ将軍家の権威がなお堅牢であったため、この色分けは概ね円滑に進んだ。

 抵抗勢力も、あるにはあった。豊臣に対しては、西国で僅かに配された徳川ゆかりの大名たちが、徳川に対しては、かねてより徳川家に不満を抱き、あるいは虎視眈々と己が天下をとる機会を伺っていた外様大名たちが、その代表的な例と言えるだろう。

 しかし、彼らには蒸甲機がなかった。

 徳川・豊臣は、大坂の陣の後、僅か数か月で蒸甲機を量産し、実戦投入する体制を整えていた。東西の各地に工廠ができ、機体が次々に出荷され、さらには修練を経た操士たちが、自らの数倍は大きな巨体を自在に操るようになっていたのだ。蒸甲機がそれまでの常識を覆す未知の兵器であることを思えば、不自然なほど早すぎる転換であった。

 蒸甲機の圧倒的な力の前に、大半の抵抗勢力があっけなく鎮圧された。

 ある東国大名を除いては。

 夏の陣の際、徳川方に助太刀した蒸甲機の一団――その半数近くは、彦根城への撤退後に、秀忠に連れられる形で江戸へ送られている。このうちの一部が離反したのは、そうした道行きの途上であった。彼らの近くを歩いていた者たちは、みな一様に突然の出来事であったと証言している。

 彼らの動機は今もって不明だが、行先は確かであった。

 それこそが、時雨が仕える美園家の所領である。

 美園家は東国に領地を持ちながら、徳川家と付かず離れずの絶妙な関係を保っていた、当時数少ない大名家だ。大阪の陣に際しても、何かと理由をつけては兵を出し渋り、最後には折れたかと思えばまた理由をつけて遅参していることが、いくつかの記録に残っている。露骨に逆らえば滅ぼされるが、かといって徳川が天下をいいようにすることに、内心では好意的でなかったことが伺える。東国において、徳川から離反した彼らが頼る先は、美園家をおいて他になかったとも言えよう。

 突如訪れた謎の一団に、美園家は寛大であった。彼らを保護し、徳川・豊臣と同様に蒸甲機を軍制へ組み込んでいくその速度は、むしろ東西両家より速かったとも言われている。

 かくして美園家は、いかな徳川家といえども迂闊に手出しできない勢力となった。

 加えて、如何なる理由によるものか、美園の技術力は徳川のそれを大きく上回っていた。徳川方も少数の蒸甲機隊を編成し、二度の侵攻を試みたが、どちらも見事に撃退されている。

 かといって、大部隊を編成することも難しかった。当時の徳川方としては、一刻も早い大坂再侵攻を行いたかったからだ。豊臣家が息を吹き返すのみならず、大坂城の経済力にものをいわせ徳川方を凌駕する前に、という思いがあったのは間違いない。徳川方が構築した量産体制は、黎明期としては驚嘆に値するがまだまだ未熟であったから、一大名に割ける戦力はそれほど多くなかったのだ。

 やがて両陣営の衝突は現実のものとなり、美園家は見逃されることになる。以降百年、東西の対立は解消されず、美園家も独立した地位を保ってきた。

 だがここに来て、徳川方は方針を変えた。

 豊臣方と比較しても技術力の差はひらく一方であり、いずれ徳川方が劣勢になるのは目に見えている。今この時、どうにかせねば。その焦りが、此度の事態を招いた。美園家が抱える蒸気技術を、徳川方は欲したのだ。

 豊正三年、三月。ついに徳川の軍勢は美園領へ侵攻を開始した。

 全方位を囲まれた美園の軍勢は、精鋭の蒸甲機隊・花守衆を中心に当初こそよく持ちこたえていたが、数の力は絶大であった。戦況は徐々に悪化し、戦線は桜木城へと迫りつつある。

 そのような状況下にあって、駅の奪還に成功したばかりの時雨は突如、桜木城への帰還を命じられた。


 この戦において、時雨の働きはめざましいものがあった。時雨が参加した作戦では、その悉くにおいて占領された地の奪還に成功している。

 かの駅を奪還できたのも、ひとえに時雨の存在あってのことだ。〈天武〉五機の撃破という偉業を成したことで、時雨の〈春風〉は、この戦場で畏怖の念を一身に向けられている。

 なればこそ、この段階で突然、時雨が桜木城に呼び戻されたのは不可解であった。本来ならば、休む間もなく新たな戦場に出向くべきだというのに。

 呼び出された先は、造花衆が桜木城内に与えられた工廠区画であった。

 造花衆とは、美園家に仕える蒸気技術者の一族だ。〈春風〉もまた、ここで造花衆が建造した蒸甲機である。

「久しいですね、時雨」

 区画内にある板張りの一室で、本当に久しぶりに顔を合わせた姫様は――春深はるみ様は、昔を懐かしむような笑みを浮かべて言った。つなぎを纏ったその姿は、配管だらけの武骨な工廠内なのだから当然の装いではあるものの、しかし大名家の姫としては些か華やかさを欠いているようにも見える。だが、これが春深の正装だった。

 春深は、現当主・春俊はるとしの長女であると同時に、造花衆の蒸気技術者でもある。春深だけではない。春深の母も、祖母も、曾祖母も同じだった。

 そういう家系なのだ。春深の、母方の家は。

 百年前、この国に蒸甲機がもたらされて以来ずっと、娘を一人、美園家に嫁がせている。そうして美園家の保護を受け、蒸甲機をはじめとした蒸気技術を発展させてきた。

 そして春深の才は、高度な技術を持つ一族の中でも頭抜けている。数えで五つの時にはもう蒸甲機の基礎を理解していたし、十を超える頃には淀みなく図面を引いていたのだ。〈春風〉の図面を完成させたのは、十五になったばかりのことである。

 お綺麗になられた、と時雨は思う。つなぎ姿であってもたおやかで、品格を感じさせる女性に成長している。昔はあんなにもお転婆であったというのに。

 最後に言葉を交わしてから、もう四年になる。それは、成長くらいするだろう。

「時雨ったら、全然顔を見せてくれないのですから。わたくし、ずっと拗ねていたんですよ?」

 春深が、今度はさびしげに微笑む。

「もったいなきお言葉。本当にお久しゅうございます、姫様」

「まあ。そんな他人行儀な。昔のように、姉様あねさまと呼んでくださって良いのに」

 姉様、という懐かしい響きに、時雨の心が揺れる。時雨に似た、これだけは昔と変わらぬ短い髪を見て、動揺はいっそう大きくなった。いや、時雨に似ているのではない。幼い頃、時雨が春深に、姉様に似せたのだ。春深と、本当の姉妹のようになりたくて。そして今も、二人は同じ髪型をしている。それが、決して消えない二人の繋がりのように感じられて、心のどこかで安心もしていた。

 だが時雨は、そうした感情を封じ込めて告げる。

「私は、一介の花守にすぎませんから」

「まったく。時雨は昔から、頑固なんですから」

 小さく、春深は溜息をついた。

 呆れているのではない。それは親しい者にだけ向ける、愛おしさのこもった吐息だった。

 それが分かっていながら、春深の親愛に応えられない。そのことが、時雨を暗澹とした気分にさせた。だが、応じるわけにもいかない。

「あの時もそう。わたくしがあんなに引き留めたのに、時雨は聞く耳を持ってくれませんでしたね」

 あの時――時雨が春深のもとを去り、花守になった時のことだ。目に涙を浮かべながら理由を問い、行かないでほしい、時雨がいないと寂しいと訴える春深を、時雨が思い出さない日はなかった。

 時雨はもともと、美園家に拾われた子どもである。

 捨てられていたのは、美園家の菩提寺の境内。春には桜が咲き誇り、その絶景で人々を魅了する名所である。中でもとりわけ大きな桜の木の根元に、布に包まれた赤子が寝かされていた。

 その赤子を、時雨を見つけたのは、当時まだ五歳の春深である。美園家は桜を重んじる家系であり、その時も、春深の祖父である前当主・春光はるみつが、可愛い孫娘を連れてお忍びの花見に訪れていた。

 見つけた捨て子はそのまま寺に預けるのが無難であったが、それに待ったをかけたのも春深だった。この子を見つけたのは自分なのだから、責任をもってお世話をするのが筋だと言い出して聞かなかったのである。

 今でこそ落ち着いたが、昔の春深はまさしく暴れ馬であった。城中を走り回るだけでは飽き足らず、皆の目を盗み一人で城下に繰り出すこともしばしばであった。そんな子どもであったから、一度こうと言ったら聞かない頑固な性格でもあった。それこそ、時雨のことを言えないほどに。

 春深の我儘に誰よりも困ったのが、孫娘を溺愛する春光である。

 泣いて喚いて己の願いを訴える春深に、ついに春光は根負けした。名があるかも分からぬ捨て子を、桜木城に連れ帰って育てることにしたのだ。春深に嫌われたくないあまりに折れてしまった、前当主の肩書が泣く甘さであった。どうにか娘の素行を正そうと、あえて春深に厳しく接していた父母の努力を無に帰していたのが、この祖父の甘さとも言える。

 むろん時雨が覚えているはずもないが、城の者たちによく聞かされた『姫様の微笑ましい昔話』を思い出すたび、時雨は心が温まるのを感じる。

 以来、春深は時雨の姉様になった。時雨、と名付けてくれたのも春深である。

 小さな時雨のそばには、いつだって春深がいた。手を繋いで歩いてくれて、転んで泣いている時には抱きしめてくれる。姉様、姉様、と時雨が呼ぶと、嬉しそうに笑ってくれる。時雨はその笑顔が、この世の何よりも好きだった。

 ――私がこうして生きているのは、姫様のおかげだ。

 故に、時雨は花守として戦わねばならない。本当なら誰にも顧みられず死んでいたはずの自分を本当の妹のように愛してくれた、この心優しい姉様を。

「どうせ貴方は答えてくれないでしょうけれど……どうして、花守になったのですか?」

「……私を呼んだのは、それを問い質すためですか?」

 答えたくなくて、時雨は話を逸らした。

 しかし、必要なことでもあった。もはや一刻の猶予もない戦況なのだから。

「この一大事、姫様には何か、お考えがあってのことかと」

「……そうですね。ええ、あなたに来てもらったのは、もっと大切なお話をするためです」

 その瞬間、春深の表情から笑みが消えた。そこにいるのは、もはやお優しいだけの姉様ではない。東日本で唯一徳川に抗する美園の娘として、時雨には想像すら及ばない覚悟を宿した美しい面だけが、そこにあった。

 春深は音もなく立ち上がり、言った。

「ついて来てください。あなたに、お見せするものがあります」


「美園家は、間もなく滅びます」

 春深の言葉に、時雨は思わず目を見開いた。一歩先を行く春深がどのような気持ちでそう言ったのか、声からはうかがうこともできない。言葉が見つからず、ただ春深の後ろについて、石造りの建物の間を歩き続けるしかなかった。

 二人が歩いているのは、工廠が誇る大格納庫群である。ここは今、騒音の坩堝と言って良かった。多くの者たちが、声を張り上げて動き回っている。戦闘で損傷した〈春風〉がひっきりなしに戻ってきており、また修理を終えた機体から出て行くのだから、造花衆の技術者たちもおおわらわであった。姫とすれ違っても誰一人として挨拶もしないが、決して春深を軽んじているわけではない。形だけの挨拶などする暇があれば、一機でも多くの蒸甲機を万全の状態にする。それこそを技術者に求めるのが春深なのだと、みなが知っているのだ。

 まるで戦場のようで、これほどの混乱なのだから敵の間者でもいたらどうするのかと、時雨は大いに肝が冷える思いだが、春深はなんと警固の者さえ下がらせてしまった。時雨がいれば安全でしょう? と言って聞かなかったのだ。美しい女性に成長しても、頑固な性格は相変わらずであった。

 技術者たちの波に紛れるように、二人はその奥へと進んでいく

「どのみち、この戦力差では勝てません。まだ耐えている戦線も、いずれ瓦解するでしょう。大坂は、こちらが求めるなら支援の用意はあると言ってきてはいますが」

「大坂が……」

 豊臣方としても、美園家の動向は無視できない。もし美園の技術が徳川の手に渡れば、蒸甲機開発における優位が消失しかねない。

「むろん、頷くわけにはまいりません」

 なぜ、と問うまでもない。百年にも渡る徳川方の圧力に屈せず、美園が独立を貫いてきた意味を考えれば当然であった。

「西か東か。それ以外であることは許されない。日本の、かような現状に異を唱えることこそ、わたくしたち美園の存在理由です。今大坂の力を借りれば、徳川は退けられるかもしれません。ですが、次は豊臣に支配されるだけです」

 日本、と春深は言った。西でも、東でもなく、一つの国の名を口にしたのだ。

 それこそが、美園の理念である。この国は徳川のものでも、豊臣のものでもない。我が物顔で二つに割って良いものでもないのだ。

 ――どちらかに属さなくとも良い。そう示すことが、わしらの使命だ。

 春深と一緒に時雨ともよく遊んでくれた故春光が、折に触れてそう言っていたのを思い出す。美園家が受け継いできたその理念を、今は本丸にいる現当主・春俊も、そして立派に成長した春深も、最後まで守り抜こうとしていた。

「わたくしたちは、ただ滅ぶのではありません。決して潰えない意思を遺すために、滅ぶのです」

「最後まで、私も戦います……敗けるつもりは、ありません。徳川のがらくたなど、私が蹴散らしてみせます」

「ありがとう、時雨。ですが、ごめんなさい」

「……それは、どのような」

 時雨が言いかけた丁度その時、二人は大格納庫群を抜けた。

 その先には、ぽつんと一つの建物が置かれている。見た目は先ほどまでの格納庫と大差ないから、密集したそれらと比べると寂しげな風情を醸し出していた。だがこれこそ、美園の蒸甲機が生まれる場所――組み立てのための施設なのだ。

 時雨が連れられるのは、どうやらここのようだった。

「こちらです」

 春深に案内され、中へ入る。外観こそ格納庫と区別がつかないが、内部はずっと複雑であった。蒸甲機の組み立ては工程が多く、そのため区画割りが細かくなされている。また各区画には多様な、時雨には用途さえ分からない機械が設置されており、空間を大いに圧迫していた。

 そんな施設であるから、運用のために必要な人員も多い。しかし今は、人の気配が全くなかった。多くの人員が、格納庫での整備に割かれているのだろう。

 そして組み立てる者がいなければ、当然蒸甲機も――

 いや、違う。

 がらんとした組み立て場に、たった一機だけだが、鋼鉄の人形が屹立していた。

「これは……」

 驚きに、時雨は言葉を見つけられなかった。

 背部の煙突に、胸に納められた汽罐。その特徴は、まさしく蒸甲機のものである。若葉色に塗装されているのも、〈春風〉と同様であった。

 だが時雨は、かような蒸甲機を見たことがない。

 こんなにも細く、小さな蒸甲機は。

 身の丈は従来の蒸甲機の肩にすら達しないだろう。その痩身など、〈春風〉を見慣れた時雨には枯れ枝のようにさえ感じられるほどであった。

「姫様。これは、蒸甲機なのですか?」

 春深は頷いた。

「わたくしたちの意思を遺してくれる機体です。わたくしが図面を引き、造花衆が組み上げました。小型化に成功し、出力も遥かに向上した新型の汽罐を使用しています。運動性能は〈春風〉とは比較にもなりません。徳川も豊臣も持たない、唯一無二の蒸甲機です」

 そう語る春深は、状況が状況であるから無感情のようでいて、やはりどこか得意げだ。幼い頃から共に過ごしてきた時雨には分かる。昔からそうなのだ。蒸甲機について話す春深はいつも高揚していて、はじめて図面を完成させた時などは止まる気配すら見せず、ついに朝まで寝かせてくれなかった。それがやがて〈春風〉として現実に立ち現れた時の喜びようは、見ている時雨の方まで幸福な感情を抱いてしまうほどだった。

 その春深が、新たに産み落とした蒸甲機。

 一瞬にして、時雨は目を奪われた。百年変わらなかった蒸甲機の姿が、今この瞬間に生まれ変わったのだ。従来とは全く異なる鋼鉄人形の立ち姿の、なんと美しいことか。

 時雨はそこに、春深の美しさを重ねていた。あるいは、この美しい機体こそが春深であるかのようだった。熟慮の果てに図面を引き、技術者たちと議論を重ね、たった一つの機体を作り上げた春深の心を、時雨は感じたのである。

「因果なものですね」

 春深は一転、沈んだ声を発した。

「わたくしは、蒸甲機が好きです。火室の炎も、活塞が動く音も、噴き上げられる白煙も……大地を駆ける雄姿も。〈春風〉も、そしてこの機体のことも、誇りに思っています。ですが、徳川はこの技術を求めているのです。わたくしたちが他の大名家と同じようにあれば、此度の戦は起こらなかったでしょう」

「姫様は、そのようになされたいのですか?」

「いいえ。わたくしたちが美園であることは、どうあっても変えられないのです。わたくしは、ただ思うだけです。ありえはしないけれど、そうであった今と未来を。人は、想像する生き物でしょう? ねえ、時雨。わたくしたちが、美園とさえ関係のない、ただの姉妹であったなら、どのような二人になっていたでしょうね。あなたは、今でもわたくしを姉様と呼んでくれたかしら」

 今でも姉様だと思っております、と時雨が口にすることはない。だが春深の言う想像には心惹かれるものがあった。

 本当に、この方の妹であれたなら。

「そのような生涯も、良いかもしれませんね」

 時雨の返事は、春深の期待したものではなかっただろう。だが咎めはしなかった。

「姫様」

 時雨は改めて、姫様と呼んだ。姉様ではなく。

「この機体の名は、なんと」

 左肩には、まだ何の文字も記されていない。

「――〈春時雨はるしぐれ〉」

 春は、美園家の象徴である。

 姫様の名にも、その一字がある。

 それを自らの名が冠することになるとは、時雨は想像さえしていなかった。

「この機体は、あなたのものになります。命令です、時雨。この機体と共に、西へ逃れなさい。美園家が滅ぶ前に」


〈春時雨〉。

 その名を聞き、時雨は昔日の思い出を懐かしんだ。

 四年前、春深が時雨を城外へ連れ出した日のことだ。むろん、誰にも無断で。春俊様に後で怒れれるなあと、時雨は半ば諦めながらも苦笑した。まったく姉様は。

 春深のせいで、何度大目玉を食らってきたことか。特に思い出すのは、時雨が数えで九歳となった年のことだ。どこからか木の棒を持ってきた春深は、何を思ったかその先端を腹に突き立てる真似をして、「切腹ごっこー!」と楽しそうに叫んだのである。すでに十四歳であったというのに、この頃の春深は、未だにそうしたおふざけが大好きな性質を大いに残していた。その頃を思えば、本当に大人びたものである。

 目を丸くする時雨に、春深は「ほら、時雨も!」と促してきた。時雨が躊躇っていると、悲しげな目をして見つめてくる。自分のそうした表情が時雨にはよく効くと、春深は知っていたのだ。弱った時雨は、躊躇いながらも「せっ切腹ごっこー……」と春深と同じようにした。

 そこを、春俊に目撃された。そして、烈火のごとく怒られてしまった。

 自分は見られていないからと、なんと他人のふりをして逃亡を図った春深は、当然見抜かれて時雨以上に叱責されていたが。

 後で時雨が「逃げようとしましたね?」と問い詰めると、「そ、そんなことはないですよ? 姫たるもの、自らの責任は自らとらねばなりませんから?」と言い訳しながらも、春深は決して目を合わせようとはしなかった。

 あの日のことは、さして反省もしていないのであろう。なにせ、こうして春俊をまた激怒させるであろう行動をとっているのだから。

 連れて行かれたのは、美園家の菩提寺であった。春深が時雨を見つけてくれた、あの寺だ。

 その年も美しい桜の花々が空を隠し、そよ風に小さく揺れる豊かな季節を迎えていた。

 時雨は感嘆の吐息を漏らし、

「姉様は、どうして私を、時雨と名付けてくれたのですか?」

 と、雰囲気に酔っていたのか、気になってはいたものの、なんとなく聞かずにいたことを時雨は問うていた。

 すると、春深は不思議そうに首を傾け、しばらくして合点がいったとばかりに手の平をあわせた。その時の春深は大名の娘らしい華やかな小袖姿であったから、そういう仕草がよく似合っていた。

「まあ! そういえば、お話ししていませんでしたね。わたくし、うっかりしていました」

 そう言って、春深は朗らかに笑った。

 春の陽光のように暖かな笑顔を向けられ、時雨の身は焼き尽されかねないほど熱くなる。近頃はいつも、春深の仕草や行動一つでそうなってしまう。

 いけない、と分かっていても、むしろ日に日にこの想いは強まっていった。

 時雨は姉様のどんな表情も愛していて、だからいつも辛くなる。

 妹の心境など、春深には知る由もない。故に、自分が時雨に笑いかけるということが、どれほど残酷なことなのか気づくことなく、妹とお話しできることが嬉しくてしかたないという風に春深は語った。

 春深が赤子を見つけた時、まるで見計らったかのように雨が降り出したという。つい先ほどまで晴れていたというのに。一行は拾った赤子を連れて、慌てて寺で雨宿りをするはめになった。

 桃色の花びらが雨に打たれるのを眺めながら、春深はひどく悲しい気持ちになった。春深は毎年の花見を楽しみにしているのだ。これではすぐ、散ってしまう。

 その前年も、そうだった。

「でもね、その年は散らなかったんです」

 城で赤子の世話に奔走し、花見のことも、それができなくなって悲しんでいたことも忘れていた春深の耳に、城の者がその知らせをもたらした。

 目を輝かせた春深は祖父と共に、赤子を連れて城下へ出た。孫娘に甘い祖父と二人、こっそりと抜け出したせいでやはり父に怒られることになるのだが、悪いことをしたとは全く思わないのが春深である。赤子に美しい桜を見せてあげられて、大いに満足していた。

 時雨と、赤子をそう名付けようと決めたのは、その時であった。

「わたくし、その頃は雨があまり好きになれなくて。雨が降ったら、桜が散ってしまうんですもの。自分までそうなってしまうような気がして、それが嫌で……でも、あなたがわたくしたちの元へ来てくれた時は、散らなかった。雨と仲良くなれたと、そんな風に思えたのです。だから、時雨と。あの雨のように、わたくしたちの縁が良きものになりますようにと願って、そのように名付けたのです」

 自らの名の由来を聞いて、時雨は少しの間、呆けてしまった。

 そのせいか、春深は不安げな顔をして

「気に入りませんでしたか?」

 と言った。

 慌てて、時雨は言い募る。

「そ、そんなことはありません。この名は、私も気に入っています。ただ、そこまで考えてのこととは、思っていなかったもので……」

「まあ。時雨ったら、わたくしのことを馬鹿にしているの?」

「ち、違いますっ」

「ふふっ、冗談ですよ。でも、良かった。気に入らないと言われたら、どうしようかと」

「姉様がつけてくれた名なら、私は何でも気に入ります。私は――」

 時雨は一度ためらって、しかし思い切って口にした。この真意に、姉様が気づくことはないのだから。

「私は、姉様が大好きですから」

 春深はいつも、時雨に好きだと言ってくれる。だが気恥ずかしさから、時雨の方から告げることはあまりなかった。

 だから、嬉しかったのだろう。春深は顔を綻ばせて、時雨の手を取った。

 時雨の心臓が高鳴る。

「わたくしも、大好きですよ。わたくしの、可愛い妹」

 花守になると時雨が決めたのは、この時であった。


 春深は時雨を愛してくれた。

 時雨も、春深を愛していた。

 だが春深と同じようには、愛せなかった。

 確かに大好きな姉様であったが、それ以上に、女として慕っていたのだ。

 手が触れ合うと、笑顔を見ると、いやそうでなくとも、ただ春深を想うだけで胸が高鳴る。

 時雨は絶望した。

 自分は、妹だ。姉様と結ばれることはない。

 だが今さら、ただの姉様として見ることもできない。もう、気づいてしまったのだから。

 申し訳なかった。こんな風に姉様を見てしまう自分を、心底から汚らわしいと感じる。妹である自分に向けられる、春深の混じりけのない愛情が重い。

 故に、距離を置くことにした。

 花守衆。

 美園家を守る、精鋭たちの集い。

 春深のそばにはもはやいられないが、繋がりを絶つこともまた、時雨にはできなかった。

 ならば春深を、姉様を――姫様を守ろう。桜の木の下で、時雨はそう結論した。

 秘めた想いは報われずとも、そうすることで春深と繋がっていられる。

 命を救い、妹として無上の愛を与えてくれた人への、それが最良の恩返しになると定めて。

 花守となるためには、春俊を頼った。

「やりたいのなら、やれるのなら、やってみなさい」

 時雨の願いを聞いた春俊は、少し考える素振りを見せてから、そう言った。元より春深と時雨の仲があまりに良すぎると危ぶんでいた春俊である。決して時雨を嫌っていたのではなく、むしろ個人としてはお転婆な長女を見限らずにいてくれる良い娘とさえ思っていたが、美園家当主としては二人がいつまで経っても離れられぬのではないかと気を揉んでいた。そんな折の申し出であったから、本人が望むのならと首を縦に振ったというわけだった。

 花守衆は実力主義の集団であることも、時雨にとっては幸いであった。蒸甲機の操縦技術にさえ長けていれば、門戸は誰にでも開かれている。蒸甲機は百年の歴史しか持たず、加えてその仕組みの複雑さからか操縦に秀でた者が不足しているため、身分がどう、性別がどうなどとは言っていられないからだ。

 そして、時雨には才能があった。

 春深のおかげで蒸甲機の知識が豊富にあったとはいえ、実際に操縦したことはない。だというのに時雨は、はじめて経験する模擬戦で、花守衆でも屈指の実力を持つ操士を打ち負かしてしまったのだ。

 この模擬戦は本来、新入りが熟練者との実力差を思い知り、少し操作を覚えたからと伸びきった鼻っ柱をへし折るためのものである。姫様のお気に入りが何の気まぐれで……と当初こそ苦笑していた他の花守たちも、これには大いに面食らった。

 かくして時雨は美園家の花守として認められ、その後も研鑽を積んで才能を伸ばし、腕自慢揃いの集団にあって右に出る者はいない操士となった。

 自分の決断は間違っていなかったのだと、時雨は安堵した。


 だというのに。

 時雨は臍をかむ。

 何故、こうなってしまうのか。

「西へ行けば、大坂にいるわたくしの知己が、あなたを保護してくれる手筈になっています。豊臣の者ではありますが、わたくしたちと志を同じくする方です。安心して、彼らに身を預けなさい。〈春風〉の速度と稼働時間ではむしろ足手まといになりますから、単機で辿り着いてもらわねばなりませんが……大丈夫です。あなたと、〈春時雨〉なら」

 何が大丈夫なのか、時雨にはまるで分らなかった。

 春深が何を言っているのか、上手く整理できない。

 だが、何か言わねば、ということだけは明らかだった。

「姫様」

 蚊の鳴くような声が出た。

 聞こえなかったのか、春深は言葉を止めない。

「姫様」

 わずかに声を大きくしても、やはり聞こえないようだった。

 いや、聞こえないふりをしているのだ。

 かような話、時雨がどう思うかなど、春深が分からないはずもない。

「姉様!」

 たまらず、時雨はそう叫んでいた。

 四年ぶりの呼び方であるのに、その音は喉によく馴染む。

 姉様と呼ばれるのを待っていたかのように、春深がようやく言葉を止めた。空いた間を埋めるように、時雨は問う。恐ろしかったが、問わないわけにはいかなかった。

「姉様、それは……私に、姉様を見捨てて逃げろと、命じているのですか?」

「そうですよ」

 素っ気ないとさえ言える、簡潔な答えだった。何を当然のことを、といった様子に、時雨は呆然となる。

「……できません」

「何故?」

「姉様こそ、何故、そのようなことを……私は、姉様を守りたくて、そのために……」

 時雨は泣きそうだった。花守としてあるまじき弱さだ。姉様と呼んでしまったせいで、妹として春深に甘えていた頃の自分に戻ってしまった。自分はこんなにも、姉様の妹なのだ。

「ごめんなさい、時雨」

 ふいに、春深の面に陰りが差した。その陰りの中には、姉様の優しさがあった。先ほどまでの、時雨を突き放すような態度とは裏腹に、転んでしまった妹を慈しむような、姉としての優しさが。

「あなたには辛い役目でしょう。わたくしも、できることならそうしたくはありませんでした。誰よりも可愛い、わたくしの妹ですもの。わたくしたちの業になど関らず、ただ幸せでいてほしかった」

 春深の手が時雨の頬に伸びる。しかし時雨は、後ずさって避けてしまった。行き場を失った手を、春深は胸もとへ寄せた。そして、祈るように掌を閉じる。

「おかしいかしら。あなたを美園で育てると決めたのは、このわたくしなのに。わたくしは愚かですね。いつかこんな日が来るなんて、想像さえしなかったのですから」

「そんな、姉様。そのようなこと、おっしゃらないでください」

「ええ、そうですね。ですからこれは、後悔ではありません。わたくしはね、時雨、あなたの姉様であれて、幸せでしたよ」

「姉様、姉様」

 とうとう、時雨は泣き出してしまった。

「嫌です、姉様。一人でなど……姉様がいないなんて、私は」

「ありがとう、時雨。わたくしも、ずっとあなたといたかった。ですがわたくしは、造花衆の血を引く娘なのです。美園家と契約を交わした、本来この世界にあってはならない一族の」

「姉様、何を……」

 一歩、春深が後ろへ下がる。

 一線を引かれたと、時雨は悟った。自分たち姉妹は、異なる場所で生きているのだと。

 本来この世界にあってはならない一族と、春深が言ったことの意味が、時雨にはまるで分からない。

「どうして今、この国がかような形になっているか、時雨には分かりますか?」

 唐突な問いだった。時雨はしどろもどろになって、言葉を返す。

「それは……かつて豊臣が、大坂で徳川を破ったからで……蒸甲機を使って」

「その蒸甲機を、豊臣はどこで手に入れたのでしょうね」

 時雨は言葉に詰まった。

 確かにそうなのだ。大阪城で追い詰められた豊臣が、そしてその後の徳川が蒸甲機を如何にして手に入れたのか、経緯は闇に包まれている。

 そして、美園もまた。

「蒸甲機の技術は、当時では実現しえない高度なものでした。海の向こうでは、同様の技術の開発が進められているようですが……それとて、この国で発展したものの足元にも及びません。それに、蒸甲機だけではないのです。蒸気砲の精密な仕組みと、それがもたらす威力は、わたくしたちが生きる今であっても常軌を逸しています。蒸甲機の技術を流用した列車も、その走行に耐えうる軌条の存在も……。東ではこれらの技術を徳川が独占し、未だ軍事利用しか進んでいませんが、西ではすでに、民草へも高度な蒸気技術が広がっています。分かりますか、時雨。かような事態は、異常なのです。この国は、本来こうなるはずではなかったのです。全ては、わたくしたちがこの世界に来てしまったことから始まりました」

 春深の話は、その大半が時雨の理解の外にあった。

 蒸甲機も、付随する全ての技術も、時雨が生まれた時には既に存在していたのだ。それが異常だと言われても、腑に落ちることはない。

 春深とて、時雨と同じはずであった。

 だというのに、この違いは何だというのか。

 目の前にいるのは、かつてと変わらず大好きな姉様だ。それでも、自分とは異質な何かを感じ取らずにはいられない。

「世に放ってしまったこの技術が、せめてこれ以上、世を乱さぬように。それが、わたくしたちの責務なのです。特にこの〈春時雨〉は徳川にも、近頃台頭を始めた豊臣の武断派にも、決して渡せません」

「そのために、私に姉様を見捨てろと」

「許してほしいとは言いません。わたくしの言うことも、理解しなくて構いません。ですが、一つだけ分かってほしいのです。あなたにこの機体を託すことが、今わたくしが選ぶべき道なのだと」

 そう言われた瞬間、時雨は場違いなことを考えていた。

 今、自分の口で、姉様の口を塞いだら、どうなるだろう。

 これ以上、春深の話を聞きたくなかった。

 ならばいっそ、己の心中を吐き出して、春深の言葉を掻き消してしまおうか。

 だが結局、時雨は何も言わなかった。

 姉様に本心を隠すことには、とっくに慣れている。

「承知しました」

「時雨……」

「私は花守です。全ては、姫様の御心のままに」

「ありとう。あなたがいてくれて、良かった」

 その感謝を最後に、春深は姉様としての表情を捨て、言葉を継いだ。

「〈春時雨〉は、間もなく最終調整に入ります。この状況ですし、〈春時雨〉は機密中の機密ですから、作業に参加するのはわたくしと他数名ですが……この桜木城が落ちるまでには間に合うでしょう。ですから時雨、あなたはその時まで、必ず生き延びてください」


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