第七章 闇の誓い
ファムが、魔物だった。
最も女神に近いとされる場所に生まれ。
その女神の血を引くとされる自分ですら、昔話の登場人物だと思い込んでいた森の魔物。
呪われた森の緑を宿す、髪と瞳。
ロウソクからランプに。そして電気へ。
エネルギーが枯れ木から石炭に。そして化石燃料から風力・太陽光発電に。
通信機器もどんどん進化して、十代後半から一人一台とまでいわれるほど携帯が普及したこの現代で、その存在を身近に感じていた人間がはたして何人いたことだろう。
まさか、彼女が。
混乱する早朝の祭り会場。
人々に囲まれ、路上でしゃがみ、身体を小さくして。必死で人の目から逃れようとしているようだった少女。
髪をかきむしり、悲鳴を上げる彼女を自分はかばうどころか、他の人々と一緒に傍観していた。
人と異なる苦悩や痛みは誰よりも理解していたはずなのに。
どうして自分はあの時、震えて泣く彼女を抱きよせ、人の目から隠してやろうとしなかったのだろう。
――凄いよ。
その一言で、自分を暗闇から救いだしてくれた彼女の窮地に、いったい自分は何をしていたのだと。
少女と一緒に、神殿の関係者や警察によって連行され。放心したように虚ろな目をしていた彼女と、無理矢理離され。密かに連れ戻された家で、二ヶ月ぶりにあった父親は彼を見下して言った。
――勝手に家を脱け出し。どこかで自害でもしたのかと期待すれば魔物と仲良くデートとは。どこまでも愚かな息子よ。
母親は姿すら見せなかった。
神殿の敷地内にある住居の地下室、彼のために作られた“お仕置き部屋”に閉じ込められてからずっと、彼は一人で自分を責め続けた。
愚かな息子。本当にそうだと思った。
好きな人も守れない男なんて、クソだ。
この地下室には、もちろん明かりとりなど存在せず。唯一の明かりである蛍光灯の電源を落とされれば、後は己すら確認出来ない真の暗闇が待っている。
――ファム。不甲斐ない僕で、ごめん。でも。
「君を、諦めない」
必ず助けるから。
囚われた最初の日。
少年は初めて自らの意思で。強く強く、闇に誓った。
* * *
臨時休業の張り紙をしたカモメ亭の扉の内側では、行方不明となった看板娘のことで、馴染みの客らが集まっていた。
「ファムちゃんが帰らないんだって?」
「もう三日になるって」
「あの美人の坊っちゃんもいなくなったらしい」
「まさか」
駆け落ちとか?
――いやいや、それは無いだろう。そんなことをすれば、この世の果てまでアルシェに追いかけられ、生き地獄を味わうぞ。
そりゃそうだとうなずく男たちに、新たに店に飛び込んで来た男は衝撃的な情報をもたらす。
「大通りの方で魔物が出たとかって」
「ファムちゃんは魔物じゃねぇ!」
テレビや新聞では報道されていなかったが、人の口という最も原始的な手段で、“魔物”の噂はたった一日で街中に広まっていた。しかも。
「その魔物が呪いを巻き散らしたって、今大変な騒ぎになってる!」
公式には突然の豪雨により、急きょ、祭が中止となってから三日目。ようやく晴れたと思いきや、神殿からは何の通達もなく。今年の祭りはもう終りかと、人々が日常に戻ったその日。
それは足音もなく、突如人々に牙をむいた。
古より蘇えりし魔物の呪い。
誰もが予想だにしなかった、未曾有の事態。
それは水の都に古くから住む人々にとって、“呪い”としか思えないような、まさに悪夢だった――――。
* * *
床、壁、天井。コンクリートの灰色と。
遮るものもなく、その醜態を晒す便器の汚れた白。
パイプベッドのカビ臭いシーツには怪しい染み。
唯一外へと繋がる頑丈な鉄の扉は堅く閉ざされたまま、もう三日ほど経過したはずだ。
扉の小窓から一日二回差し入れられる食べ物は、乾いたパンと水もしくは塩味しかしないスープ。
パンにカビが生えていたり、スープに虫が入っていたり。二回に一回は何がしかあった。
以前の自分ならば、決して口に出来なかったであろう。けれども一日二回。計七回全て平らげた。
時間の感覚を狂わせる無機質な灰色は、同時に気力をも静かに消耗させていく。
一日二回の食事と消灯後の暗闇に時間の流れを感じとり、平静に努めてきた。
食べて、寝る。これほど意識してそれを行なったことが、過去にあっただろうか。来るべきときに動けるように。チャンスを逃さないように。
ファムを助ける。
その思いが、記憶の中の少女が、孤独な彼を支えた。
そうして狙っていたチャンスは意外に早く、向こうからやってきた。
この場所に来て十回目の食事を終えた後のこと。
一日二回の食事として、扉の小窓から差し入れられる硬いパンと水を載せたトレイは、しばらくすると誰かが回収にやって来る。けれどもその時間は毎回バラバラで、一度など数分のように感じられた。
そのためいつも急いで飲み込むのだが、その日はやたらと時間が長かった。
夕食のトレイを回収すると同時に消灯されるのだが、それも無く。無理矢理流したパンの異物感に喉をなで、唾を何度か飲み。ベッドに浅く腰かけ、空になったコップとトレイを見て考える。
コップを割って、武器にして――。
けれど血を想像して軽く吐き気がした。
ファムを助けたい。だけどそのために関係の無い誰かの血を流すのは、なるべく避けたい。出来れば自分以外誰も傷付けることなく。それが自分にとって都合の良い、ただの理想に過ぎないことはわかっていたが。
ベッドに座り、ラチもないことをつらつらと考えていると。
扉の向こうに、リズムの違う二つの足音が響いた。
ベッドから立ち上がり、扉の下から渡そうと、床に置いたトレイに手をかけようとして。違和感に手を止めた。
灰色の床、壁。
左にパイプベッド。右奥に洋式便器。
そして目の前に、不気味に沈黙する鉄の扉。
少しだけ腰がひけつつ、じっと扉を睨みつけていると、いきなり視界が真っ黒に染まった。
ちょっとだけ驚いた。
心臓が跳ね、どくどくと脈打ち、口から飛び出しそうだ。
電気を消されたのだと、遅れて理解する彼に闇の向こうから声がした。
「キオ君」
暗闇の中、扉の隙間が線のように浮き上がり。
覗き窓が開けられ、一対の暗い緑の瞳がこちらを見ていた。
「――少し話をしないかい?」
扉の向こうから聞こえてくるそれは、知らない男の声だった。
* * *
――の患者数は昨日の夜の時点で三桁を超え、急速な広まりをみせています。事態を重く見た政府は更に街の封鎖を強化、病の早期終息に向け――――
夜を迎えたというのにカーテンを引かれない窓は黒々とした闇色に染まり、ぽつぽつと見える光は近所の窓辺に漏れる明かり。
ずっとつけっぱなしのテレビが繰り返し流すのは、二日前から突然息を吹き替えしたように爆発的に広まり、一つの街を閉鎖するという事態にまで発展しつつある、恐ろしい、名も知れぬ病のこと。
昨夜から何の事前通告も無く始まった街の封鎖。水の都は国から見放されたと。未知の病への恐怖心から、人々は妄想を膨らませ。
その封鎖直前に、神殿に仕える一部の人間を供に、神殿最高位に就く大神官の妻とその子供たちが密かに街を脱け出したという噂が広まると、人々は怒りの矛先を神殿に向けたらしい。
今朝からテレビには神殿前広場に集まりつつあるデモ隊と神殿側の警備兵がにらみあう様子がたびたび映されていた。
――おうおう、渡来人どもめ。まるで砂糖に群がるアリのようじゃ。
老人は、たるんだ瞼の下で緑の目を光らせる。
「若い奴らを帰して一人で酒盛とは。何とも寂しいことじゃの」
ともすれば足元を見失う、暗闇の空間。
からかうような口調に、応える声は無い。
テレビが吐き出す七色の瞬きと、窓から入る月と外の明かりによくよく見れば、壁際に寄せたままのテーブルと椅子。
散らかり放題の床を進むには、転ばないように注意深く床に目を凝らす必要があった。
床に転がったままの空の酒瓶を枯れた手で一本拾い、テーブルの上に置こうとするが、意思とは関係無く震える手は力の加減がうまくいかず、きちんと底を当てられない。
瓶はテーブルを転がり、道連れとばかりに最初からそこにあった空瓶数本をなぎ倒して、もろとも落下し、床の上で弾けて派手な音と共に細かなガラス片を散らした。
「ああ、もう何やってるんだい。このアルコール漬けクソじじい!」
空の酒瓶にまみれ、テーブルに突っ伏していた大柄な女が、すぐ近くで炸裂した音に不快感を露にし、顔を上げて毒づいた。
「面倒ごとを増やしてくれんじゃないよ。ああ、まったく頭が痛い」
かといって散らかったそれらを片付けるわけでもなく、座ったまま虚ろな目をして頬杖をつく友人を、ハゲ頭の老医師は鼻で笑う。
「ファムちゃんやリィアがいないと、ここは三日でごみ溜めになるのぉ」
「ギル爺。あんたにだけは、言われたくない台詞だね。それにひとの娘の名を間違うんじゃないよ、耄碌が」
そう吐き捨てるように言うカモメ亭の名物女店主の顔には、深い隈が出来ており、全身から酒の臭いを漂わせていた。
「おや間違ったかね? 失礼失礼」
老医師は、その痩せて小さくなった方をすくめる。
「それにしても、ずいぶんと豪勢な酒盛だの。お前さんこそ、いつもワシに言っておった言葉を忘れてはおらんかの」
――ギル爺。あんたそろそろ酒控えたらどうだい? いい加減にしとかないと早死にするよ。
ああ、あのことかい。再びテーブルに突っ伏したアルシェは、億劫そうに言葉を繋ぐ。
「もうどうでも良いんだよ」
「重傷じゃな。――助けにいかんのか?」
「……簡単に言うんじゃないよ」
「しかしファムが捕まったとなればワシらもここを離れた方がよかろう?」
「ファムは――あの子は話さないよ」
脅されようが、拷問を受けようが。
自分の吐息の臭さに顔をしかめるらしい彼女は、手入れを忘れて汚れた赤毛に節の太い指を埋め、テーブルに肘をついて、ぽつりと繰り返す。
「あの子は話さないさ」
――殺されたって、仲間を売るような真似はしない。
「まともに話もしてやしないのに。頑固なところは、母親のリィファとそっくりだからね」
懐かしむように、どこか寂しげな緑で遠くに想いをはせる古い友人の横顔を見つめ、老医師は白い眉を寄せる。
――本当に、よぉ似ておるわい。
* * *
はめごろしの窓から溢れる月明かりに、浮かび上がる黒い影。
囚われた時につけられた足枷は、少女の柔らかな足首の皮を傷付け、癒えない傷口に滲む血が乾くことは無い。
「私は、始まりの方である女神の血を受け継いだことを、我が一族を。誇りに思う」
窓際に立ち、こちらに背を向ける男はわずかに肩を揺らす。
「先祖の血を濃く受け継ぎ過ぎたことが、お前の運命を決めるとは。皮肉なものだな」
床に腰を降ろしたまま、少女は唇を引き結び、緑の炎を宿す瞳でその背をにらみつける。
「家族や仲間について語る気は、無いということか。――まあ良い」
影が動く。
神聖な法衣の長く広い袖がゆっくりと動き、青白い月明かりが灯る、窓ガラスに手を触れる。
「聞こえるか? 人々の声が」
今までさんざん神に願っておきながら、いとも簡単に敵となる。恩知らずとは、まさにこのことよ。
「森の魔物。お前は人柱となるのだ」
愚かな人間のために。女神の血の尊きを守るがために。悪となり、正義の裁きを受けるのだ。
――それが、天よりお前に与えられた運命。
「明後日だ。それまでせいぜい短い人生を振り返ってみるんだな」
そう言い残し、男は大股で部屋から出ていった。
格子入りの、はめごろし窓から入る、冷たい明かり。
毛の長い絨毯に、薔薇のシーツで覆ったベッド。大きなクローゼットに書き物机。家具だけ見ればお姫様にでもなった気分になれる豪華な部屋で。
薄汚れた白い舞装束を着た少女は独り、さえぎるものが無くなった窓を見上げる。
動くたびに皮膚を削る足枷に、しかし慣れた身体に感じる痛みは鈍く。
森の色を宿す瞳は静かに、闇夜に架かる膨らんだ月を見つめていた。