第六章 白い舞装束
純白の舞姫となった君は、とても綺麗だった。
十年以上前の舞装束は、よくよく見れば、やっぱり少しだけ色あせてしまっていたけれど。大切に保管されていたらしいそれは、ほころびや目立った染みも無く。
女神に舞を捧げた乙女が遺した白は、今をキラキラと生きる君にぴたりと吸い付き、とてもよく似合っていて。
その眩しさに僕はまた、息のしかたを忘れそうになった。
瞬きすることが惜しくて。
ずっと見ていたら涙が出てきて。恥ずかしくて仰いだ天井も白く滲んでいた。
今でも瞼を閉じれば、そこにいるようにありありと思い出す。君は恥ずかしそうに頬を染めて、くるりと軽やかに一回転してみせた。
――ミリア。
その名前には聞き覚えがあった。忘れたくても忘れられない記憶の始まりに出てくる“女の人”の名前だ。
パサパサの白髪を簡単にまとめた、初老の女性。
ミリアの母親だという。
止めるべきだったのだろうか。後から思えば、止めるべきだったのだ。
ミリアの部屋に入ることを?
老婦人のマンションに入ることを?
――否。あの祭りの会場から間違ったのだと。
思えば流されてばかりだった僕は。
ずっと自分の意思を押しこめて生きてきた僕は。
いつの間にか流されることが当たり前になっていて。流れに乗っていれば楽だから。
疑問を持っても何となくで流されて。君に手を引かれついていくばかりで。
なんと愚かだったのだろう。
けれども。
後からどれだけ悔いても、もう遅い。
ファム。
君はどうしてそんなに優しいの。
知っていたはずだ。
君から自由を奪い、君を檻に閉じ込めるモノの正体を。
知らなかったのは。知ろうともしなかった愚かな僕だけだった。
――あの衣装はね、亡くなったお母さんが着ていたものなの。
君には舞装束を用意して、刺繍を施してくれる母親がいなかったから。
――綺麗ね……。
姿見にミリアの舞装束をまとった自分を映し、そこに刺された金の鳩を何度も指でなぞり。髪に挿した母親の形見に、そっと手を触れていた君は。
あの老婦人に、人と人として一度も会うことが無かった“母親”を見ていたのだろうか。
――ファム。
ごめん。
ただただ、太陽のように眩しく思うだけで。
自分のことだけで精一杯で。
光の化身のように思っていた君が抱える闇に、僕は見て見ぬ振りをした。
誰も責めなかったから。甘えてしまっていた。
あんなに近くにいたのに。気付いてあげられなくて。
あんなことになるまで。
僕は全く、思ってもみなかったんだ――――。
* * *
「良く似合っているわ。競い舞、出たこと無いのでしょ? 良かったらその舞装束、受け取ってもらえないかしら」
戸惑う君は、
「そうね、やっぱり古いものね」
力無く笑う老婦人に、同情してしまったのだろうか。
「そんなこと――ありがとうございます」
そうして舞姫だった少女が遺した衣装を、着たまま譲り受け。ふと、壁にかけられた時計を見やった君は。
「私、帰らなきゃ!」
悲鳴のように呟いて。
ひどく慌てて。いつもあんなに身だしなみに気を遣う君が、
「え? ふぁ、ファム。その、か、格好で、そ、外に?」
「時間が無いの!」
老婦人にお礼を言うのももどかしそうに、どもりながら制止する僕の言葉を振りきって。玄関に向かって走り出す君を、追いかけることに必死になった僕は。
ダイニングのテーブルに残してきた、密閉容器に入った金魚たちのことを忘れていた。
エレベーターを待つ間も、君は始終何事かをぶつぶつと呟いていて、意味も無くボタンを連打した。その焦りが伝わり。
情けないことに僕もまた、一緒になって混乱していた。
「夜明け前までに帰るって。約束――……」
結局待ちきれなくて、階段に向かい。焦って降りていると、足がやたらともつれる。前を駆け降りる君が、途中で靴を片方無くしていたことにさえ、しばらく気付かなかったくらいだ。
少女は、階段の半ばで、面倒くさいとばかりにもう片方の靴も脱ぎ捨てて。
息を切らしながらエントランスを抜け、石畳の歩道が見えた時には懐かしさのような感情と共にひどく安堵した。
その夜はずっと曇っており。
星どころか、いつの間にか月さえも、闇に紛れていた。
けれども一晩中賑わう祭りの喧騒と、こうこうと灯される明かりは、カーテンごしにも常に感じられるほどだった。
急ぐあまり、彼らはうっかり見落としてしまっていた。
長いこと独りで暮らしてきた老婦人。彼女の背丈よりも高い位置にかかっていた壁掛け時計には、埃が付着し。その針は、もうずいぶんと前に動くことをやめていたことに。
だから、間違った。
だいぶ先を走っていた彼女の足が、止まった。
たくさんの人で賑わう通りで。見失わなくて済んだと胸を撫でおろす少年の耳に、悲鳴が飛び込んできて。
顔を上げて。
見た、少女の姿は。
今にも泣き出しそうな灰色の空と、湿った空気と。
路上に子供のように、しゃがみ込み。
「見ないで……お願い……見ないで……」
あまりに激しく動いたためにしどけなくほつれた髪を両手でかきむしって、泣いていた。
次第に集まってくる人々の驚きに見開かれる目に、既に日が昇っていたことを自覚する。
――夜明け前までに。
アルシェと約束したのだと。
この時少年はようやく理解したのだった。
彼女が太陽を嫌う理由を。
「ま、魔物が……」
人垣が出来つつあるそこから、誰かが漏らした一言がさざ波のように人々の間を伝わり。
――見ないで!
絶叫に近い少女の懇願に耳を貸すものは、誰一人としていなかった。そう、少年でさえ、受けた衝撃に動けずにいたのだ。
石畳の車道。
車も、人からさえも遠巻きに避けられ。
踏みしめ歩く力を無くしたように、膝を曲げ、独りしゃがみ込む少女。
その髪は、人々が、少年が見守る中で、まるで清らかな真水に絵の具を溶かしこむがごとく、沈んだ茶色から鮮やかに色を変え。
曇天の鈍い明かりにも美しく萌える、森の緑をしていた。
* * *
昔々。まだこの街が出来るずっと昔のこと。
この国に最初に流れついた人間たちは、森の端っこで小さくなって、毎日怯えながら暮らしていた。
何故かって? 森にはそりゃ恐ろしい魔物がいたんだと。
緑の髪と瞳をした奴らは、自分たちこそこの大地の支配者だと主張して、怪しげなまじないを使って人間を呪った。
けれども。そんな人々の前にある日、天から女神様が降臨されてな。
輝く光の一薙で、魔物の森を切り裂き、邪悪な魔物どもをことごとく切りふせた。
その時、女神様が魔物の血で汚れたその身体を洗われたのが、今も神殿に残る“女神の洗い場”なんだ。
――それは、水の都に古くから伝わる、昔話。