第五章 玉祭
深みを増す闇空。
死者と生者が交わるこの三日間は、昼も夜もなく。
各家の前に置かれた灯篭の中で、ロウソクを模した電球が温かな色を滲ませる。
星のない夜。
石畳の通りを挟んでこちら側とあちら側の歩道の上を渡した縄に吊るしたちょうちんや、網の目のように走る水路にかかる橋の上からゆったりと流れる水面をライトアップする電飾。大通りの脇にある歩道を埋め尽くす夜店の掛け声と賑わい。甘い香りと揚げ物の香ばしい匂い。煌々と明かりのついた窓辺。
それらの街灯をはるかにしのぐ明かりの群れに気後れしたのか、月さえもその麗しい姿を闇色の雲の向こうに隠してしまう。
苔むした小さな石橋を二つ渡り、大きな橋を一つ渡り。
――こっちの方が近道だから。
どこかの夜店から獲ってきたのか長いソーセージを頬張るぶち猫親子に謝りながら、細い路地を少女が先に、少年がそれを追いかけ通り抜ければ。
視界が開けると同時に、祭りに浮かれる街の光と音の洪水が五感を震わせ、耳から臍へと吹き抜けた。
* * *
祭りの空気というのはどうしてこんなに胸がどきどきして、その賑やかな音はどうしてこんなにわくわくと心浮き立つのだろう。
きょろきょろと青い瞳をさまよわせ、明かりに惹かれてふらふらと歩いて行きかける少年に、少女は呆れてその腕を掴む。
「ちょっと、少しは落ち着いたらどうなの」
そう言う少女もつかの間開放された喜びで、店から一歩外に踏み出し、少し湿った空気を胸一杯に吸い込んだ時は思わず走り出したい衝動にかられたものだが。
街を縦横に割る最も広い道路を歩行者天国にしたメイン会場に出たとたん、自分よりも目に見えて浮かれる年上の少年の姿に頭が少し冷えた。
「あ、ご、ご、ごめ」
どもりながら今更の羞恥心に頬の染めるらしい少年が、しきりに握った腕を気にして離れようとするのでファムは逆に力を強めると、
「迷子になられたらこっちが困るのよ!」
と、その手を引き寄せて握り直した。
少年が「あ」とか「う」とか言葉にならない声を発していたが、構わず引きずるようにして人で溢れる道路を歩きだす。
――おてて繋いで。とか恥ずかしい。とか思っているんでしょうけど……本当に子供と変わらないんだからしかたないじゃない。
心の中でこぼした愚痴は、上を向いたり下を向いたり横を向いたりで忙しい少年の耳には入らない。
* * *
夜店で揚げたての皮つきジャガイモを二人分買い、何も持っていない少年に渡す。
キオは申し訳なさそうに髪と同じ淡い金色をした眉をひそめるが、気にしないでと言い置いて二人で夜店の影の歩道に上がり、並んでジャガイモを口に運んだ。
食べやすいスティック状に切られ揚げられたジャガイモは、逆三角の紙袋ごしにも熱さが十分に手の平に伝わり。指で摘んで頬張ればアツアツで咀嚼するにも、はふはふと口を魚のようにさせなければならない。油を吸ったイモのほくほくとした甘さと、口の中に広がる少し塩味の湯気。
普段家から出られない少女は、店を手伝って得た少額のバイト代ですら使い道が無く、ひたすら貯めてきているので、夜店で多少羽目を外して衝動買いをしたとて、すぐさま財布が空になるということはない。
キオがお金を持っていないことは知っていたし、だから今日は二人で楽しむために、お気に入りのカエルのガマぐち財布にはいつもよりも多めにお金を食わせてある。
口を開け、上で袋を逆さに振ってカスまで食べきったファムは、紙袋をくしゃりと丸め、祭りのために設けられた段ボール製の簡易ゴミ箱の燃えるゴミと書かれた方に捨てる。
人混みの隙間に探せば。元の場所に立ったままの少年が上目遣いにちらちらとこちらをうかがいつつ、かなり急いで揚げポテトを口に詰め込んでいた。
――夜明け前にはちゃんと戻るんだよ。
そんなことは言われなくてもファム自身承知していたが、祖母は毎年繰り返してきたこの台詞を、今年も外出の許しを乞う少女にかけてきた。
――分かってるわよ。おばあちゃん。
少し冒険することを許してくれる優しい祖母。その不器用な愛情に、少女はいつも通りの軽い口調で笑って返した。
夜明け前まで。でもまだ時間はたっぷりあるはずだ。
「ねえ、キオ。次は何を食べようか?」
目を白黒させながら口の中の物を飲み込むらしい少年に少女は苦笑しながら一応聞いてみる。
通りを見渡せば様々な食べ物の匂いと浮かれた表情で行き交う人々の姿。
さすがにこの時間になると子供の姿は無くなるが、代わりに子供の様な表情をした大人たちの熱気と足音と笑い声に少し息苦しいほどだ。
小さなリンゴを、赤くてつやつやした飴でくるんだリンゴ飴。
剥いたバナナにたっぷりとチョコレートを滴らせ、カラースプレーやアラザンでカラフルに飾り付けしたバナナチョコレート。
赤や青や黄色のシロップをたっぷりと二度がけしたかき氷は、人息れで蒸し暑い祭りには欠かせない。
射的屋に置いてある、モコモコと太った耳の長いぬいぐるみ。あれは前からテレビで見て欲しかったものだ。
港で今朝揚がったイカを素焼きして、甘辛いたれに絡めたイカ焼きも捨てがたい。
そうして緑の瞳を輝かせて目移りする自分もかなり浮かれて子供っぽい表情をしていることに、ファムは全く気が付いてはいなかった。
毎年繰り返されてきた非日常の風景。
ずっと楽しみにしてきた自由な時間。
祭りが終わればまた、繰り返しの日常が待っている。だから今、この許された短い夜を精一杯楽しもうと。
「あ。金魚すくい! 次はあれ、やってみない?」
まさかその日常がもう二度と戻って来ないなどと、この時の少女には、思ってもみなかったことだった。
* * *
浅く張った水の中を自由に泳ぐ赤や黒をした小さく愛らしい金魚たち。
優雅に泳ぐ様から、夏を代表するアイテムの一つとされる金魚。その金魚を描いた夜店の布製の屋根の下で、少年と少女は真剣な表情で道具を選んでいた。
道具はそれぞれ値段が違い、安い順にポイ、モナカ、アミとある。
プラスチックの枠に薄紙を貼ったポイ。
食べられるがそれ単体では美味しくなく、ソフトクリームでお馴染みのモナカ。
確実に捕るのならこれだが、料金設定が高い上に使用回数が一回限りの微妙にたわんだアミ。
悩みに悩み。二人が選んだものは――――。
金魚すくい。それは祭りには欠かせない涼やかで雅やかな遊戯にして、刹那の判断力と忍耐を試される真剣勝負の場である。
するすると逃げていく金魚たち。木のお椀を水面に浮かべ、上から目線でじっとその動きを追っていると、のんびりと泳いでいるように見えて実は意外とすばしっこいことが分かる。
プラスチックに白い薄紙を貼った対金魚用武器を構えて、じっと耐える。
赤い腹がポイの端に引っ掛かったのを確認するや、すぐさま手首のスナップを生かして金魚をすくい取り、お椀の中に入れた。
わずかな水音を立ててお椀に踊る金魚は一匹ではなく、新たに加わった一匹を入れて合計五匹の金魚が、狭く浅い水の中でひしめきあうように泳いでいる。
「姉さん、やるねえ」
金魚すくい屋の店主が浅い水槽の向こうから少女の手元を覗きこみ、苦笑した。
「兄ちゃんは……」
少女の隣では、少年が片手に持った水だけのお椀を呆然と覗きこむよう。もう片方の手に握ったままの対金魚用武器は水を吸って溶け、すっかり強度を失っている。ふにゃふにゃになったモナカは、持ち手の針金に引っかかるのが精一杯のようで。
「――まいどあり」
使い物にならないことは誰の目にも明らかだった。
――モナカなんか選ぶから。
彼の明らかな選択ミスに黙って何も言わなかったのは自分だ。けれど勝負の世界とはそういうものだろう。
チラリと横目で隣を確認し、ファムはまた手元に集中する。
「兄ちゃん、まあそう落ち込むなって。初めてにしてはなかなか頑張ったさ。ほらオマケしておいてやるから」
柔かな金髪に、沈んだ青い瞳。一見少女と見間違うばかりの綺麗な少年の憂い顔に、店主はちょっぴり同情したらしい。
最終的に少女は七匹。
少年は同情から得たオマケで三匹。
水といっしょに金魚を透明な袋に入れてもらい、二人して手に持つ。
もちろん勝負は、少女の圧勝だった。
* * *
遠くから流れてくる軽快な音楽。
道路に溢れる喧騒。人、人、人。
引く手が重いことにまた少しだけイラっとして首だけを動かして見れば、金魚の入った袋を顔のところまで持ってきてじっと見つめる真剣な顔がそこにあった。
「キオ?」
思わず足を止めると、少年は反応が遅れて軽く少女にぶつかる。目を軽く見開き、どもりながら謝る少年に、少女はずっと気になっていた疑問をぶつける。
「キオ、金魚見るの初めて?」
というか、もしかしてお祭り自体初めてなんじゃないの?
何もかもが物珍しそうに。
ちょうちんや夜店の明かりに、常に無く青い瞳を輝かせて。
まるで幼い子供のようなその姿は、童心に帰ったというよりもそれそのもの。
初めて見るものや触るものに、ドキドキわくわくする子供を見るようだった。
ぶつかった衝撃で破れてはしないかと、金魚の袋を心配するらしい少年は、顔を上げて、またすぐに袋の中の金魚に視線を落とし。こちらに目を合わせないまま小さくうなずく。
「ぼ、僕。ずっと」
ずっと、家にいたから。
――身体、弱そうだものね。
少年の告白を、少女はそう受け取った。何となく察しないわけではなかったが。相変わらず言葉が足りない彼の過去は、未だに少女の知るところではなかった。
けれど。
それは少年も同じこと。
「やっぱり」
苦笑し。
握る手にわずかに力を入れて、下を向いてばかりの少年の手を少々強引に導いて。
――お祭りは楽しいんだから。私が色々教えてあげる!
まだまだ時間はあるから。
道路を流れる浮かれた人々の波に乗ろうと駆け出そうとして。
「……ミリア?」
ふと足を止めた。
それは本当にか細く震える、小さな声だった。
振り返る間も無かった。
「ああ、ミリア。帰って来てくれたのね」
突然の衝撃に、一瞬頭の中が真っ白になる。
――あ、金魚。
持っていた金魚の袋のことを思い出し、右手に意識をやれば、ちゃんと紐の感触があることに安堵した。
次いで状況の確認をする。
「玉渡りで、女神様と一緒に帰って来ていたのね。どうして母さんのところに顔を出してくれないの? 毎年毎年あなたのために灯篭を立てていたのに」
時々嗚咽を堪えるようにしてそう呟き、痛いほどにこちらの身体に回した腕を締め付けてくる初老の女性は、カモメ亭でも見かけたことはなく。ファムの知らない人物だった。
「あの、失礼ですが。人違いじゃないですか?」
自分を抱きしめる老婦人が、あまりにも嬉しそうなことにいわれのない罪悪感を感じつつ、遠慮がちに言う彼女の言葉を、最初は信じ難かったのか、
「いいえ、そんなはずはないわ。だってあなたは――――」
老婦人は、いやいやをするように首を振って、しかしもう一度抱きしめた腕の中にある少女の顔を確認し。
生き生きとしていた藍色の瞳が急速に輝きを失い、顔に刻まれた皺が深くなる。
落胆。
しぼんだ花のごとく、色を無くした面には、語る以前にありありとその二文字が浮かんでいた。
目的を見失った拘束を外そうとやんわりと手を添えた腕は長袖の布越しにも細く、その手首はまるで枯れ木のようで。いったいどこにあのような力があったのだろうと考える。
――それだけそのミリアって人に会いたかったってことかしら。
深く落ち込む女性になんと声をかけて良いのか分からず、ファムが考えあぐねていると、彼女の方から先に口を開いた。
「びっくりさせて、ごめんなさいね。ちょっと後ろ姿が、娘に似ていたものだから」
老婦人の力のない微笑みは、どこか虚ろで疲れていて。一気に何年も年をとってしまったかのようだった。
「娘さん……ですか?」
「ええ、そう。でも良く考えたら十五年も前の姿ですもの。本当ならもうとっくにおばちゃんになっているはずなのに、私ったら」
あら。でも女神様のお庭では永遠に年をとらないのだから、きっとあの子は今もあの時のままなのね。
祖母とは対極にあるような。上品で、か弱そうな老婦人。けれどずっと祖母に育てられた彼女には他人のように思えず。関わらなければそこで終わりなのに、ついつい話を続けてしまう。
「娘さん、亡くなられたんですか?」
「亡くなったというか……あ、私の家、すぐそばですの。失礼なことをしてしまったしお詫びも兼ねて、よろしければお茶でもいかがかしら。――そちらのお連れの方もご一緒に」
お連れの方。その単語でようやくファムはあることに気が付いた。
――忘れてた!
「キオ!」
慌てて探せば。
「ねえ、お嬢ちゃん。一人?」
「彼氏とはぐれちゃった?」
「俺らといいところ行かない?」
数名の若い男たちに囲まれ、道路と歩道を隔てる縁石に座り込み。そろえたズボンの膝の上に置くようにして、持った金魚の袋を覗き込み身を固くする、乙女のような少年の姿がそこにあった。
* * *
老婦人に案内されたマンションは、通りに面した七階建て。赤っぽいレンガを組み合わせた外観は、古くから残る街全体の景観を保存するため法的に定められたものだ。
それ故に、この街の建物は、外側は揃いの色をして、水路や石畳の道路の隙間に並んで建ってはいるが、中身は現代的な家電や家具がひしめきあうという、奇妙なズレを抱えている。
入り口の扉を引き開き、四角いスチール製のポストが壁に並ぶエントランスを抜け。中央に一基あるエレベーターに乗り込み。少女と少年は最上階――つまり七階の角部屋、七〇一号室に招かれた。
広めの玄関スペース。ワックスが効いたフローリングの廊下。通る際に見た感じでは、部屋は全部で四部屋。
通されたリビングダイニングはカウンター付きの対面式キッチンで、続きの部屋の壁を取り払ったそのつくりは、とても開放的だった。
レースのクロスがかかるテーブルは四人掛けで、一つの椅子を除いて座面には雑誌やら差しかけの刺繍台などが乗っており「あら嫌だ。散らかり放題でごめんなさいね」と老婦人はそれらをかき集めると「適当に座っててちょうだいね」と言い残し、どこかへ持っていった。
言われた通り、とりあえずキオと二人並ぶようにしてカーテンに背を向けて座ってみたが、他にやることも思い当たらず。しかたがないので、座ったままで部屋の中をぐるりと一巡り見てみる。
白い壁紙。高い天井と広いリビングダイニング。でも老婦人と自分たち以外に人の気配は無い。
彼女はこの広いマンションに、独りで暮らしているのだろうか。
家電は少々旧式なものが多いようだが、置いてある家具はどれもこれも品が良く、これまた値段が張りそうな高級感を匂わせており。
――もしかしてものすごくお金持ちだったりして。
そう思うと、新品同様で今日初めて袖を通したとはいえ、お古のワンピースでここにいる自分がひどく場違いなような気がしてくる。
居心地の悪さに、テーブルの下で膝の上に置くようにして、両手で持った金魚の袋の紐をいじりつつ、なんとなく隣を見やれば。
キオは、テーブルの上で透明な袋を軽く乗せてみたり上げてみたりを繰り返し、金魚の観察に忙しいらしい。カレーの染みが付いたままのTシャツとズボン姿でありながら、少年は普段と変わらない――どころか、普段以上に落ち着いている様子だった。
淡い金髪に、宝石のような青い瞳。整った美貌を持つ少年は、服装さえなければ確かにこの空間に違和感なく溶け込んでいる。
――やっぱりキオには、こっちの方が似合うかも。
出会った頃から感じていたことだが、彼はやはりお金持ちの家柄なのかもしれない。
「お待たせしてごめんなさい」
ややあって戻ってきた老婦人は、キオが持つ金魚の袋に気が付いたらしく「ああ、金魚さんを忘れていたわね。ちょっと待ってて」とカウンターの向こうに置いてある大きな食器棚を開くと、ガラス製の密閉容器を二つ持ってきた。
「これあげるわ。袋で持っていると大変でしょ? それにそれを持ったままでは、ケーキが食べられないもの」
初対面なのに家にまで上がり込み、こんなものまで貰っていいのだろうかと一瞬迷ったが、彼女の柔和な笑みに押されて、その好意を素直に受け取ることにした。
* * *
断面に覗く、卵色をしたふんわりスポンジと、生クリームと苺。三角形をした上面にたっぷりとかかった真っ白な生クリーム。
少し固めにホイップし、綺麗に絞り出された白のクッションにちょこんと座る、真っ赤な苺。
「娘は昔から、この苺が乗ったケーキが好きでね。毎年この祭りに合わせて焼いているのよ」
「え。じゃあ」
「気になさらないで。ちゃんと分かっているから」
毎年焼いて、一人では食べきれず。三日間が過ぎれば生ゴミとして捨ててしまっているのだから。
――分かっているの、本当は。ただ。
「何かしないといられないから」
だから祭りの期間中は、テーブルに食べきれないほどのご馳走を並べて、ケーキを焼いて。
でも座る人のいない椅子は、もうずっと前から物置になってしまっていて。
「娘と主人の代わりに食べて貰えるかしら」
年頃の少女らしく甘党なファムに、断わる理由などどこにも無かった。
ケーキとかケーキとかケーキとか!
なんて久しぶりなのだろう。
夜中に食べると太るとか、そんな野暮なことは、この際言いっこなしだ。
それに祭り期間中は昼も夜も無いのだから、そんなの関係ないよね。と自分に言い聞かせ。
ああ、美味しそう。でももったいない。
カモメ亭では絶対に見かけることのない、繊細な絵付きの小皿。そこに上品に乗ったケーキは、高く白い天井の照明にキラキラと輝いて見える。
一緒に出されたお茶も、あちこちへこんだやかんからジャーっとコップに流し入れるのではなく。盆の上でキルトの服を脱いだティーポットの腹には薔薇や鳥が描かれ、それを注ぐカップやソーサーにも同様の絵柄が描かれていた。
「お客様なんて、本当に何年ぶりかしら」
老婦人が優雅な所作で淹れる紅茶は、立ち上る湯気に薔薇の香気をまとわせ、それだけで十分楽しめそう。
「お口に合うと良いのだけれど」
こんなお茶の時間を経験したことがないファムは内心大いに焦りつつも、なるべく不自然にならないようにカップを持ち、胸一杯に薔薇の紅茶の香りを吸い込み、ほうと息を吐いた。一口含めば、更なる濃い薔薇の香りに乙女心がときめく。
瞼を閉じれば、そこは貴族の屋敷。手入れの行き届いた庭園に、朝露の玉を光らせる薔薇の花々。ピンクのドレスを着て、金の靴をはいて。花と戯れる蝶々を見つめながら優雅にお茶を――。
そこまで妄想してふと気になり隣を見。
一気に熱が冷めた。
長めの金の前髪がさらさらと流れ、伏し目がちの青い瞳が瞬いて。白く細く形の良い指の動きは、全く不自然なところがなく。カレー臭い服を除けば、自分よりも完璧に絵になるその姿。
何故か暗い気持ちになり、テーブルの上に視線を戻す。
レースのテーブルクロス。
高そうな紅茶のカップとソーサー。
高そうなティーポット。
宝石のようなケーキ。
そして金魚の入った密閉容器が二つ。どちらも同じメーカーの同じ製品らしく、全く同じ容量に同じ水を与えられ、方や広々と優雅に、方や満員電車よろしくぎゅうぎゅうとかき分けて泳いでいる。
わかってはいるが、この不公平感はプライドにおいて解消するつもりはない。
「もっと若者向けのお菓子があれば良かったのだけれど」
あいにくと冷蔵庫にはこれしかなくて。
向かい合って座り、申し訳なさそうにそう言う老婦人の動きも、キオに負けず劣らず品が良く。二人を見比べ自分を見つめ直せば、また何とも言えない居心地の悪さを感じる。
「あ、い、いいえ! ケーキなんて本当に滅多に食べられないごちそ……じゃなくてすごく美味しそうです! いただきます。……あ。すごく美味しいです」
勢いだったが、やっとフォークを入れることが出来たケーキ。口に入れればスポンジが溶け、ホイップクリームの香りづけか、甘さの中にほんのりとブランデーが香った。
* * *
「私たち夫婦は、長いこと子供に恵まれなくてね。あの子はやっと授かった娘で」
老婦人の語りにキオと二人、耳を傾ける。
テーブルの上を片付け、分厚いアルバムを何冊も広げ。
生まれた日のこと。
初めて言葉が出た日のこと。
初めて歩いた日のこと。
「どっちがミリアの一番になるのかで、主人とよく取り合いをしたわ」
娘のことを語る彼女の藍色の瞳は、生き生きと輝いていた。
アルバムの写真に残るミリアという女の子は、栗色の髪と藍色の瞳の、お人形のように愛らしい女の子だった。
学生時代に話が及んだ時には少し困った。ファムは太陽の光を浴びることが出来ないので、ずっと学校には行かず、祖母やカモメ亭を訪れる客から読み書きを教わっていたのだから。不自由は感じていないが、一般の学生生活というものを何一つ知らないので、話を振られても苦笑いを浮かべるしかない。
キオはと言えば、やはり考えを言葉にすることに困るらしく、会話にはまるで参加せず。写真に残る笑顔の女の子を見つめ、始終静かに聞き手に徹していた。
たくさんあったアルバムも、とうとう最後となり。
開いた中にいたミリアはファムと同じ十五歳になっていた。
「ミリアは本当に踊りが好きで」
思春期を迎えてか、その表情からはいっぱいの笑顔は消え、けれどはにかむような甘酸っぱい笑みもまた魅力的に写る――ミリアという少女は、そばかすが残るファムとは似ても似つかない美少女だった。
「私たちによく踊ってみせてくれたわ」
そしてアルバムの最後のページに綴じられた一枚の写真。髪を綺麗に結い上げ、幼さの残る顔に化粧を施し。清楚な白を基調とした美しい舞装束を着て微笑む少女。
「これが私が見たあの子の最後の晴れ姿。玉祭の競い舞で優勝したあの子は――――」
“競い舞”――それは女神に舞いを奉納する舞姫を決めるために、毎年玉渡りの夜に行なわれる踊りの大会だ。
今日も祭りのメイン会場の特設舞台で行われているだろう競い舞は、年頃の若い娘なら誰もが一度は踏む舞台といわれている。
また、出会いの場としても有名で、女は舞姫を夢見て、男は運命の相手を探して。そうして毎年繰り返されてきた水の都の名物であり、祭りの目玉の一つである。
もっとも。ファムは出会いにも舞姫にも関心が薄いので、一度も出たことはない。
「優勝? すごいじゃないですか」
「ありがとう」
優勝したあの子は舞姫に推され、それはそれは嬉しそうだった。私たちも鼻が高くて。精一杯の舞装束を用意したの。
「それが、この写真」
あの子はあの舞装束を着て、見事に舞姫としての務めを果たしたわ。
私たち親も、この時ほど娘を誇らしく思ったことは無かった。
「でもね――――」
――お母さん。私決めたわ。
玉渡しを終えて帰って来たあの子は神殿にお仕えしたいと言い出して。
――とても尊いお仕事なの。仲間と一緒に女神様に毎日祈りを捧げるの。
――それに、巫女になればたくさんお金が貰えるもの。お母さんやお父さんにやっと親孝行が出来るわ。
私よりも亡くなった主人が猛反対してね。普段とても穏やかだったあの人が怒ったのは、あれが最初で最後だったわ。勢いからつい口を滑らせてしまったのね。――巫女になるなら親子の縁を切る。今すぐこの家を出てけ――と。
娘はその夜のうちに荷物をまとめて出て行ったわ。引き留めようとする私に。
――お母さん、今で育ててくれてありがとうございました。お父さんにもよろしくね。
――ミリアは本当は優しいお父さんが大好きだって伝えてくれる?
あの子は全て分かっていたのね。私たちが反対した理由が“寂しい”からだってことを。
一度神殿に入ったら、たいがいの場合、一生そこから出ないで過ごすなんて。
だってまだ十五だったのよ。
でも、そう。
どこでも良いの。良かったのよ。あの子が生きて、幸せにしていたのなら。
それだけで良かったの。
時々届く手紙にあの子の無事を確認して、ただそれだけでもう何もいらなかったのに。
「ある日を境に全く娘からの手紙が届かなくなったの」
心配して神殿に行っても巫女に関しての情報は教えられないの一点ばり。
それでもまだ良かった。可能性がある分、希望があったのだから。
けれど。
長いこと待ち、そんな私たちの元に届いた神殿からの最後の手紙には。
「巫女ミリアは女神に招かれ、彼の庭に渡りました。という内容だったわ」
「それって」
ふと浮かんだ可能性を口にしかけたファムをさえぎるように老婦人は言葉を重ねる。
「稀に――あるそうよ。女神様に愛され過ぎた娘が死を迎える前に女神様のお庭に招かれてしまうことが」
死ではなく、神に近づくことにより、人には見えない存在になったのだと。
だからこれは。
「名誉あることなの」
そう言う彼女の笑顔にはどこか影があった。
名誉。それだけで、遺体の無い身内の死を認められるものなのだろうか。自分ならば――祖母がそのような状態になれば、それこそ真実を求めて地のはてまで探しに行くやもしれない。
そこまで考えて気付くものがあった。
ああ、だからか。
だからこの人は玉祭に浮かれる街で、娘を探していたのか。
「ねえ、ちょっとこちらに来てくださらない?」
急に思いたったように席を立つ老婦人の言葉にファムはうなずき、キオに声をかけ、二人で老婦人の後を追い、リビングダイニングを後にした。
* * *
そこは玄関を入って最初に見た扉の部屋だった。
柔かなピンクのカーテンに、静かに整えられたベッド。書き物机。
誰の部屋なのか。訊かなくても容易に察しがついた。
主を失って長いはずなのにきちんと掃除されており。その綺麗過ぎる生活感に、虚しさを覚えた。
「お願いがあるの」
そう言って老婦人がクローゼットから取り出したのは、あの純白の舞装束だった。
「これを着て貰えないかしら」
思い出の時を止めたまま残る空間に、たった独りで生きる。それはどんな気持ちなのだろう。
整理しきれない遺品の数々が、それを静かに語りかけてくる。
ファムの腕の中に渡った白い衣装を横から覗き込む青い瞳が、困惑するように揺れていて。
――大丈夫。ちょっとだけよ。ちょっと着てみるだけだから。
そうして片目を閉じてみせれば彼はそれ以上何も言ってはこない。
ただ複雑そうな表情を残して、性別上では一応男である彼は一人部屋を出て、扉を閉めた。