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枷の鈴  作者: 紫空
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第四章 カモメ亭―余興―

 息が止まるかと思った。 

 いろいろな物が胸からのどに詰まり。

 

 動くとか動かないとか、そんな域を遥かに超えた衝撃。

 感覚を失った長い一瞬、他の部分は全て忘れ去り。キオは目だけとなってそれ凝視ぎょうししていた。 

 きっととてつもなくまぬけな顔をしていたに違いない。


 

――ねえ、余興よきょうをやりたいんだけど。

 

 そう言って窮地きゅうちに酔っ払いの間から現れた少女は、救世主というより女神様だった。

 

 緑系の薄布を幾枚も重ね、金と銀の刺繍ししゅうが施された舞装束はとても綺麗で。

 蛍光灯の明かりに生き生きと輝く翡翠の瞳。

 張りのある柔らかな乙女の肢体したいを隠す緑はそれぞれ微妙に色が違い、足さばきにふわりふわりと花を咲かせる。

 まぶしく白いふともも。二の腕。

 あの、一番の友達だった庭の大木に似た落ち着いた茶色の髪を結い上げ。さっきまでは付けていなかった紅い実が揺れる髪飾りを挿し。

 細い首筋におくれ毛が伝う。


* * *

 

 女の人が舞う姿を見たことはあった。

 昔の話だ。

 

 まだ愛されているという自覚すら必要ないほど当たり前に両親に慈しまれていた頃。

 毎年この玉祭たままつりに合わせて神殿に奉納される舞姫たちの美しい舞を両親の隣で用意された席に座り、見物していたことを彼はおぼろげに記憶していた。

 

 女神がその身を清めたとされる洗い場。その神聖な水場の上に守るようにして建つ神殿は街のシンボルにして、人々の心の拠り所。

 

 信心深い人々の憩いの場である広場と堀に囲まれた神殿を繋ぐのは白い石の橋。

 この橋を渡り、神殿で舞を奉納ほうのうする舞姫は、この街に住む年頃の女性たちの憧れらしい。そのまま巫女として神殿に生涯を捧げる者もいるほどだ。

 

 確かに、記憶にある彼女たちは豪華な衣装をまとい、どこか誇らしげだった。

 

 けれど。

 キオにとって、そこは拠り所にすることさえ許されない場所。

 安らぎなど、到底あり得なかった。

 

* * *


 古くて傷だらけの床を蹴る小さな靴音。

 小さめな手の平が、その細い指先が。

 天を仰ぎ、膨らんだ胸元を滑り、地を示す。

 

 袖と袖を繋ぐ長い布。端に無数に縫いとめられた金の鈴が。

 手首足首に二連に付けた細い金の輪に通された金属が。

 少女の動きに合わせて軽やかに金の音色を振り撒く。

 

 テーブルや椅子と一緒に「邪魔だ」と他の客に引きずられて追いやられた店の隅で。

 汗と油と酒の臭気を放つ筋肉の塊に挟まれながらキオは見とれていた。

 

 幼い思い出の中にあるそれは美しい音楽と、美しい衣装と。

 秀麗しゅうれいな乙女たちの舞は洗練されていて隙がない完璧なものだった。

 

 けれどここは街の食堂。油やスパイス。煙草やアルコールの臭いで満ちた安っぽいステージ。

 

 大柄な赤毛の店主が奏でる竪琴と、見守る客のヤジと口笛と手拍子は音楽と呼ぶのもはばかられるほどいい加減で調子はずれなものだったが。


――キオには見せたことなかったっけ? 時々お客さん相手に踊ったりするのよ。これでも踊りには自信あるんだから。

 

 そう言って微笑み。

 

 余興と称して陽気な人々の中心で踊るファムの舞は、初夏に伸びる緑に似て。きらきらとした生命力に溢れていた。

 瞬きをわすれたキオの青い瞳に映る彼女は、色褪せた記憶の舞姫たちよりもよほど輝き、美しかった。

 

* * *


 音楽が途切れると同時に踊りを止め、周囲の拍手やアンコールに笑顔で応える少女の瞳に、きっと自分の姿は無く。

 時に笑い声を交えて親しげに見知らぬ男たちと会話をする少女の頭には、自分の存在などほんの隙間にすらいないのではないかと思い。

 安っぽい作りの店内の中央で、人に囲まれ称賛される少女と、壁の影となる自分との間には、とてつもない距離があるように感じられ。

 

 美しい幻想から醒めた虚脱感と自己嫌悪に、キオは肩を落とした。

 

 床板のひねくれ曲がった木目を一本一本目で追って数えているうちにその様々な形の線に知らず知らずのめり込み。

 

――キオ?

 

 最近では聞きもしないのにずっと頭に響いている少女の声がずいぶんと近くで耳に入ってきたことに驚き。

 床から急いで視線をはがせば、突然の動きについていけなくなった頭がめまいを起こした。

 

 貧血やめまいは頻繁ひんぱんに起こしていたため、慣れた身体は頭で考えるよりも先に反射的に壁に背を擦りつけるようにして床にしゃがんだ体勢をとった。

 

「また貧血? 大丈夫?」

 

 もやもやとせばまった視界がようやく現実に戻ってきて、最初に意識して捉えたものはといえば。

 

「何だったらギル爺さんに診てもらう?」

 

 心配気にこちらを上から覗き込んでくる少女。

 少し乱れた髪。その一筋が肩を滑る。前屈みになった胸元へかかり。

 淡い緑の衣装は間近で見れば下が透けてしまいそうで。朝露にしっとりと濡れる薔薇ばらの花弁のごとき肌に吸い付き、その色の境目が鮮やかだなぁ。などといったものだったわけで。

 

 うっかり目でなぞりかけて慌てて目線をそらした。

 

 はっきり言ってかなり不自然な動きだった。

 軽蔑けいべつされるんじゃないかと考えたとたん、頭の中が凍りついたように冷たくなる。

 

 

――醜い息子よ。

――何で死んではくれないの!

 

 幼い頃から見てきた父親や母親から受けた侮蔑ぶべつの言葉や顔が脳裏をよぎれば、立ち上がろうとする足が震えた。

 握りこぶしの中がべたついて気持ちが悪い。

 

「キオ? ねえ、顔色悪いよ?」

 

 

――聞きたくない。

 緑の瞳に拒絶される未来が、

 せっかく射した光を失うことが、

 

 とてつもなく、怖い。



 

「もしかして疲れちゃった? そんなに具合悪いのなら、やっぱり私一人で行ってくるわ」

 祭で外はひどい人混みだし。毎年一人で行ってたから慣れてるもの。

 

 耳を伏せず、代わりに瞼を閉じていた少年は、理解が出来なくて瞬きを何度か繰り返した。

 

「もうすぐ十時じゃない? おばあちゃん、自分がお酒飲んで酔っ払ったから今日はもう店終いだって」

 

 本当に勝手なんだから。淡いグリーンの衣装を絞る腰帯こしおびと金の細い鎖の少し下辺りに手をあて、ふいと背けるその視線の先を辿れば。

 先ほどまで少女が踊っていたスペースの床に座り込み、酒瓶らしきものを振り回して周りの酔っ払いたちと楽しげに語らう赤毛の女店主アルシェの、熊のごとき広い背中があった。

 

 行くも帰るも無かった自分に仕事と住む場所を提供してくれた彼女には、感謝してもしきれない。――バイト代は全てあのバス・トイレ無しの部屋の宿泊代に消え、未だにびた一文手にしてはいないのだが。

 それにしても。キオはあの大きな体格と声がどうにも苦手だった。

 あれで彼女と血が繋がっているなどとは。タチの悪い冗談としか思えない。

 信じたくない。

 

 

「それでね。せっかくだし、お祭り見物に行こうかなって。キオも一緒にどうかなぁと思って」

 ほら。こういう時しか私、外に出られないから。

 

 後半、全く聞いていなかった。

 というか、今何と?

 

 向かい合って立ち、上目遣いに見上げた緑は、自分よりも少し高い位置にあり。

 

 ファムと、お祭りに?

 二人っきりで?

 人混みで、密着とか?


 手とか。手とか握ったり、とか?

 


「あ、でも具合悪い人を荷物持ちに無理矢理連れ回すつもりはないから。だから――」

 

 会話に合わせて表情と一緒によく動く、小さな手を目で追い。何となく汗ばんだ手の平をこっそりズボンの尻で拭っていたキオは、消極的になりつつある少女の言葉に慌てて、離れゆく細い手首を掴んだ。

 金の腕輪がシャラリと音をたてる。

 

「ま、待って。だ、だい、じょぶ。じゃなくて、い、行きま」

 

 気が急いたために、みっともなくかんでしまった。 


 温もりを吸った金属と、しっとりとした肌の感触。

 近い位置で緑の瞳が見開かれ。

 

「何? そんなに行きたかったの? 分かったから。一緒に行きましょう」

 

 少々ひきつった笑い顔と。

 

「だから――離してくれる?」

 

 腕に力を入れられ、言われて始めて気付いた。

 

「あ、ごめ……!」

 

 自分はどれだけ力を込めていたのか。解放された手首を少女が撫でる仕草に、罪悪感という内からの無言の圧力を感じ。顔を上げていられなくて、自分の靴に視線を落とす。

 

「キオ、ちゃんと聞いてる?」

「え?」

 

 長めにした金の前髪の間から盗み見る少女は腰に手をあててとても不機嫌そうだった。

 

「もう。人と話しをする時はちゃんと目を見て」

「ご、ごめ」

 

 何度も謝らないで。ピシャリとこちらの台詞をさえぎってくる少女はやはり、そうとう怒っているようだ。



 

 落ち込んだ。

 

 下を向く彼に、少女は溜め息を漏らすらしい。

 

「――いいわ。着替えてくるから、ここで待ってて」

 

 着替え。ついついその単語に反応して顔を上げると、彼女は苦笑いを浮かべ。

 

「こんな格好じゃ、外歩けないでしょ?」

 

 軽く両手を持ち上げ肩をすくめる。手首に下げられた布が広がり、縫い付けられた鈴がころころとさざめいた。

 

 それはそうだな。と思った。

 綺麗な金とグリーンの舞装束まいしょうぞくは、小柄だがすらりと長い手足を持つ彼女にとても似合っているが、少々刺激が強過ぎる。

 

 それでライトアップされ、賑わう夜の街を行き交う男たちの視線を引いてしまったら――一大事だ。

 

「う、うん。待ってる」

 

 早くしてね。と言いかけ、待つ女っぽい思考に気が付いてやめた。



 

* * *




 女の“ちょっと”はかなり長い。待たされる間に二回酔っ払いに絡まれ、三回女と間違えられた。

 

 

 着替えを終え現れた彼女は。

 赤いリボンが付いたピンクのワンピースに黒に近い茶色の靴。小さめの肩かけ(かばん)

 綺麗にアップに結い直した髪に、金の髪飾りを挿し。

 オレンジ系の口紅にラメ入りグロスがプルンと艶めいて。

 

 いつもより少しだけ着飾った彼女は、

 いつもより少しだけ綺麗だった。

 

――否。彼女はいつだって輝いていた。どんな宝石も彼女の生きた緑の瞳には叶わない。



 

「行くわよ、キオ」

 

 半歩先に行く君を、

 僕は必死で追いかける。

 

「ま、待って」

 

 うっかり回したままだったエプロンの紐をほどく間も惜しく。剥がしてカウンターの内側に放り投げる。 

 君の背を見失わないように。

 

――私、恋はしないって決めているの。

 

 好きになってくれなくていいから。

 

 ただ、許されるのなら。

 まぶしい君を追いかけて。ずっとそばにいたい。

 

 そうしていつかおばあちゃんになった君の隣に並んでいられたら。

 

 だから僕は――――……。



 

* * *


 駆け足でカモメ亭を出ようとしたキオは、低い声に呼び止められて、恐る恐る振り返る。

 

 体格の良い酔漢たちの中にいても一際目立つ赤毛と、目が合った。

 背後で、少女が出ていった扉が戻ったことを知らせるメッキのドアベルが鳴り。

 



「キオ」

 

 床に座り込み。赤らんだ顔に少女と同じ色の瞳は――――

 

「ウチの孫に変な真似したら――――」

 死ぬより辛い地獄をみるからね。

 

――完全に据わっていた。


 

 周りの男たちからの無言の圧力と、突き刺さる刃のごとき視線に。

 

「や。そ、そんなんじゃ、な」

 

 ドアノブを握った手が震えて、開けられなくて。



 

 内気な少年は、またちょっとだけ泣きたくなった。

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