第四章 カモメ亭
日没がとても待ち遠しい。
起きてから、日が暮れるまでの時間がいつも以上にやたらと長く感じた。
青空の遮光カーテンの向こうから透けて聞こえてくる街のざわめきも今日はいつもよりも少し賑やかで。
聞いているだけで心臓が鼓動を早める。
少女は部屋の中にこもりながら、仕掛け時計の針と共に時を数えていた。
* * *
午後七時過ぎ。ようやく諦めた太陽が地上から去り、ファムは鼻歌混じりに衣装棚を開ける。
さて、今日はどの色を纏おうか。
サルスベリの赤?
それともタンポポの黄色?
それともレンゲのピンク?
少女の服は近所の子供が着れなくなったお古が多い。全く不満が無いわけではないが、かといって家の事情を考え、そのような小さなことに文句をいうほど自分は子供ではない。
しかし何でも良いというわけでもない。保存状態はもとより、一番重要なのはその色。
彼女は明るい色を好む。カラフルな服は着ているだけで気分が明るくなるからだ。
迷いながらふと気になり衣装棚を離れ、空柄のカーテンを左右に引いた。ガラスの向こう側に広がる常ならぬ街の風景。
大通りに立つ街路灯や、民家の明かりが花を咲かせ。
まるで血管の如く街中を走る水路に零れる光が流れに無数になびく。
隣接する民家の敷地内。玄関先に見える淡い光は死者の道しるべたる迎え火、灯篭の明かりだ。そのそばで、ひょろりと細い木が時折吹く風に、暗く影となった枝葉をしならせている。
玉祭初日。玉渡り。
街中が闇を退ける光に満ち、生者と死者が交わる不思議な三日間の幕開けの夜。
非日常の始まりを告げる暖色系の明かりの花を遠くに宿す窓ガラス。そこにぼんやりと重なり透けるのは沈んだ茶色のおさげ髪にそばかす肌の少女。
皆は母似だという。けれどもこうして見る彼女は、丸い目と低めの鼻とそばかすのせいでやたら幼く見える。写真の中で父と寄り添い微笑む、あの綺麗な女性とは似ても似つかない。
美人という単語に、ふとキオの顔が浮かんだ。
淡い金髪に青い瞳。中性的な顔立ちの少年。童顔でも美しさでも、ファムは彼には敵わない。
綺麗な顔をしているのにいつも下ばかり見ていて、目が合うとそらしたりと実にもったいない。
今日は年に一度のお祭り。祭り期間くらいはお客さんもたくさんくるだろうし、唯一外出が許される三日間の内に、彼を外に連れ出してみるのも良いかもしれない。
祭りの灯りは見ているだけで心浮き立ち、楽しい気分にさせてくれるものだ。
「よし! やっぱりピンクにしよう!」
しばし迷った後、衣装棚からお気に入りを引っ張りだし、それを持って鏡台に向かう。
素早く着替えて鏡の前で一回転してみた。淡いピンクの裾がふわりと広がる。
一週間ほど前に祖母が近所の人から譲り受けた淡いピンクの夏物ワンピースは、裾や胸元に色の濃いリボンをあしらったドレス風で、染みや綻びなどどこにも見当たらない新品同様のものだった。
亡き母の形見でもある鏡台の前に腰を下ろす。
でも、この顔は嫌いではない。
目線を上げると鏡の中の少女も真っ直ぐに見つめてくる。
夏の始まりの、萌える緑の色をした一対の瞳。
少女は母から。母は祖母から。祖母はその親から。こうして代々受け継がれてきた森の緑。そのせいで彼女がずっと不自由を強いられているのだとしても、ファムは誇りに思う。
長い長い連鎖の先に受け継がれたそれは今、彼女の中でファムという人物をこの世界に存在させ、祖母や声すら覚えていない亡き母と自分とを繋ぐ見えて見えざる確かな証拠なのだから。
三つ編みを解き、櫛で梳いた後。今日は特別に手を掛けて髪をアップに結ってみた。それだけでいつも以上に華やかな気分になれる。
書き物机の椅子の背に引っ掛けておいたエプロンをし、廊下に出ればほら。
店へと続く扉の隙間から漏れてくる温かな明かりと、上機嫌の客の調子外れの歌声や笑いが混じる喧噪が伝わってくる。
良かった。今日はお客さんがいる!
「いらっしゃいませ! ようこそカモメ亭へ!」
ファムは笑顔で扉を開けた。
* * *
キオの手により笠を丁寧に清められた照明は、いつにも増して明るい。
全てのテーブル席が埋まり、壁際で立ち飲み客が出るほどに賑わう店内。あちらこちらで発生する会話や笑い声が、食べ物や酒の匂いに満ちた空間に渦を巻き、外の祭りの賑わいも聞こえなくなるほどだ。
こうなるとひどく狭く感じるカモメ亭の食堂に、女主人の怒鳴り声が響く。
「やかましいね! 今日は面倒だから、もうカレーしか無いからね!」
サービス業にあるまじき暴言を吐く店主に、しかし居合わせた人々は聞き流すか苦笑するかで誰も怒り出したりはしない。
店の隅の方でメニュー表を探すようにきょろきょろしていた観光客風の男女が、少しだけ面食らったような顔をしてはいたが。
馴染みの客はカモメ亭の大女主人の性格を熟知している。
賑わう店内で仲間に入りきれず戸惑っている様子の若い二人組のテーブルに近付き、ファムは笑顔で接客を開始する。
「ようこそ、カモメ亭へ」
自分よりも年下の少女の笑顔に、連れの女性と向かい合い額の汗を拭いていた男性は表情を弛めた。
「ああ、よかった」
「ごめんなさい。びっくりされたでしょ? うちのおばあちゃんいつもああなの」
“おばあちゃん”の単語に、テーブルに座る若い男女は驚きの表情と共に、少女と、空になったジョッキを両手に複数持ちつつ店の中央付近で客と大きな声でやりとりを続ける大柄な赤毛の女を見比べるようだ。
まあ、初めての客のこの反応には慣れっこなわけで。
「あ、あれ。私の祖母です」
あまり似てないですよね。と付け加え、ついでにカレー二皿の注文を受け、礼をしてテーブルを離れた。
――似てないっていうか、他人レベルだよね?
――でも似なくて正解なんじゃないか。あれは無いよ。
あれって何よ? 目、見なさいよ。同じなんだから。ちゃんと共通点あるわよ。本当に失礼しちゃう。
背後で囁かれる会話に喉元まででかかった文句を飲み込み、少女はカウンターを潜り、厨房に入る。
* * *
カウンターで隔てられただけの厨房では金髪の小柄な少年がエプロンを締め踏み台に乗った状態でコンロにかけられた大鍋の中身をかき混ぜていた。
少女は水切りかごの中から深皿を二枚取り、一枚を調理台に置き、炊飯器の中で湯気をたてる白いご飯を皿に盛り、もう一方の皿にも同じ量になるようにご飯を盛った。それを両手に持って少年がかき混ぜている大鍋に向かう。
「キオ」
背後から声をかけると少年はびくりと肩を震わせ、振り返る。勢い余って木杓子と一緒に踏み台から落下しかけ、たたらを踏みながらなんとか堪え降りると額の汗を拭った。
良く煮込まれたカレールーが額に付き、木杓子から落ちた一滴が既にあちこちカレーが付いたエプロンにこぼれたが、少年は気付かない様子で一瞬こちらを見て、慌てて目をそらす。
実は声に出して話しができることが判明した一昨日夜。
しかし彼はどうにも人と接することが苦手なようで、接客どころかもう二ヶ月も一つ屋根の下にいる祖母や彼女にさえもまともに視線を合わせようとしない。
筆談という手段をとらなくなった分、その短所が非常に目立つようになり、少し面倒にさえ思う。
十八歳という年齢の割に幼く見えるのも、単に童顔だというだけではなく、その幼すぎる精神年齢にもあるような気がする。
頼りなく揺れる幼子のような青い瞳。
でも良くなったこともある。
まず、はい。とか、いいえ。という短くても声が聞けるようになったこと。
そして何よりも時々、本当に稀なことだが、笑顔を見せてくれるようになったことだ。
常は下ばかりを向いている彼が一瞬だけ。再び下を向き隠すまでのほんのわずかな間に見せる、はにかむような笑顔はとても澄んでいて、そんな時はこちらの胸も温かくなるのだ。
まったく。仕方がないわね。息と一緒に小さく呟きながら少女は踏み台に上がり、「ちょっとこれ持ってて」とご飯を盛った深皿の片方を少年に預け、お玉を取る。
軽く底と上を混ぜ返してから、隅に寄せたご飯に少しかかるようにして、まっ白なご飯の斜め上からとろりとルーをかけた。
「次、そっちだから」
直立不動で深皿を持ったままの少年の要領の悪さにまた少しだけイラっとしつつも、吐息だけでおさめ、こちらの皿と彼が持つ皿を交換してまた同じようにルーを流し入れる。
「ありがとう」
台を降り、お礼を述べつつ預けておいたカレーライスが入った深皿を受け取り。厨房を出ようとしてふと思い、カウンターの手前で足を止めた。
「ねえ、キオ。今日忙しいからおばあちゃん機嫌悪いのよ。そろそろ中ばかりじゃなくて外にも――」
背後を振り返ったりはしなかったものの一応忠告のつもりで放った言葉はしかし、被さるように響いてきた怒声によってその意味を失ってしまう。
――キオ! いつまで奥に引っ込んでるつもりだい! この忙しい時に女々(めめ)しいこと言っているんじゃないよ! 男は度胸だろ? それともそこに付いているヤツはただの飾りかい?
あ……。遅かったか。
人と接するのが苦手なのはこれまでの二ヶ月で十分過ぎるほど分かっている。
おそらく自分が店に出られない昼間から、何かと理由をつけて奥に引っ込み、皿洗いや調理補助をしていたのだろう。
常に無く忙しいこの状況はたぶん彼も察していたに違いない。
ただ、知らない人ばかりの空間に飛び込むためには少しばかり勇気が足りなかったのかもしれない。
彼の極度に内向的な性格は少しだけかもしれないが理解しているつもりだ。
けれど向き合う努力をする前から逃げることばかり考えるのは、彼の悪い癖だと思う。
店に出て数時間の彼女でさえ、要領の悪い彼に苛立ちを覚えるほどだ。昼間からずっと二人で店にいる祖母の短すぎる“気”が今までもっただけでも奇跡と呼べる。
ちょっとだけ同情しながら振り返ると、皿から立ち上るスパイシーな湯気越しに、震えながら弱々しく首を振る少年の今にも泣き出しそうな顔があった。
人間、誰しも得て不得手はあるものだが。
「大丈夫。慣れちゃえばどうってことないから」
人の顔色うかがうくらいなら空気も読もうか、キオ。
「じゃあ、頑張って」
そう言い残し、少女はカウンターを潜り、店内に出て行った。
* * *
案の定、トラブルは起きた。
「お待たせしました」
相変わらず店の隅で引きつった笑いを浮かべ、顔を見合わせ目配せするらしい男女の二人組のテーブルに笑顔でカレーライスを置き、その場で料金をお札で受け取り、レジにお釣りを取りに向かった時だった。
短い悲鳴が聞こえてふとそちらを見やれば、小柄な少年が数人の客に絡まれていた。
「べっぴんさんだな」
「ちょっとこっちで酌してくれよ」
驚きすぎて言葉も出ないのか、それともその内向的な性格ゆえか。おそらくどちらともなのだろう。
それにしても早かったなと少女は嘆息する。
祖母に重ねて名前を呼ばれ、彼女の後を追うように厨房から飛び出した少年。
酔っぱらった男たちの輪の隙間からちらちらと覗くその手に空のジョッキが握られていることから、苦手な接客を少しでも避けようとしてか、テーブルの片付けをしていたのだろう。
彼に店に出るように指示を飛ばしたはずの祖母はどこにいったのかと店内を見渡せば、一番奥まったテーブルで客と向かい合ってビール瓶片手に談笑している。よくよく見れば相手はあの自称医者のアル中――もとい。ギル爺さんらしい。
経営者が客と一緒に酒を飲んでどうするんだと突っ込みたいところだが、これまた久々にしてよく見る光景なわけで。少女はこれまた溜息を漏らすしかない。
結論。祖母はアテにならない。
もう、本当に世話が焼けるんだから!
レジを操作し、お札をしまい釣銭分の硬貨を取り出し、例の男女のテーブルに返すと、その足で少女は賑わう店の奥にある扉を開き、いったん自室へと戻る。
そして再び店内に入った少女は、その姿を認めた常連客から拍手喝采で迎えられた。
好奇に満ちた視線と軽いヤジを軽く流して歩を進める先には人だかりと、酔漢の中心に委縮して青い瞳を怯えに潤ませる少年が一人。
古くなった床にわざと靴音をたて。
ほぼ同時に美しく響く小さな金の囁きにやっと気がつくらしい赤ら顔の男たちに向けて、ファムはとびきりの営業スマイルで。
「ねえ、余興をやりたいんだけど、テーブルが邪魔なの」
一緒に片付けてくれるかしら。
しなをつくってみせると、男たちは機嫌よく応じてテーブルや椅子を自主的に動かし始めた。他の常連客たちもそれにならい、店内の中央付近から障害物を部屋の隅に移動させる。
後には一人取り残された少年が、乱れた髪に泡がこびりつくジョッキの持ち手を握ったまま、呆然とこちらを見やるようだった。