第二章 嘘
動かないように植木で固定し、開放したカモメ亭の出入口の扉。
四角く切り取られた世界に、浅い暗闇と街灯の明かり。
水路を流れる水の音。通りを行き交う人の足音。
連日の夏日に焼かれた石畳の道はカラカラに渇き、ごちゃごちゃと椅子とテーブルがひしめきあう店内に吹き込んでくる風は、遠く港か浜辺の残り香をまとい、少し生温かかった。
着替えを済ませ、エプロンをした少女が住居と店舗を結ぶ廊下を渡り、扉を開けてカモメ亭の食堂に入るのとほぼ同時。青々とした葉を伸ばす鉢植えを抱えて、小柄な少年が店内に入って来るのが視界の端に映った。
――キオ!
少女が名前を呼ぶと、少年は大げさ過ぎるほどに肩をびくつかせ、振り向く。もう少しで危うく観葉植物を一鉢駄目にするところだった。
すんでのところで持ち直した鉢をこちらに背を向け、扉横の壁際にそっと降ろし、もう一度こちらに向き直る少年の動きはどこかぎこちない。
店のくすんだ明かりを弾く淡い金髪。見たことも無い澄んだ色の瞳は、絵や写真の中でしか知らない青い空と同じ。
通った鼻筋に、シミやそばかすなど全く無い肌。
自分よりも少しだけ身長が低く小柄な少年が、実は三つも上の十八歳だと知った時には、乙女心が軋むように痛み、思わず「あり得ないわ!」と叫んだものだ。
二ヶ月前のあの嵐の夜。彼女の祖母に拾われ、からくも命を取り留めた少年。
数日後、熱が下がり意識を取り戻した彼はしかし、こちらが何を聞いてもその美しい青い瞳に怯えたような光を宿し、上目遣いで見てくるだけで視線を合わせようとせず。
うつむき、一言も発しない彼が広告の端に書いた文字で唯一語ったことが“キオ”という名前だった。
とても綺麗でお姫様のようで。白くて、異常に痩せた少年。けれども彼は、こちらの言うことは聞こえているようなのに、言葉を返したり発したりすることはなかった。どうやら口が利けないらしい、と言ったのは祖母だったか。
筆談でも自身について語ることをためらう素振りを見せる彼に祖母は
「薬代、医者代。それから宿代。きっちり払ってもらおうか」
と請求書を突きつけた。
「今すぐ払えないのなら住み込みで働いて返しな」
後に祖母にその真意を訊いたところ。
「帰りたいって思う場所が帰る場所であって、そうでないのなら今は違うってことさ。だったらその場所を思い出すまではここにいればいいさ」
もちろんきっちり返してもらうものは返してもらうけどね。と付け足すことも忘れなかった。
――自殺願望者とか。
彼が住み込みアルバイトとしてカモメ亭で働き始めてからしばらくは、あの夜に祖母が放った言葉が頭から離れず、日没前は部屋で悶々とし、日没後はそれこそトイレまでこっそり跡をつけたりした。
結局恐れていたようなことは無く。逆に変な恐怖心を植え付けてしまったらしく、今は反省している。
「キオ、おばあちゃんは?」
夕食時だというのに今日も今日とて店内には客の姿はなく。どころか店主の姿さえ無い。
意欲がわかないのか、はたまた生来のいい加減な性格が災いしているのか。おそらく後者に違いない。
ここまでくるともう黄色信号を通り越して廃業寸前赤信号だ。
祖母が一応管理しているはずの帳簿という名のどんぶり勘定メモ書きも、怖くてここ半年は全く目を通していない。
ファムの問いかけに少年は困ったように視線をさまよわせ、自分のエプロンのポケットからメモ帳と鉛筆を取り出して壁を机代わりにさらさらと書きいたものをうつむき加減で歩み寄って見せてきた。
新聞屋が粗品として置いていったポケットサイズのメモ帳。そこに書かれている文字は走り書きながら実に美しいものだ。
目覚めてから少女が渡した広告の端に最初に書いたキオという名前もそうだったが、このお姫様のような少年は、外見を裏切らない綺麗な文字を書く。
正直なところ、女性であるファムよりもよほど繊細な筆致だ。
人の書く文字にはその人の性格が顕れるとかなんとかいうが、自分の字の汚さは、難解暗号のような豪快な字を書き殴る祖母を教師として覚えさせられた故だ、と彼女は思っている。
“外で電話中”
その一文の意味を考える間もなく、扉の向こうから騒々しい声が聞こえてきた。
――え? 何だって? だから何回言ったら分かるんだい。生きているうちに一度も会いに来ないで、死んだ後でこう未練たらしく物だけ送ってくるなって言ってるんだよ!
店の前を通り掛ったサラリーマン風の男が何かに驚いたように後退りするのが見え、少女は額に手を当て天井を振り仰ぐと、少年の手を引いてカウンターの向こう側へ回り、頭を抱えてしゃがみこんだ。
つられて隣にしゃがみ込む少年が、その青い瞳を揺らがせてこちらを見つめてくる。
ああ、きっとまたあの人だわ。
囁く少女に、少年は首をかしげる。ここに来た当初よりも少し伸びた糖蜜色の髪の毛が、さらさらと流れた。
ファムが説明をしようと口を開きかけたその時。古くなった床が悲鳴をあげ、大股な足音がカウンターの前で止まるよう。
「甲斐性無しが!」
吐き捨てるような言葉の後に、木製のカウンター面に叩きつけられたそれが乾いた音をたてて色を散らせた。
カウンターの内側にいるこちらに絶対に気が付いたと思うのに、祖母はそのまま何事も無かったように、客室のある二階へと大股で去っていくよう。
――今更なんだよ。過去もあの子も戻りはしないんだ……大馬鹿野郎…………。
開いたままの携帯を握りしめ、奥の階段に向かい小さくなる赤毛の大きな背中。その吐息のような呟きを、少年と少女はカウンターの端から黙って見送った。
* * *
置き去りにされたそれを手に取り、少女は胸に溜まっていた不快な空気を吐き出した。
白いかすみ草。赤や黄色の大輪の薔薇。
祖母が投げ捨てていったそれは白い薄紙と透明なセロファンで包み、質素な白のリボンで綴じられた花束だった。
よほど乱暴に扱われたのか、ラッピングは乱れ、花はしおれ、無惨な姿をさらしている。
鮮やかな色を留め、カウンターの上と床に散らばる無数の花弁。
「毎年毎年。本当に馬鹿みたい」
赤い花弁を一枚拾い、近くにあったゴミ箱に落とす。それを追い、問いかけてくる青い瞳に少女は苦い笑い顔を作る。
「これ、ね。たぶんお母さんのお父さんからなの。ほら、もうすぐ玉祭じゃない? それに合わせて毎年毎年懲りずに送ってくるのよ」
玉祭。それは年に一度、女神が海へ還った者たちを連れて地上に遊びにくる三日間のこと。
そして普段外出が許されないファムにとって唯一、それが許される特別な日だ。
初日の玉渡りの夜は死者が自分の家を見失わないように家の前に灯篭を置き、これを迎える。そしてこの時ばかりは街中が寝ずに酒を飲み、御馳走を食べ、死者と踊り、交わる。
最終日の三日目の玉渡しの夜に、神殿にある女神の洗い場から女神を乗せた舟が出るので、帰り道が淋しくないように、また、死者たちが迷わないように、灯篭を乗せた花舟を水路から海へ流すのだ。
その光景はとても幻想的で、大陸から孤立した小さな島国であるこの国の住人が、一生のうちで一度は見ておきたいものランキングの上位にいつもランクインしている。
例の謎の病も、先月末頃から新しい感染者が急に出なくなってきたようで、徐々に戻ってきつつある観光客に、神殿側が提案した厄祓いも兼ねて例年になく派手に祭りを盛り上げようと街は活気づいているらしい。
全てテレビや新聞から得た情報だ。
観光客がやってくる。祭りで人が増える。――稼ぎ時だ。
祭りの初日、玉渡りの夜を明後日に控え、カモメ亭は臨時休業の張り紙をし、毎年恒例の大掃除に追われていた。
といっても元々細かいことや整理整頓といったことが不得手な祖母に任せたら、陽が沈んだ頃には店内は足の踏み場も無くなっていたことも過去何度かあったので、数年前からは少女が一人でやっている。今年は少女以外にキオが加わり、多少なりとも楽になるはずなのだが。
「身重のおばあちゃんを置いて逃げておきながら、一度も顔すら見たことがないまま死んだお母さんに毎年毎年こうして欠かさず一方的に送りつけて」
……たぶん渡し舟の花飾りに使ってくれって意味なんだろうけど。
「何か違う気がするのよね」
まるで年中行事のように繰り返される、贈り物と電話のみのやりとり。
そんなに嫌なら携帯の番号を変えたり着信拒否するなり対処法は色々あるというのに、彼女が知る限り祖母はずっと携帯の番号を変えていない。
――恋だの愛だの、本当に分からない。
「私、恋はしないって決めてるの。だって面倒臭そうじゃない。それに――――」
口と手を同時に動かし、花弁を片付けていた少女は改めてカウンターの上に放置された花束に目をやる。
紙とセロファンに巻かれ、静かに横たわるそれはところどころ花弁が抜けていたり、傷ついていたりしてとても見栄えが悪い。
――もったいないけど、お店に飾るにはちょっとアレかしらね。
そう思ってそれもゴミ箱に入れようとしたその時、突然しおれた花束を持った腕を掴まれた。
「……ま、まって。お願い、まだ生かせてあげて」
勢いが空回りするかのように時々つっかえ、少しかすれたその声は記憶に無く。振り返り。
何よりも少女を驚かせたのは。
「キオ! あなたしゃべられるの?」
見かけによらず強い力で掴まれた腕が痛んだが、そんなことはすっかり忘れていた。
それは彼にとっても考えての行動ではなかったらしい。
ファムの言葉にキオは掴んでいた手を離し、後ずさりすると踵を返して逃げようとする。
「ちょっと、どこに行くつもり?」
その引けた腰に腹の底から怒りが湧いてきて、少女はとっさに少年の腕を掴み返した。
「どういうこと?」
ずっと、言葉が出ないのだと思っていた。
何かとてつもなく不幸なことがあって、声を失ったんだと思っていた。
けれど今、下を向き「ごめんなさい」と蚊の鳴くような声で呟く少年は、つい先ほど言葉を思い出したというわけでもなさそうで。
――私、だまされていたってこと?
「わけを話してもらいましょうか」
――逃げたら絶対泣かす。
少しドスの効いた脅しに少年は、既に半泣きだった。
* * *
「僕、植物、の。こ、声が聞こえ、るんです」
すわりの悪い椅子に無理矢理腰を降ろさせ、店のテーブルを挟んで向かい合う。
――僕、植物の声が聞こえるんです。
少年の告白は、そんな意外な言葉から始まった。
あまりしゃべることに慣れていないのか、考えをうまく言葉に出来ないのか。少年は何度もどもった。
「――あ、頭おかし、いんですよ、僕」
狂ってて。だから幻聴なんて聞いたりして。生きているだけで周りに迷惑ばかりかけて。死んだ方がいいことは分かっているのに、勇気がなくて死ねない。本当にどうしようもない人間ですよね。
嫌な感じの笑い方だった。自分を貶めて、嘲笑う。そんな笑みだった。
絵本に出てくるお姫様のような面に、そんな笑いは似合わない。
下を向き、ひたすらに自分を傷つける少年の姿を見ているうちに、鎮まりかけていた怒りが、再びちりちりと燃え上がるのを感じ。
だから、言った。
「馬鹿じゃないの」