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枷の鈴  作者: 紫空
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第一章 嵐の夜

 



 後に人々は、その年は前年の夏の始まりからおかしかったと振り返る。

 

 極端に雨の少ない雨期を過ごし、水不足に悩まされたその夏。今度は突然の集中豪雨で何度か街全体が水に浸かった。

 秋を過ぎ、やってきた冬は例年になく雪が少なく、穏やかなものだった。

 年をまたいでもそれは続き。

 

 結局、境目が曖昧あいまいなまま。

 

 水の都はいつもよりも早い春を迎えていた。

 

* * *





 少女の一日は長くて短く、いつも日没と共に動き出す。


 締め切った部屋の中。スタンドライトの明かりで読書をしていた少女は、ふと顔を上げた。

 

 古びたの柱に引っ掛かる照明が柔らかく室内を照らす。

 仕掛け時計の両端が開き、愉快な音楽隊が現れ、六時を告げる音楽を奏でた。

 

 分厚い遮光カーテンが垂れる小さな窓。そこから壁に漏れる光が無いことを確認すると、手にした本の読みかけのページにしおりを挟み、閉じて書き物机の上に置いて席を立つ。


 机から窓際までは歩いて八歩ほど。

 昼間、常に窓を覆っているカーテンは青い地をバックに白い雲を描いたもの。 

 少女は空が描かれた重い布を左右に開く。とたんに激しい雨音が耳を打った。

 外は春先だというのにひどい嵐のよう。


 

 窓に叩きつける雨粒。伝い落ちる涙に滲む街の明かりとコールタールのようなどろりとした闇。

 家のすぐ横を流れる水路に乱れ散る街灯の光。

 それら外の世界を透かす窓ガラスに、茶色のおさげ髪に緑の瞳をした少女の姿が部屋の内装と共に映り込んでいた。

 

「おはよう、ファム。さあ、気合入れるわよ」

 

 そう言って笑みを作れば、暗く沈むガラスに映る少女もまた艶やかに微笑む。


「いらっしゃいませ。ようこそカモメ亭へ! 今日はじっくり煮込んだシチューがおすすめですよ。 ――うん、完璧ね」

 

 身振り手振りも加え、窓ガラスで魅力たっぷりな営業スマイルを確認した少女は満足してうなずき、次に衣装棚に向かった。

 

 古くなり建て付けが悪くなった扉を無理矢理引き開くと、数枚かかっている衣装の中から柔らかな黄色のワンピースを手にとる。


 今日は雨降りだし、明るめの色がいいわ。


 手早く着替えを済まし、近所でも評判の美女だったという母親から譲り受けた鏡台の前に座ると三つ編みを解き、癖がついた髪をくしでとかし、再び三つ編みに結いなおす。

 最後に書き物机の椅子の背に引っ掛けてあったエプロンを身につけると、これで身支度は全て完了だ。


* * *


 部屋の扉を引き開き、薄暗く床鳴りのする廊下を渡る。

 突き当たりの扉を開ければそこは彼女の祖母が切り盛りする水の都の宿屋兼食堂、カモメ亭のロビー兼食堂だ。

 

 宿屋といっても二人部屋がたった四つしかないうえに、今どきシャワー室もトイレも完備されていない部屋にお金を払ってまで泊まりたがる客は少なく、近所でもここは宿というよりも大衆食堂としての認知度が高いらしい。

 

 食事時を迎え、たくさんの人々で賑わって――いるはずなのだが、今日も客らしき姿は無い。

 少女以外誰もいないそこには傷だらけの木張りの床に、使い古したテーブル・椅子たちが静かに控えている。


 ここ数か月、あの目の回るような忙しさが嘘のように、閑古鳥かんこどりが鳴く日々が続いていた。

 

 祖母いわく、最近奇妙な病が街中で流行の兆しを見せ始め、その噂からか観光客が激減し、地元の人々も外出を控えているのだという。

 

――ああ、つまらない。

 

 盛大なため息を吐き、開放型の調理場にまわると椅子に尻を落とし、調理場兼フロントのカウンターの上に顎を乗せてふてくされた。

 翡翠色の瞳で店内を見渡しても、客どころか経営者たる祖母の姿さえ無い。



 彼女の祖母は十代前半で結婚し、子供を産み、離婚をし。その時相手側から得たお金で宿屋を開業し、今は亡き母を女手一つで育て上げた女傑じょけつだ。 

 外見も中身も豪快を絵に描いたような大柄な人物で、孫である少女とは血のつながりを疑いたくなるほど全く似ていない。

 店を訪れた祖母の古い友人たちいわく「ファムちゃんは母ちゃんに似て本当によかったな」らしい。

 

 ただ、彼女を産んだ直後に亡くなったという母親と触れ合った記憶はファムには無く。

 写真の中で父親に寄り添い微笑む若く美しい母親の髪は祖母と同じ赤毛だった。


 

 閑散かんさんとした店内があまりにも淋しくて、少女はカウンターの上に新聞を広げ、テレビをつける。

 

――の新しい感染者が確認され、これで確認された感染者は二十八人となり――

 

 けれどもチャンネルを変えてもニュースや面白みに欠ける娯楽番組ばかりで。

 電気代の無駄だとばかりにリモコンの電源ボタンを叩いて投げ出すと、まともに目を通していない新聞の上に突っ伏した。

 

 なんと張り合いの無いことか。

 これではせっかく選んだ黄色いワンピースも着た意味が無いではないか。

 

 陽の光を浴びることが出来ず、祖母によって外に出ることを禁じられている彼女にとって日没から寝るまでのほんのわずかな時間。忙しい祖母を手伝い、時には得意の踊りで盛り上げ。そうして様々な人々と出会い、話を聞くことが数少ない楽しみであったというのに。



 おばあちゃんたら。いくらお客さんがいないからってこんな時間に店を放り出してどこで油売ってるのかしら?

 

「っていうか、これって経営の危機ってやつ?」

 

 手をカウンターの下にだらりと垂らし、頬だけを皺がよった新聞につけ、ファムが独りごちたその時だった。

 

 年季が入った入口の扉が蝶番ちょうつがいが割れ飛ぶのではないかという勢いで開き、大柄な影が店内に大股で入ってきた。

 扉に付いた金メッキのベルが激しく揺さぶられ悲鳴を上げる。

 そいつはカウンターに座る少女など目にはいらないとばかりに完全に無視し、何かを肩に担いだまま横切ろうとする。

 

 ちょっと待て。

 

 水も滝のごとくしたたる男物のズボンとシャツ。湿った足音を響かせる長靴が通った後には足跡よろしく無数の水たまり。

  

「おばあちゃん。どうしたの? 傘は? そのままじゃカモメ亭が床上浸水しちゃうわよ。……って、何よ、それ!」

 

「やっぱり安物の傘はしょせんそれまでの代物だね。さっき風に持っていかれちまったよ」

 

 水を吸い、すっかり重たくなった帽子を荷物を担いでいる方とは逆の手で床に落とし、店の明かりに夕焼け色の髪をさらすのは岩をも砕く巨人――ではなく。このカモメ亭の主人にして彼女の祖母、アルシェだった。

 


* * *




 さて、困った問題が起きた。否、祖母が持ち込んだ。

 

 宿泊客もおらず、新たに客がやってくる気配もなかったため、祖母にお願いして臨時休業の張り紙をしてもらい。二階の空いていた客室にそれを運び込んだ。


 激しく混乱する頭に手をやり、少女はなんとか事態の理解に乗り出す。

 

「おばあちゃん、一つ訊いてもいいかしら?」

 

 廊下を挟んで二部屋づつ。カモメ亭の四部屋ある客室はどれも同じような作りになっている。

 板張りの床と、壁と、天井。

 外套などを掛けるための小さな衣装棚。

 使い古した椅子が一脚。その上に枯れかけた観葉植物の鉢が一つ。

 硬貨を入れることで電源が入る旧式箱型テレビが一台。

 それから古い木製ベッドが二台。


 

 着替えを済ませ、二台あるベッドのうち一台に腰掛けた祖母は少女の問いかけに髪の毛を拭いていた手を止め、清潔な白いタオルの下から翡翠色の瞳をこちらに向けてくる。

 

「ん? なんだい?」

「あれは、何?」

「ああ、店の前に落ちててね。邪魔だったから拾ってきた」

 

――拾ってきた? 拾ってきたですって?

 

 あまりの非常識さに一瞬気が遠くなりかける。

 

 祖母が肩に担いで拾ってきて、現在宿泊客用ベッドのもう一方を占領しているそれ。

 タオルで適当に拭いただけで枕に沈む生乾きの髪は柔らかな糖蜜色。

 閉ざされたままの瞼を縁取る長い金の睫毛。

 まるで人形のように整った顔だち。

 壁際の照明を受け、白を通り越して青白い腕。けれど逆に熱に上気した頬と荒く繰り返される呼吸が、それに血が通っていることを教えてくれる。

 

 ずぶ濡れだったそれは意識のないまま、強制的に祖母によってむかれ。痩せて小柄な身体には横も縦も余り過ぎる祖母のシャツとズボンに着替えさせられている。

 それでも目覚めず死んだように眠り続けるそれはさながら深き森のねむり姫――否、王子様だ。

 

 服を脱がす際――少女は羞恥心から目を背けていたわけなのだが。祖母は何を見てか「なんだい。意外と――」などと聞きたくもない感想を述べていた。

 

 よけいな記憶まで蘇り、思わず顔に血がのぼる。

 熱を下げようと何度か顔の周りを払う仕草をする少女に祖母は「もう虫よけが必要な季節なのかね」と呟き、最近春なのに夏日が続いているからねえ。と一人納得して頷くよう。

 

「とにかく! あれは犬や猫じゃないんだから“拾ってきた”は無いでしょう。何があったのか説明してちょうだい」

「そうかい? じゃああれだ。そう、行き倒れ」

 

 行き倒れ。果たして本当にそうだろうか。 

 祖母の証言ではこのカモメ亭の入口前に雨の中、独りで倒れていたということになる。

 状況だけ見ればまさにそんな感じなのだろう。けれど少女にはそれではどうしても納得がいかない理由があった。 

 それは発見された時に彼が着ていた服だ。

 

「普通、パジャマで雨の中をうろつく旅人なんていないわよ」

 

 彼が着ていたもの。祖母が脱がせ、今は洗濯機の中で合成洗剤の泡や水と共に回っているはずのそれは、ほころびなどもあまり見られない質の良さそうな寝間着であった。


 

 がしがしと豪快に短めの赤毛を拭いていた祖母は水気を吸って湿っているであろう使用済みタオルを背後にぽいと投げ捨てる。

 

 先日シーツを取り替えたばかりのそこが汚れてしまうような気がして、少女はベッドで眠りつづける人物に気を遣い、小声で文句を言いながら足音をあまりたてないように歩み寄ると、ベッドの上にとぐろを巻く湿気ったタオルを回収した。

 


「さっきギル爺さんのとこに電話かけておいたから」

 

 ついでなのでこのタオルも一緒に洗ってしまおうと、ドアノブに手をかける少女の背に祖母が声をかけてくる。

 

――あのアル中の?

 

 振り返り、思い出す。 

 祖母の古い友人の一人らしい、年齢不詳の老人。

 とっくの昔に禿げあがった頭。深い皺を顔に刻み、カモメ亭の一階の片隅で座り、小刻みに震える手にはいつもアルコール類が入ったグラス、もしくはビンが握られていた。

 たしかかなりの額をツケてくれている。金返せというやつだ。否、そこは今、問題ではない。


「ちゃんとしたお医者様を呼ぶか、病院連れていくかするべきなんじゃないの?」

 

 たまに火傷とか風邪をひいたときに診てもらってはいるが、あの老医師にはどうにも不安がある。

 というか免許とか持っているのだろうか。正式に医者と呼んで良いものなのか。

 唯一良いところがあるとすれば祖母にツケという借金の弱みを握られ、夜中だろうと嵐だろうと往診してくれるという点だろう。 

 物心つく以前より普段は家から一歩も出たことがなく、ゆえあって外に出ることを禁じられている少女にとっては病にかかった時に頼らねばならない人物なのだが。

 

 アルコールが切れた時の手の震えがとてつもなく怖い。

 

「嵐の真っただ中に、こんな安っぽい大衆食堂に得体の知れない病人の往診に来てくれる奇特な医者がいたらね」

「じゃあ、警察呼ぶとか」


 着ていたものの質の良さや、ちゃんと手入れされているらしい髪の毛から見るにあの少年は路上生活者でもなさそうだ。きっと探している家族がいるに違いない。

 けれども祖母はにやりと笑うとベッドを指さし。


「雨の中、パジャマ姿でふらふらと出歩いて。しかも裸足ときた」

「えっと……あ、ほら。寝ぼけてふらふらっと……」

 

 夢遊病者とか。そこはかとなく漂うトラブルの気配に少女は湿ったタオルを手に身震いをする。

 

「――じゃなけりゃ、自殺願望者とか」

 

 黄色いワンピースの下を嫌な汗が伝った。

 

* * *




「ギル爺。あんたそろそろ酒控えたらどうだい? いい加減にしとかないと早死にするよ」

「人生太く短く。好きなことやって酒飲んでコロっと逝けりゃ、本望だわい」

「あんたそれ医者の言うことじゃないよ」

「それよりも診察代……」

「貸しがあるのはどっちだい? 出るとこ出てもいいんだけどね」

「ワシを脅す気か」

 

 

 扉の隙間から漏れ聞こえてくる、階段下で言い争う祖母と医者の声を聞くともなしに聞きながら、ファムは一人ため息をつく。

 古びた木製椅子に置いた氷水の桶からタオルを取り出し軽く絞ると、ベッドに眠る少年の額で熱を吸ったそれと交換した。

 

 椅子の四足の間で観葉植物が、変色した葉っぱを鉢の縁にぐったりともたれさせている。

 

 あの自称医者のアルコール依存症患者によれば。元々弱っていたところを雨に打たれて、肺炎をおこしかけているのだとかなんとか。

 今、街で流行り始めている謎の病とはどうやら違うということが分かり、ついつい安堵してしまった自分は思う以上に冷たいのかもしれないと、ちょっとだけ自己嫌悪に陥りかけた。 

 ちなみに祖母はといえば「そいつは良かった。流行り病だったら外に放り出してたところだよ」などと恐ろしいことを口にしていたりするのだが。

 

 とにかくあのまま雨の中に放置されていたら夜明けを待たず、少年は死んでいたかもしれない。その点に関しては祖母のお手柄というべきなのだろう。

 

 熱のためか、ときおりうなされ苦しげに眉を寄せる少年。寝返りを打った際にずれた濡れタオルを再び額に乗せてやりながら少女は考える。

 

 二つある白熱灯のうち一つが笠の中で切れてしまったために少し薄暗い室内。

 

 簡素な白いシーツに包まり眠る少年はとても中性的で。何も知らなければ女性と間違えてしまいそうだ。

 上掛けからはみ出す腕はとても細く。

 太陽の下に出たことが無い少女の肌も白い方だが、この少年の肌は白いどころか病的だ。顔もよく見ればひどくやつれている。

 

 質の良い寝間着姿で裸足のまま雨に打たれて。この少年はどこから来て、どこへ行こうとしていたのだろうか。

 

――自殺願望者とか。

 

 祖母の言葉が蘇る。せっかく生まれてきてせっかくこの世にあるその命を自ら断とうとする人の気持ちは彼女には想像もつかない。 

 彼女が生まれる前に事故で亡くなったという父親。彼女を産んだ直後に亡くなったという母親。二人は共に若く、きっとまだまだ生きたかったはずだ。

 けれどそういう人々がいるのもまた事実で。

 ならばこの絵本の中から飛び出してきた姫君のような少年も、そのような闇を胸の内に抱えているのだろうか。


 怖い。

 その闇に触れることが怖い。

 金の睫毛まつげに縁取られた瞼の下を知ることが恐ろしい。

 

――でも、見てみたい。

 

 不安と好奇心。相反する二つの感情を持て余し、もう一方のベッドに力なく腰を降ろし。少女はまた長いため息を吐いた。

 

 階下にてまだ続いているらしいやりとりが、扉の隙間からだだ漏れている。

 未だ降り止まぬ雨音が無ければ、祖母の大きな声がご近所の安らかな眠りを妨げていたことだろう。

 

 まったく、何があったんだか。

「ねえ、せっかく助けられたんだから死んじゃだめよ。図太く生きてみなさいよ」

 

 こうして季節はずれの嵐の夜は、さまざまな感情や事情を闇と冷えたつぶて混じりの暴風に内包しつつ、更けていった。

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