【短編】婚約破棄は、ワルツの前に。
「リリアン・フォン・トイテンベルクとの婚約をここに破棄する!」
私の婚約者クルト・フォン・シュタイン伯爵は、とても楽しげな声でそう言い放った。
その傍らには見慣れない令嬢の姿が見える。わざわざこの屋敷に見せびらかすために連れてきたのか。
クルト伯爵の声から脳裏に浮かぶ映像は、餌を目の前にした小動物。ネズミのような感じかしら。
私が絶望する顔を見てから、二人で美味しく昼食をいただくつもりだったのかもしれない。
頭に浮かぶネズミの映像から、ある程度予想はしていた。
もっともネズミを見た記憶はほとんどなくて、本で見た絵や想像のものでしかない。
「そうですか。分かりました」
私はテールブル上のカップを手に取り、紅茶を口に含む。
「……随分と落ち着いているのだな?」
「いえ、これでも驚いているのですよ? まさか予想通りの展開になるなんて、と」
「予想だと? 嘘を吐くな、どうせ痩せ我慢だろうが。お前の母親と同じだ、貴族としての気品もありはしない!」
伯爵の声から別の映像が目に浮かぶ。今度は暴れる駄馬、そういうイメージだ。
私は人の放つ声や音を聞くと、その人の感情が映像になって脳裏に浮かぶ。
この能力は、どうやら母から受け継いだらしい。
「お母様と同じですか……ふふっ、それは嬉しいことですね」
私が笑うと、伯爵は不快そうに顔を歪めた。
これは殴られるなと、私は咄嗟に理解する。頭の中の駄馬が思い通りにならないとさらに暴れていた。
ヒュッと風を切るような音が聞こえた気がした。
私は頭に浮かんだ映像のおかげで、背を反らし彼の手のひらを避けることができた。
代わりに持っていたカップが落ち、ガシャンと音がする。
伯爵は、私を平手打ちしようとしたのだ。
「……お前は本当に、自分の立場というものが分かっていないようだな。何か言い分はあるか?」
あまり話す機会が無かったとは言え、こんな男だったとは。
それらしい噂話もなかったので油断していた。
人となりは、やはり接してみないと分からない。
頭に浮かぶイメージから、薄暗いものは感じていた。でも、確信まで到らなかった。
はあ、と私は心の中で溜息をつく。
「いえいえ、滅相もございません。では、婚約破棄ということでよろしいですね? お話が終わったのなら、これで失礼します」
「……なに?」
クルト伯爵が眉を寄せる。
私は立ち上がって二人に一礼すると、すたすたと屋敷へ向かって歩きはじめた。
背中から伯爵が喚く声が追いかけてくる。そのイメージは奇声を発する植物、マンドラゴラの絶叫と言った感じかしら。
その様子は少し面白く、少し切ない。今までの、伯爵との時間は何だったのか、虚しくなってくる。
しかし——。
「えっ? ……死神?」
私は思わず立ち止まる。伯爵が連れてきた令嬢の笑い声が聞こえたから。そこまではいい。
同時に、黒いフード付きのローブを纏った者が大きな刃物を研ぐような、そんなあまりに不吉な映像が一瞬浮かんだのだ。
振り返ると、相変わらず喚いている伯爵と傍らで静かに微笑む令嬢の姿があった。
さっきの映像は一体何だったのかしら?
私は身震いしその場を後にした。
☆☆☆☆☆☆
私の実母は身分の低い平民だった。
それが父の目にとまり身分の垣根を越えて結婚することとなる。
母が私を産んでからは体調が思わしくなく、しばらくして亡くなったそうだ。
父は後妻を娶り、それが現在の義母である。
義母は私に対してきつくあたることもなく、弟たちと分け隔てなく接してくれた。
父も良い意味で放任主義だった。必要なものや教育は十分に与えてくれて、生活そのものには口を出さない。
弟たちも私を慕ってくれた。私を立派に育ててくれた家族には感謝をしている。
だからこそ、成り行きとはいえ婚約破棄をされて傷物となったことに申し訳なさを感じている。
もともと婚約は王族派内での結束を固めるためのものらしい。力を増している貴族派に対抗するために。
公爵令嬢という立場なのだから、結婚が政略的なものになるのは仕方ないと諦めていた。
それが、どんな相手でも。
でも実際に婚約破棄されてしまうと、その事実に、私は少なからずショックを受けていた。
私の様子を見て心配したのか、弟たちが声をかけてくれた。
「姉さん、また楽器聞かせて欲しいな」
「うん、いいよっ」
楽器を弾いていると、元気になってくる。
私は自分の奏でる音を聞いて、笑顔になる家族を見るのがとても好きだった。
父と出会う前の私の実母は、楽器を演奏して生計を立てていたようだ。
幸いにして私は母の才能を引き継いでいる。
ただ、楽器の演奏は平民が貴族のために行うもの、という古い考え方に縛られて、貴族の子供には誰も教えようとはしなかった。
それでも十歳になる頃には、母の形見であるリュート(雫型の胴を持つ、ギターのような弦楽器)で、簡単な曲なら弾けるようになった。
——そして、今。
私は楽団の一員として演奏をできるまでになった。
楽団は、近々行われる王国主催の舞踏会で音楽を演奏する。
今日はその練習日で、舞踏会会場に楽団の皆が集まることになっている。
私は早めに館に着き、一人で楽器を鳴らしていた。
「やあ、リリアン。調子はどうだい?」
声をかけてきたのは、私と同じ楽団に所属するクラウスという男性だ。
銀髪に碧眼、顔立ちははっきりとしていて、目を奪われるほどの美形。
クラウスは私の隣に座り、楽器を準備して鳴らし始める。
「ええ、まあいつも通りよ」
「そうかい? それならいいけど」
クラウスは、一瞬怪訝な表情を見せた。だけどすぐに長い前髪をかき上げながら笑った。
彼と出会ったのは半年ほど前のことだ。
私はその正体を知っている。実はこの国の第二王子その人なのだ。
実は何年か前にデビュタントでお会いしたことがある。
もっとも、その時私はドレスで着飾っていた。
彼もいかにも王子様ですという出で立ちだった。だけど、今は互いに平民着だ。
クラウスは私の正体には気付いていない。
「僕の方はどうだい? どんなイメージ?」
「クラウスは……そうね。うーん、なんだかすごく楽しそうね。可愛らしい子犬が雪の中を駆け回るようなイメージかな?」
「犬。しかも子犬」
声と楽器の音から浮かんだイメージを伝えると、不服そうに眉を下げるクラウス。
その顔を見て、私はくすりと小さな笑いを漏らした。
「ごめんなさい、あなたがとても嬉しそうだから、つい、ね。何かあったの?」
「それはね、秘密だよ」
仕返しとばかりに、クラウスは口角をあげニヤリとして私の顔を見つめてくる。
とてつもなく顔が整っているからドキッとしてしまうけど、私は悟られないように楽器を構えた。
でも、気付いてしまう。
クラウスの嬉しいこととは、恋。それもかなり本気のやつだ。
雪の中駆け回る子犬は、無邪気に見えても瞳には熱が籠もっている。
でも、相手は誰なんだろう?
第二王子のスキャンダル。王家の浮いた話は興味が無いけど、ことクラウスの恋バナは友人として気になる。
もっとも、相手がどんな令嬢であろうと私には関係ない話ではあるのだけど。
「リリアン、舞踏会の一曲目は、ワルツだったかな?」
「そうね。軽く二人で合わせておく?」
「それは、とても素敵だね」
楽団では、貴族としての身分は隠している。貴族が平民の真似をするな、などと言われたり、奇異の目で見られたり、気を遣われるのがイヤだったからだ。
私たち以外の団員は皆平民だ。
私は伯爵に婚約破棄をされたあと、夜になるとこの練習会場にやってきた。
婚約破棄自体は残念だけど、あのまま結婚していたら、とてもこんな自由な時間は持てないだろう。
「リリアンは、さっきまで少し悲しそうだったけど、今は元気そうだね」
「うん。楽器のおかげかな。あと、少しだけクラウスのおかげもあるかも」
「へえ、それは良かった」
続々と集まってくる楽団員を尻目に私たちは二重奏を奏で練習を続ける。
彼のリュート演奏は軽やかに舞い、それでいて情熱的な音色だ。
だけどひとたび合奏ともなると周囲に合わせ協調し、他人の演奏を引き立てるのが上手い。そういった面では遙かに私を凌いでいる。
だからこそ、彼との二重奏はとてつもなく心地が良かった。
私は幼い子供に戻り、子犬と雪の中を駆け巡る。
そんなイメージが頭に浮かぶ。
やがて私自身も子犬になって、二人して白く染まる原野をくるくると舞っていた。
楽しい。本当に楽しい。
舞踏会が待ち遠しいと心から思う。
練習が終わり、解散後のこと。
クラウスは私に近づき耳打ちをしてきた。
「リリアン、ひょっとしたら舞踏会でお願いすることがあるかもしれない」
「お願いって?」
「またその時話すよ」
今日はやけにもったいぶるクラウス。一体何があったのだろう?
例の、クラウスの好きな人のこと?
私はクラウスの背中を見ながら首をかしげるのだった。
☆☆☆☆☆☆
「婚約破棄を宣言したあのクルト伯爵だが、何者かに殺されたようだ」
婚約破棄から数日後、私は父の執務室に呼び出されると、開口一番にそんなことを告げられた。
あのクルト伯爵が?
「リリアンが婚約破棄された次の日、自室で倒れているところを見つかったらしい。残念ながら助からなかったそうだ」
「そうです……か……それで犯人は捕まったのですか?」
「いや、まだらしいぞ。伯爵家周辺で、黒いローブを纏った人物がウロウロしているのが目撃されたらしい。しかし、顔などは分からないようだ」
私は父の言葉を聞いてゾッとした。その風貌はまるで、先日見た死神のような映像の通りだったからだ。
確かあのイメージが浮かんだとき、クルト伯爵の傍にいた令嬢の声も聞こえていた。
もしかして、クルト伯爵を襲ったのはあの令嬢? ……まさか?
「そういえば、この前いらっしゃったとき、クルト伯爵はどこかの令嬢を連れていましたが……その方は?」
「それがな、クルト伯爵以外会ったものがいないそうだ。恐らく、リリアンに婚約破棄をした当日に出会ったのではないかと噂されている」
父はそこまで言うと大きくため息を吐いた。
私もそれにつられてため息を漏らす。まさか当日出会った女性だったとは。
どんな人間であれ亡くなったことは残念に思う。
「はあ、何だか疲れましたわ」
「そうだな。夜分に呼び出して悪かった」
「いえ……そういえば、どうしてその話を私に?」
そう聞くと、それまでトゲトゲしていた父の声のイメージが少し柔らかくなる。
まるで雪に閉ざされた道に、一筋の光が差し込むように。
父は、私が婚約破棄をされたと聞くと、もの凄い剣幕で伯爵家に抗議したらしい。
そのことは父から一言も聞かされておらず、弟たちが教えてくれた。
私のことを慮って伯爵家のことに触れないようにしてきたのに、今どうしてそんな話をするんだろう?
「実は私は、リリアンの母親に命を助けられて出会ったのだ。私が暴漢に刺されそうになったのを身を挺して防いでくれた」
「えっ……?」
初耳だった。身分違いで結婚した話の裏に、そんなことがあったとは。
「それから交流を持つようになり結婚した。とはいえ身分違いの結婚だ。同じ家門の連中からは色々言われたがな」
そのことを嬉しそうに言う父の姿が、不思議と少しカッコよく思える。
「とてもよく気が利き、勘がよく、いつも助けられていた。彼女を失ったとき絶望は耐え難いものだった。しかし立場上……いや、もうこの話はすまい。ただ、伯爵が刺されたと聞いて、少し心配になってな」
「心配、ですか?」
「うむ。リリアン、自分の身を一番大切にしなさい。自らの身を守るため、誰かを見捨てることがあってもそれを恥じる必要は無い」
「は、はあ……?」
父の口から飛び出したのは、随分と曖昧で、それでいて突飛な忠告だった。
言いたいことはわかるのだけど、誰かを見捨て身を守るなんて、一生のうちどれだけあることだろうか?
私が要領を得ていないのを感じたのか、父は遠い目をしながら話し始める。
「私はお前の母親に助けられたと言ったが、危ないところだったのだ」
「お父様がですか?」
「いや、私ではない。少し間違えば、彼女は大けがをしていたし最悪死んでいてもおかしくなかった。それでも、私を助けてくれたのだ。その時、私たちは初めて会ったのに」
なんとなく言いたいことが分かってきた。
つまり、母と私を重ねているのだろう。
「私もそうなると?」
「ああ。リリアンは母親によく似ている。その美しさも、聡いところも。だから気をつけなさいということだ」
私に対してあまり説教じみたことを言わない父だったので、少し新鮮で嬉しかった。
「分かりました」
「はは、すまん、いきなりこんなことを言われても困るよな。まあ、頭の隅にでも置いておいてくれ。ではもう休みなさい」
父の声からイメージするのは、大きな木だ。私を見守ってくれる、優しく大きく、大地に根ざした大きな存在だ。
それは優しさに溢れていた。
☆☆☆☆☆☆
そして、舞踏会当日。
夜になり、会場に続々と着飾った貴族たちが集まってくる。
その煌びやかな姿に、洗練された立ち振る舞いに、楽団員たちは目を奪われている。
私とクラウスは楽団員として会場の隅の席に座り、コソコソと小声で話していた。
「リリアン、どう? 今日の僕は?」
妙に気取り、おどけて笑うクラウス。
「そうね。結構似合っているわ、そのメガネ。印象が普段と全然違って新鮮ね。それに、長い髪の毛も案外良いわね」
クラウスは白を基調としたスーツを着こなしている。
ただ、ウィッグが気になるのか、しきりに手で触っていた。
「ありがとう。リリアンも綺麗だよ。アップにした髪もドレスもよく似合っている」
「そ、そうかな?」
本当は変装のつもりだけどね。
もちろん、クラウスも同じで変装なのだろう。
舞踏会には、どうしても私たちの顔を知った貴族が集まる。
平民しかいないはずの楽団員に貴族や王族が紛れ込んでいることを気付かれると色々面倒だ。
だから用心しての変装だった。
もっとも、会場の隅で演奏している者に注意を払う貴族なんていないのだけど。
「はぁ、女の子は服や髪型で印象変わるから良いよなぁ」
「そうかな?」
「そうだよ。このメガネがねぇ——」
ひとしきり変装の愚痴をこぼし私を見つめるクラウス。
相変わらず、瞳には熱が籠もっている。
イメージとしては、うーん。なんか前より大きくなった……犬。
だけど人なつっこく、私に懐いているというか。
この会場に、彼の思い人がいるのではないか?
誰なのだろう?
気になってしょうがないので、聞いてみることにする。
「それでクラウスは、誰か気になる人はいるの?」
そう聞くと、クラウスは一つ声のトーンを下げて私を見つめてきた。
おっ? 本音で話してくれるのか?
しかし、期待した話にはならなかった。
「気になる人はいるさ。リリアン、ちょっと君の力を借りたいんだけど、実は……うーん、えーっと……し、知り合いから聞いた話なんだけど、今日ここに集まった中に、危ない奴がいるらしい」
歯切れが悪いのはきっと、自分の身分——第二王子であることが私にバレていないと思っているからだろう。
「危ない奴?」
「あー、うん。どうも、第一王子の命を狙う不届きな奴がいるらしくって」
「それって、殿下を暗殺しようってこと? この舞踏会で?」
「話が早くて助かる。前から怪しい動きがあったけど、今日照明を許可無く操作しようとする不審者がいたから捕まえてみたら、暗殺が計画されていることが分かったみたいだ。それでさ、この大勢の中に刺客が紛れていないか、リリアンに分からないかなと思って」
気になる人って、そういう意味で聞いたんじゃ無いんだけどな。
つまり、私の能力、人が放つ音を聞くことで、感情を知ることができるという力でなんとなかならないか? ということだ。
暗殺者を見つけ阻止するために。
「確かに可能性はあると思うけど……クラウスこそ大丈夫なの? そんな重大な話を私にしても」
「大丈夫。君のことは信頼しているから」
お気持ちを表明されたところで、まったく答えになってないんだけどなぁ。
私が暗殺者に通じていたらどうするつもりなんだろう?
「分かったわ。でも、失敗しないとも限らないから、あなたのお兄、じゃなくて、殿下にそう伝えておいたほうがいいと思うの」
「わかった。おや、そろそろ出番だね」
他の楽団員たちの準備も整ったようだ。いよいよ舞踏会が始まる。
『ご来場の皆様方、本日はお集まりいただき誠にありがとうございます』
そんな第一王子フレデリック殿下の声で、舞踏会が始まる。
彼はにこやかに微笑み会釈すると、そのまま会場の中心に向かっていく。
その様子を見て、私はついクラウスに抗議の声を上げた。
「ちょっと、危ないことが分かっているのに、どうして普通に踊ろうとしているの?」
「ああ、兄は卑怯な手に屈するのが嫌いなんだよね。結局カッコをつけたいだけだけど」
貴族たちに紛れて、騎士が周囲を警戒しているのだろうけど。
それにしても危うい。自分はやられないという、絶対的な自信があるのだろうか?
私は耳を澄まし、ざわめく会場の音に耳を向ける。
「じゃあ、一曲目はワルツ……って、リリアン!? どうしたの?」
名を呼ばれたことも気付かないほど、私は動揺していた。
第一フレデリック王子殿下が手を差し出した令嬢の顔を見て、背筋が凍る思いがする。
そうだ。確かあの令嬢は、婚約破棄された時にクルト伯爵と一緒にいた令嬢だ。
「あの人は……誰?」
「ああ、第一王子の婚約相手だ。隣国、フィガロ公国の公爵令嬢。婚約はこの舞踏会で発表される」
カツカツと令嬢の歩く足音が、妙に耳につく。
同時に私の頭に浮かび上がる映像がある。それは、死神。かつて見た、黒いフード付きのローブを纏った者が大きな刃物を研ぐような、そんな光景だ。
まさか、まさか本当に?
いや、落ち着こう。まだそうと決まったわけじゃない。もっと情報が必要だと思う。
だけど、考えている暇があるのだろうか?
クルト伯爵は殺された。あの令嬢がやったのだとすると、今頭に浮かんだ映像は暗殺者が人を殺す前に見えるものなのかもしれない。
もし、この会場で第一王子殿下が殺されたら……その影響は計り知れない。
どうする?
クラウスに伝える? それで間に合うの?
今立ち上がり、フレデリック殿下の元に駆け寄れば彼を救えるかもしれない。
だけど、ここで目立てば私が公爵令嬢だと気付く人がいるはずだ。
そうすれば、もう二度とこの楽団で楽器を弾くことができなくなるかもしれない。
もし、暗殺者に返り討ちにあったら?
もし、私の見当違いだったら? 何事も無いのに、騒ぎを起こせばタダでは済まない。
将来王妃になる可能性がある人物に、ケチをつけることになる。
『まず第一に自分の身を一番大切にしなさい。自らの身を守るため、誰かを見捨てることがあってもそれを恥じる必要は無い』
父も言っていたじゃないか。
ここでもしフレデリック殿下が危ない目に遭っても、私のせいじゃない。誰も私を責めない。
そもそも、私の思い違いかもしれない。
だとしたら、わざわざ騒ぎを起こす必要は無い。
このまま、黙っていれば、フレデリック殿下がどうなろうと楽器を続けられるかもしれない。
このまま、黙って——。
このまま——。
「ふう」
私は溜息をついて、クラウスを見つめた。思わず目頭が熱くなる。
「今までありがとう」
「うん? リリアン? どうした? どうしてそんな顔を……?」
「一緒に楽器やってて楽しかったわ、クラウス。そして、楽団のみんなも」
ダメだ。
どうしても見過ごせない。この込み上げてくるような熱い思いも母が私に残してくれたものだろうか?
「ありがとう……ね」
私は楽器を椅子に置き立ち上がり、ダダッと駆け出した。
「えっ? リリアン? どうしたんだ急に!」
クラウスは私の急な行動に驚いている。でも今は説明している時間はない。
頭の中で広がる死神のような映像は更にくっきりとして、刃物を研ぐ音が次第に速くなっている。
見ると、フレデリック殿下が貴族たちを見渡した瞬間、傍らにいた婚約相手の令嬢が、スカートに隠していた小さな刃物を素早く取り出した。
ああ、やっぱり。すぐに行動して良かった。
「殿下! お下がりください!」
私は叫ぶように声を上げながら駆け寄る。バツッと音がして髪を留めていたピンが弾け飛んだ。
髪の毛が後ろになびく。
「あれはトイテンベルク公爵家のリリアン嬢じゃないか?」
私に気付いた誰かの声がする。だけどそんなこと、もうどうでもいい。
ナイフを手に、今にも切りつけようとしていた令嬢の腕をグッと掴む。
間一髪間に合った!
そのまま腕を捻り上げ拘束しようとするけど、なんという力だ。私は空いた手で突き飛ばされた。
思わずナイフを持つ令嬢から手を離してしまい、そのままバランスを倒し後ろに倒れる。
私たちの様子を見て、フレデリック殿下の目前に数名の男性が盾として立ちはだかる。
よかった、もう大丈夫だろう。
しかし暗殺に失敗した令嬢の怒りが、無防備な私に向かっていた。
キラリと光る小さな暗殺用の小さなナイフ。それが私めがけて振り下ろされようとしている。
もうダメかも——と思ったその時だった。
「そこまでだ! 動くな!」
なんとクラウスが令嬢の首元に剣を向けていた。彼も動いていたらしい。
よほど慌てて走ってきたのか、ウィッグが取れ、メガネも落としてしまったらしい。
どう見ても第二王子の姿になったクラウスがそこにいた。
「クッ!」
目をつり上げ、凶悪な表情をした令嬢は、観念したのか暗殺用のナイフを放り投げ投降したのだった。
☆☆☆☆☆☆
それから間もなくして、私は控え室で手当を受けていた。
といっても、後ろ向きに倒れお尻を打っただけで、これといって怪我はない。
控え室にはいつのまにか、私とクラウスだけになっている。
「人払いをした。今この部屋入れるのは僕とリリアンだけだ。安心して良いよ」
「……はぁ。いったい何がなんだか。あの令嬢はどうなるの? あなたのお兄さんの婚約は?」
「兄の婚約は破棄された」
婚約にまで辿り着いた隣国の公爵家が、どうして暗殺を企てたのか?
いろんな憶測があるようだ。
王族派と対立している貴族派の差し金ではないか?
クルト伯爵に近づいたのも、王族派の牽制と、暗殺の訓練を兼ねていたのかもしれない。
もっとも、これは私の想像ではあるのだけど。
「それで、いつから僕が第二王子だと気付いていたんだい?」
この件で私とクラウスは、互いに隠していた立場がバレてしまった。
会場にいた全員に。
「最初からです。クラウスは……いえ、クラウス殿下は私に気付いていたのですか?」
「今まで通り、クラウスで良いよ。僕も同じく最初からだ——じゃあ、お互い気付いていたのに気付かないフリをしていたってことだね」
「うん、そうね」
くすっと二人で笑い合う。今思えば、それも楽しかった。
これからどうなるのだろう? そう考えると、少し切なくなる。
楽団での立場も危うい状態だ。
クラウスは思い人がいるようだし、これから気軽に会うことはないのかもしれない。
コンコン。
その時、不意にドアをノックする音がして、一人の男性が控え室に入ってくる。
第一王子フレデリック殿下だ。挨拶をすると、座っている私に近づいてくる。
私は立ち上がろうとしたけど、クラウスに制され座ったまま話をすることになる。
「大丈夫かい? リリアン——嬢。危ないところを助けてくれて感謝している。礼を言う」
「いえ、私は無我夢中でやったことなので。殿下に怪我がなくて何よりでした」
殿下は私を見て微笑むと、すぐ隣に立つクラウスに目を向けた。
「で、二人とも、楽器の演奏はできそう?」
「え? まさか舞踏会を続けるつもりなの? 兄さん」
「ああ。誰も怪我はなかったし、他の貴族も一応調査済みだ。何より、悪意に屈するのは好かん」
ううーん。もしかして、兄殿下がこの調子だとクラウスは結構苦労しているんじゃないだろうか?
いやいや、やめた方が良いと説得するクラウスだったが、全く意に介していない。
「いざというときは君が助けてくれるだろう? 音楽家は耳が良いと言うが、心の声まで感じるとは」
そう言ってフレデリック殿下は私の前に立った。
「私も晴れてフリーの身だ。会ってみてその美しさにも心惹かれた。その能力を是非、私のために使って欲しい。まずは婚約して——」
クラウスが彼の声を遮り、私を庇うように立った。
突然のことが立て続けに起きて私は言葉を失う。
フレデリック殿下が私に結婚を申し込んで……それをクラウスが止めようとしている……?
「彼女は僕と一緒に楽器を弾くパートナーだ。他を当たって下さい」
クラウスの声には凄みがあった。いつもの子犬のようなかわいい印象ではない。
凄まじく力強い、大型犬? いや、狼? 違う。伝説の魔獣フェンリルか。
家よりも巨大な体躯をのけぞらせ、大きな牙の並ぶ口を開き、血走った瞳で威嚇する。
その映像に、その声に、その堂々たる姿に、私は思わず身震いする。
同時に何か別の思いが、私の心を焦がした。
「ほう? これはなかなか凄まじい気迫だな、クラウス。いつもそうしてくれると助かるんだが。それほどリリアン嬢を想っているのなら大切にすることだ」
「言われるまでも無くそうする。話は終わりだ」
「本当に噛みつきそうな勢いだな。分かった分かった、この話はもう終わりにしよう」
ふう、と一息ついてフレデリック殿下は少し口角を上げて続ける。
「クラウス、舞踏会の続きがもうすぐ始まる。なんだったら、二人で踊ってもいいだろう。楽器の演奏をしても構わない。それに文句言うやつがいたら私がなんとかする。今さら、古い考えなど捨てるべきだろう」
「……兄さん?」
「では、失礼する」
そう言い残して、フレデリック殿下は控え室を去って行った。
落ち着いた空気が部屋を満たし、クラウスが振り向く。
そこには震えるほどの凄みはなく、懐かしく温かい雰囲気が漂っている。
私は混乱しつつも、先ほどの出来事を整理しようと頭を巡らせた。
「ねえ、さっきのって……どういう意味? クラウスは……えと、私じゃなくて誰か他に好きな人がいるんだよね?」
「どうして?」
「私が婚約破棄された日にね、すごく嬉しそうで、好きな人と良いことがあったんじゃないかって思ってて」
「あ、ああ、あれはさ」
コホンと咳払いをして、クラウスは照れ笑いを浮かべた。
「リリアンが婚約破棄されたから、僕にもチャンスがあるのかって思って。でも、そんな不幸を喜ぶようなことを本人に言えないだろう?」
「…………え?」
「ははっ。僕の本音だよ。これで嫌われるようならそこまでだ。リリアン、君のことが……ずっと好きだった。最初に一目見たときから」
「えええええええっ?」
クラウスは頬を赤く染めながら、恥ずかしそうに言った。
まさかそんな前から? そんな素振りは全くなかったのに?
いや、誰か好きな人がいることは彼の声からイメージする映像で分かってはいたけど。
「それにリリアンは、公爵令嬢であることを隠していたはずなのに、露呈を恐れず、危険を顧みず他人の危機に立ち向かった。その姿に僕は痺れてしまった。僕に勇気をくれたのも君だ」
「そ、そんな……あれは本当に無我夢中だっただけだよ」
「じゃあさ、そんな危なっかしい君をずっと守っていきたい。いや、守らせて欲しい」
真剣な表情で訴えたクラウスは私に向かって手を差し出す。
「でさ、もしよかったら、最初の一曲だけ一緒に踊らないか? リリアン。その後は、みんなで演奏しよう」
私は立ち上がり、告白の返事をするようにクラウスの手を取る。
その手は少し震えていたけど、力強く私を引っぱってくれた。
欲望や陰謀にまみれた世界にいても。
闇にぶつかる度に、絶望することがあっても。
共に歩いていける、そんなパートナーがいたら。
きっと前を向いて歩いて行ける。
私を心から愛してくれる人がいる限り。
「クラウス、舞踏会の一曲目はワルツだったよね?」
「うん。練習として、軽く二人で合わせておこうか?」
「それは、とても、とても素敵ね」
本番前の控え室で。
私たちは初めてなのに、なぜか息がぴったり合った、二人だけのステップを踏んだのだった。
そして、舞踏会が始まる。
あの、待ち焦がれた舞踏会が——。
【作者からのお願い】
★★★★★を押して応援していただけると、創作の励みになります。