おまけ 護国将軍の懊悩
夕食前、今日も食事に間に合うように帰宅したフェリックス・レノックス将軍を出迎えた妻キャロル姫に、彼は少し目を見開いてから窘める色を宿した。
「どうして起きて来たんだ。まだ本調子ではないだろうに。俺の事はいいからゆっくり養生するよう言っただろう?」
するとキャロルは心外だとでも言うような顔でじとりと彼を見つめた。
「ご心配は大変に有難いのですが、平気だから起きたのです」
睨まれたと内心レノックスがたじろぐと、しかし直後、彼女はもじもじとし出した。因みにフェリックス・レノックスという男は誰かに睨まれたくらいで動揺するような可愛いたまでは決してない。唯一の例外が現在彼の目の前にはいるのだ。
キャロルは堪えきれない様子で頬を染め、レノックスの顔を見つめてくる。
「ここ数日旦那様をお出迎えできませんでしたけれど……ようやくできました。お帰りなさいませ、あなた」
にこりと嬉しそうにはにかむ幼妻に、十歳上の夫は慄くように両目を見開いて一歩を引きそうになった。
キャロルは太陽でレノックスは蝋でできた翼を背負っていたわけではなかったが、彼はこれ以上は溶ける、と何か保身的なニュアンスの思考でそうしたのだ。
レノックスを捜し回った寝不足の日々が祟ったのか数日寝込んでいた彼女は、その間溜ったレノックスへの愛を纏めて表現したかのように、周囲に幻覚の花さえ咲かせてみせる。見ようによっては帰宅した主人に猛烈に尻尾を振って感激を表する子犬も然りなのだが、周囲に控える使用人達は心得たもので黙ったまま水を差したりはしない。
とにかくキャロル姫は姫だけあって輝いていた。レノックスが自らの思考をあけすけに口にする男だったのなら「っっっっ、何と愛くるしい……!」と胸を押さえて少し硬めの表現を叫んでいたかもしれない。要はめっちゃ可愛いなおい、という意味だが彼は生真面目で堅物なレノックス将軍だ。まさか周りに人のいる場所ではそんな真似はしない。いなくてもしない、たぶん。
「あの、フェリックス?」
反応がないのに怪訝にするキャロルへと、レノックスはハッと我に返った。
「ああ、いや、ただいまキャロル。もう本当に何ともないのならいいんだ」
彼が表情を和らげると彼女の方もより深く相好を崩した。彼の機嫌が直って少し安心もしたのかもしれない。
「夕食の準備はできているそうですので、着替えが済んだら一緒に行きましょう?」
「ん? ああそうだな」
ここ数日はレノックスの指示で大事を取ってベッドの上で食事を摂らされていた彼女は、少しはしゃいでいるように彼には思えて微笑ましい気持ちになる。
「やはり人間健康が一番なのだな」
「はい? まあそれはそうですよね」
キャロルはよくわからないような顔をしたが、仕事着たる軍服から今日も綺麗に着飾った彼女に見合う格好に着替えるためにもレノックスは歩き出そうとして、しかしすぐに足ではなく腕を動かした。妻へと差し出したのだ。部屋までのエスコート。
衣装チェンジくらいならこれまでもキャロルは恥ずかしそうにしながらも、これも妻の務めと手伝ってくれていた。そしてまた、レノックスがこうして部屋までの道のりをエスコートして歩くのも。
ただ、今までは相手を立てるためのどこか形式的なものだった。双方の本音はどうだったにしろ。
「ふふっ、では参りましょうか、旦那様?」
意図を察したキャロルは茶目っ気と共に躊躇いなくレノックスの腕に腕を絡めて幸せそうな目を向けた。レノックスは柔らかな目で妻の眼差しを受け止める。二人は支え合うようにして歩き出した。
少し前までどこか互いに遠慮がちだった二人の空気はすっかり自然なものに変わっていた。
本音をぶつけ合って心を通わせて間もないが、二人の思い遣りは時間の長さにかかわらない。
まるで最初から決まっていたようにピタリとはまるパズルのピースのようだった。
着替えて着席したダイニング。
二人の席は極近い。主人の椅子には当然レノックスが。その角を挟んだ隣にキャロルが腰かけている。腕を伸ばせば相手の口元を拭いてやれる距離だ。
料理の皿は既に大半が揃っており、後は食前酒を注がれるのを待っている。
(それにしても、病み上がりだと言うのに……)
今日もキャロルは美しく着飾っている。レノックスのために。
「キャロル」
「はい?」
「今日も見事だな」
「え? ええと……?」
レノックスは言葉のチョイスをミスった。彼自身も気付いて慌てて取り繕う。
「ああ、その、いやな、……今日も綺麗だよ」
「――!」
瞬時に真っ赤になったキャロルからは小さな声で「あ、ありがとうございます」と聞こえた。レノックスも余計に顔が熱くなったが、努めて平静を装った。
きちんと告白してから初めての二人きりの食事だ。何となく照れ臭いものを感じて給仕係がグラスに注ぐ葡萄酒を熱心に見つめるふりをしていたレノックスは、意識していた視界の端でキャロルが動いたのにすぐさま反応する。
彼女の方へと視線を向けると、ポケットから何かを取り出したところだった。
彼女は下げていた視線を上げてレノックスの方と合わせると、その手ではおずおずとして取り出した物を差し出した。
「フェリックス、これを」
レノックスは妻の差し出してきた両手の上にある、彼にとっては意外な物に目を丸くした。
綺麗に畳まれているハンカチだ。
しかも、見覚えのあるような刺繍が入れられている。
見覚えのあるようなとしたのは、彼の見慣れたものとは少し形が異なるように思ったからだ。
以前彼女から贈られて後生大事に肌身離さず持っていたハンカチにしてあった刺繍と。
「……上達したな」
思わず素直な感想を言葉にしてしまったレノックスはしまったと青くなる。これでは前の作品をディスっているも同然だ。
「あ、いや、前のも前ので中々愛らしい出来映えで、俺はとても気に入っている! だからこそいつも身に付けていたし、そもそもあなたからの贈り物に出来云々を言うつもりはないんだ!」
慌てて言い訳じみた言葉を重ねるレノックスは今にもキャロルが怒り出しはしないかと内心ヒヤヒヤだった。彼女は何も言わないまま、大きな瞳でレノックスを見つめている。
折角歩み寄れたのに早々に喧嘩などしたくない。加えて彼女は病み上がりでもあるのだ。怒りが負担になって熱がぶり返しでもしては大変だと彼は焦った。
最早食事など頭から飛んでいる。
くすっとキャロルが小さく笑った。
瞬時に固まったレノックスが凝視してしまうと、彼女はやや恥ずかしそうにしながらも続く笑いを堪えきれないようでくすくすくすと小刻みに肩を震わせる。
「ええと、キャロル?」
さすがに困惑していると、一頻り笑い終えたキャロルはレノックスの手を取ってそっとハンカチを彼の皮の硬いその手の上に乗せた。
「ここ三日、ベッドから出られなくて退屈でしたので刺繍してみました。あ、もちろんフェリックスにもらってほしくて一針一針丁寧に手を抜かずに刺したのですよ」
キャロルはふわりと両目を細めた。
「ふふっ、短期間で仕上げてこのレベルですし、本当に上達したでしょう?」
自分を持ち上げる発言への照れを滲ませた彼女の花が綻ぶような笑みに、レノックスは雷に打たれたように息を止めてしまった。見る間に耳まで赤くなる。
思わず渡されたハンカチを握り締めそうになってハッとして指先までを広げ強張らせた。彼の握力ではシワが寄るのは確実だったからだ。自分の賢明な反応にどこかホッとしつつ、彼はゆっくりとハンカチを持つ手を自身に引き寄せた。
そして、そっと妻の刺繍に口付ける。
「ありがとうキャロル。大事にする」
微笑むと、今度はキャロルの方が両目を見開いて頬を染めた。レノックスの無防備な笑みはSSR――ダブルスーパーレアなのだ。しかも今は輪を掛けてこの気障な行動ときた。
「あ、あなたって時々……」
「うん?」
「とてもこっちが恥ずかしくなるくらいに甘い男なのですね」
キャロルの少しだけ逸らされた視線が彼女の初さのようで、レノックスは心臓が物凄い早さで動いているのをどうしたらいいのかと唸りそうになる。直視していては身がもたない気がしてくる。
(ま、まずいな。これでは食事どころではなくなりそうだ)
すぐにでもキスしたいと彼は思って、しかし自制しろと必死に言い聞かせた。
彼の内面の荒波など露知らずの彼の妻は途中からキョトンとして夫を見つめている。
(ああ、手習いの成長だけではなく、彼女自身も本当に……)
今でも鮮明な出会いがとても懐かしい。
あの時はこうして夫婦として食卓を囲むなど想像もしなかった。
人生とは実に予測不能の連続だ。
(思い返せば、昔からそうだった――)
――きっと、貴族の婚外子として生を受けたその時から。
フェリックス・レノックスはとある貴族の男とそこに仕えていたメイドだった娘との間にできた子供だ。
その貴族はレノックスの母親が彼を身籠ったと知るなり屋敷を放逐した。
婚外子など不要。責任は持たない。直接手を下したりはしないが困窮して死ぬならそれでもいいとそう思っての酷な仕打ちだった。
当然、レノックスにその貴族の父親の姓を名乗る許しは与えられず、母親の姓であるレノックスを名乗った。
母親は相当苦労してレノックスを育てていた。毎日のパンの一つにも事欠くような極貧生活を送っていたのだ。
働きづめでろくな食事も食べられないでは、体を壊すのは言うまでもない。
レノックスの母親が厄介な病を得たのはいつ頃からだったのか彼にもわからない。少しずつ咳をするようになって、明確に病だと気付いた時には生活の一部かのように常に酷く咳き込むようになっていた。日によっては血さえ吐いた。そうして夏が過ぎ冬が過ぎ春の始まりの頃、母親は更に体調を悪化させてレノックスから永遠に去った。
彼が十歳になるかならないかの時分だった。
悲しみはしたが、そればかりでは早々に母親と同じ場所に行くしか道はなくなる。それは少年心にも嫌だった。
いつか父親に復讐してやりたいと考えていた彼には易々と死んでやるつもりなどなかったのだ。
どうにか生きるために、彼は傭兵となった。
この国では当時から現在に至るまで周辺国との戦争はしていなかったが、王国の正規兵ではない傭兵は需要があった。何しろ魔物の出現と襲撃が頻繁だったからだ。
少年兵にしても決して珍しくはなく、彼の他にも沢山いた。年齢も下から上までといて、彼は入った傭兵団の少年兵の平均よりもやや若かった。出される食事は固く乾いたパンと細く切った干し肉入りの薄いスープなどでおよそ足りなかったが、物乞いするよりはマシだったし、盗みを働いて殴り殺される危険や良心の呵責と比べれば絶対的に心は安定した。
満足ではない戦闘訓練を受け与えられた粗末な武器で魔物と戦いながら、彼は初めのうちは本能的な直感と身体能力を頼りに必死に生き延びた。こんなところで死んでいられるかと意地でも死なないつもりで剣を振るった。
運もあったろうが、時に人の才能とはどこにどう転がっているのかわからないもので、彼には剣士としての才能があった。その成長は周囲も目を瞠るもので、魔物との戦闘を重ねるごとにメキメキとその頭角を現していった。
傭兵団での地位も上がり、当然食事もちんけなメニューではなくなっていく。有能な者には相応の物が与えられたというわけだ。食べ物がより栄養のある物に変われば、体造りもそれに準じる。
入団から数年後にはまだ少年にもかかわらず彼の戦闘への参加の有無が勝敗を分けるようにもなっていた。
脇目も振らず斬って斬って斬って斬りまくった。年齢が上がるにつれより戦功は目覚ましく噂にも上がるようになり、単なる傭兵にしておくには惜しい逸材と正規軍にスカウトされるのも時間の問題だった。
十五歳で傭兵から正式に王国軍人になったレノックスは、その後も戦いぶりは変わらなかった。
彼には撤退や敗北という言葉がないのではと囁かれる程に魔物相手に連戦連勝。淡々と殺戮をこなす日々。
戦闘三昧の彼を揶揄して戦闘狂などと言う者達も出てきたが、やっかみを孕んだそんな言葉に腹は立たなかった。もっと酷い言葉はとっくに経験済みだったせいもあるが、評判も周囲の思惑もどうでもよかったのだ。
何しろ彼の根底にあったのは父親への復讐だったから、そこへ向かうのに不要なちょっかいや些事にいちいち反応するなど面倒でしかなかった。
人はレノックスを真面目だとか実直と言うが、彼本人はそう思ってはいない。単に冷淡なだけだと。
戦功を立て父親よりも高い地位を得て見下してやりたい。家の評判を地に落としてやる、と執念を燃やす男のどこが実直なのかと正直疑問だった。
将軍の地位を得て国王の覚えもめでたくなり、社交界でも注目され始めると、彼は貴族の婚外子だと公言してはいなかったが、さすがに彼の存在に父親も気付いたらしい。
一度会いたいと、とうとう手紙まで送られてきた。
ふざけるなと腹が立つ反面、ようやく復讐出来るところまで来たともほくそ笑んだ。
しかしそんな矢先、父親が死んだ。
会いもしないうちに死んでしまった。
衝撃だった。母子を棄てるような最低な男でも実の父だから、と悲しんだわけではない。
生きる目的が唐突に消えてしまったからだ。
それでも襲来する魔物は勝手に消えてはくれない。
心の整理が上手く付けられないうちに彼は戦場へと身を投じざるを得なかった。そのせいか以前にも増して怪我を顧みず、また恐れず戦うようになっていた。無謀とも言えた。戦果は戦闘に躊躇いのない分だけ上がり、魔物の断末魔にも何かを感じはせず、彼は常に淡々として返り血を浴びる日々にいた。戦闘狂どころか死体量産人、死体職人と言われた事もある。
水面に映った血染めの姿に魔物よりも余程醜悪なものを見ていると自嘲を込めもした。加えて、いつしか怪我も仲間の死も仕方がないものと思うようにさえなっていった。
生に無頓着で、大志もなく戦って眠りまた戦って眠るだけの自分が、人間の形をしただけの空虚な人形になったみたいだった。
功績を挙げ称賛されても、心から誇らしくなど思えない。最早何のために生きているのかわからなくなってしまっていた。
あの日までは。
その日、久しぶりに王都へと帰還し指揮官の仕事の一つとして王城での練兵を終えた彼は、何となく誰かとは居たくなくて以前に見つけていたひと気のない水場の井戸で一人汗を流していた。
まさか、幼い王女と出会うなどとは当然予想もせずに。
振り返って姿を見た時はどこかの貴族の子供だと思ったし、誰かと遭遇する予定ではなかったために彼は結構本気でびっくりした。
ただしびっくりしたのはそれだけではない。
泣かれた。……泣かれた!
これまで誰に体の無数の傷を見られても何とも思わなかったのに、本気で動揺もしてしまった。
小さな少女から傷を案じられるなど、思いもしなかったからだ。
間もなく少女は王女だとわかり、彼は彼なりにとりあえずは精一杯の臣下の礼を尽くしてそそくさと退散したが、彼は井戸端を離れながら不思議な感動を胸一杯にしていた。
心臓に流れ込み押し出される血流がいつもよりも多く速い。
幼い王女の涙が頭から離れない。
自分が一人の血の通った人間だと思い出させられた。
フェリックス・レノックスはまだこうして誰かに案じてもらえるのだと。
そのままでは人間から逸脱して魔物などよりも余程酷いものに成り下がったかもしれなかったレノックスを善良な人間に引き留めたのは、紛れもなく王女キャロルだった。
彼女の宝石にも劣らない綺麗な涙だった。心だった。
まだ恋とは呼べない想いが芽吹き、彼女の安寧のために魔物を討伐するという新たな意義を見出せたのは彼の人生の僥倖の一つだろう。
元気だろうかとまるで妹を心配するように気になって、社交界で元気そうな姿を見かける度に安心し心も温かくなった。無事でいるのを確認する。当初はただそれで良かった。
想定外だったのは、ある日王女から謝罪の手紙と一緒にハンカチが送られてきた事だ。
ちょっと会っただけのレノックスをどこの誰かと調べた点も意外だった。
まだあまり上手ではない刺繍には、彼女の真面目さと誠実性が見えたし、わざわざ自分のために刺してくれたのかと喜んだのは否定しない。
正直なところ彼女はとっくに忘れていると思っていた。そもそも謝罪なんてものは必要なかった。今まで気に病ませていたのかと思うとかえって申し訳ない気持ちになった。
だからこそ、返信を出さなかった。
礼を欠くのは承知の上だ。彼女はまだ若く、善き姫として王国の民から愛されている。出自も人間としても半端なフェリックス・レノックスの存在など気にせずに伸び伸びと生きて欲しかった。
贈られたハンカチを常に身に付けたのは、本当に大事な物になったからだ。
力をもらえる御守りのように思っていた。
二人の関係は手紙の前後で変わらなかったが、少女の成長は早く、レノックスの目が追い付かないくらいに華やかに光を振り撒いて先を歩いていく。
何度か社交の場では顔を見ていたというのに、レノックスの知らないうちにキャロル姫は実に美しい女性へと変化を遂げていた。彼女の眩しさにハッとさせられたのはいつだったか彼自身にもよくわからない。
目が離せず我知らず胸に手を当てていた時もある。その時胸ポケットには例のハンカチが入っていたものだ。
自らの感情が何なのか、彼は迷いなくわかっていた。
しかし、ずっと秘めていくべき想いだとも理解していた。
そんな折、謁見した国王から王女をどう評価するか訊かれた事がある。
彼は称賛に値する王女だと答えた。
世辞ではない。彼女の言動などを客観的に見た正直な感想だ。
国王は難なく答えたレノックスを暫しじっと見つめてきたが、何故に観察されているのかと彼が困惑する寸前でどこかご満悦の表情を浮かべて一人頷いた。薄ら疑問は残るが国王は気さくだが時々読めない男なのでレノックスは余り深く考えないようにした。
まさかキャロル姫との婚姻を言い渡されるなどとは思いもせずに……。
実のところ、彼はこの婚姻に相当悩んだ。
護国将軍とまで言われる積み重ねた自分の功績から見れば、王女の結婚相手としては最早貴族の子弟と比べても遜色はないだろう。
しかし、十も下なのだ。受けるべきなのかハッキリ言ってわからない。まあ、あの国王相手に断る術もわからなかったが、とにかく躊躇いがあった。
キャロル姫の方だって十も上の戦うしか能のない武骨なオジサンと政略結婚するのは嫌ではないのかとも思って……自分で思って少しだけ傷付きもした。
結局は波風を立てないようにしたが、結婚したキャロル姫はやはり乗り気ではなかったのか余り口数が多くはなくほとんど目も合わない。
レノックスは案の定と内心苦く笑ったが、彼女のための気持ちは固まった。
この先、キャロル姫が本当に望む男がきっと現れるだろう。
その時、彼女の選択肢を狭めないようにしてやるのがせめてもの思いやりだと。
彼女に手は出さない。
よって子供は作らない。
向こうもその方がほっとするに違いないのだ。
故に、初夜からずっと寝室には近寄らなかった。
彼女の方も何かを言ってくるわけでもなかったので、自分の行動は間違っていなかったとレノックスは落胆を押し殺して確信を強めた。勝手にそう思い込んでいたのだ。
本当の夫婦にならずとも、妻としての義務感なのか彼女が夕食には必ず着飾るのを彼は一緒に暮らすようになってすぐに察していた。男として好きではなくとも公式な夫としては認めてくれているのだろう、自分のために綺麗であろうとしてくれる姿勢を嬉しく思った。仕事が忙しくとも疲れていても、可愛い妻と食べる夕食が唯一の楽しみであり癒しになっていた。
おそらくは将来キャロル姫が離婚を望むまで、彼女とは距離の保たれた穏やかな日々が続いていくのだろうと、そう考えていた。
――全く以て大きな間違いだったが。
彼女はレノックスが思いもしない行動派なレディだった。
彼女の妻としての義務感にどんな変化があったのかは知らない。
夜這いをかけてくるなど、控え目な印象からは全くかけ離れた暴挙だった。
つまり、キャロル姫は事に乗り気。
まさか嘘だろうと酷く混乱する気持ちと共に三日彼女の行動を見極めていたが、どうせならもう直接訊いた方が楽になれると迎えに行ったところで彼女が倒れた次第だった。
その本心も彼の予想とは正反対。
彼女の健気な真実に、レノックスは何て愚かだったのだと内心で自分を罵った。
これまでの愛しいと思う気持ち以上に何かこの上なく温かで熱い感情が全身を駆け巡った。
絶対大事にすると、そう決意した。
絶対などと、絶対のない戦場を知る彼には絶対という概念はあまり意味をなさなかった。今までは。
けれども、これからは彼女だけには特別適用だ。
悲しみで泣かせたくない。嬉しくて泣くのならいい。でも嬉しいならどちらかと言えば笑ってほしい。そんな些細な我が儘も彼女には言えるだろう。
この時彼は寝不足でさっさと眠りに落ちてしまった妻へどこか残念にも思いながら、傍らに感じる温もりに生涯の情熱と安息を見ていた。
――妻キャロルから新たなハンカチを受け取ったレノックスは、家宝が二つに増えたと内心で感激していた。
うっかり気を抜くと握り締めてシワにしてしまいそうなので慎重になっていると、そんな彼の前で妻キャロルは手を差し出している。レノックスはキョトンとしてからハッとした。
「俺一人で喜んでいて悪い。こちらもお礼をしなくてはな。何がほしい?」
するとキャロルは些か困った顔をした。
「いえ、その、ヨレヨレの方と取り替えてほしかったのですが……。今はお持ちではないのですか?」
古いハンカチを手放せという催促にレノックスは気付けば首を振っていた。勿論横に。懐に手を当てて服の上から古いハンカチをそっと押さえる。
「どちらも俺か持っていたい。駄目だろうか」
「ええと、古い方はかなりボロ……綻んでいた気がしましたけれど、本当に使い続けるつもりなのですか? 新しいのならこの先何百枚でもお作りしますのに……」
「何百枚……」
レノックスは思わずははと笑ってしまった。これはまた可愛らしい妻からの愛情表現だ。しかし、譲れない。この先も愛妻の刺繍ハンカチはほしいので、そこはまた別の日にでも交渉しようと密かに決意する。
「キャロル、考えてみてくれ、どちらも世界に二つとない貴重なハンカチだろう? 一生大切にする価値がある」
真剣な目で全く本気のレノックスに、キャロルはぽっと赤くなる。
「もうっ、あなたが実はこっ恥ずかしい事をさらっと口にできる方だとは、本当に思いもしませんでした」
「キャロルの前でだけだが?」
殺し文句も上等な甘い台詞が出てくる自分の口には、レノックス自身も新鮮なものを感じた。彼女の様々な表情を見たくてついついそうしてしまう。
キャロルはパチパチと瞬くと、耳まで染めて恥ずかしそうに少し俯いた。
「…………じゃあ、フェリックス、ハンカチのお礼なのですけれど、もらってもいいですか?」
「ああ、勿論だ。何がほしい? 何でもいいぞ」
レノックスが太っ腹な夫たろうと請け合うと、彼女はそわそわし出す。
まさかトイレか、などとはたとえ口が裂けても言うべきではないと、それくらいの分別は彼にも身に付いてはいた。黙って先を待っていると、彼女は下げていた目線を再び彼に合わせてくる。上目遣いになっていて物凄くドキリとさせられたレノックスだ。
そしてやはりまだ二人の夕食は始まりそうにない。
給仕係達もよしこれは絶妙な頃合いを見計らおうと頷き合って、待機する方向に決めたらしい。
この屋敷の、いや全宇宙の法則でそう決まっているのだ、ラブラブな二人の邪魔をしてはならない、と。
レノックスを見つめたキャロルの形の良い唇から要望が紡がれる。
「もっと先の話なのですが、その、ええと、子供が生まれたら、それでお返しでいいです」
「…………」
今が食事中ではなかったのを心から安堵したレノックスだった。
さもなければ確実に口の中の物を噴いていた。
「だ、駄目ですかそれでは……? その他のお礼など思い付きませんし……」
「え、そんなまさか……いや何でもない」
レノックスはお礼には何かアクセサリーなどをと簡単に考えてしまっていたが、彼女は王女だ。豪華な宝飾品やドレスはもう見飽きているに違いなかった。
それにしても子供とは突飛な発想ではないだろうか。上目遣いでもあるし、何て破壊力も抜群なのか。
レノックスはハ~~~~と、長い息を吐き出した。
「キャロル、それはハンカチのお礼とは言わない。むしろ俺にとってもとびきりのご褒美だよ」
「えっ本当に!?」
「どうしてそう驚くんだ。そうに決まっているだろう」
完全に顔を上げて両目を歓喜に輝かせる彼女は、誰もを惹き付けてやまないだろう笑顔を閃かせた。
そして、見惚れるレノックスへと何故かずいっと顔を近付ける。
「でしたら、今夜はあり得ないくらいに優しくして下さいね?」
それをお礼にします、と二人にしか聞こえないように声を潜めはするも臆面もない。
再認識したが、新妻は頗る乗り気。
夫として嬉しくないわけがない。正直彼女は病み上がりなのでもう暫くゆっくり養生させようと考えていただけに、思惑を見事覆されもう心置きなくどうぞとお墨付きをもらったも同然なのだ。
ただ、冗談抜きに食事中だったら噴いていたな、と安堵したレノックスでもあった。
この夜、家宝ハンカチが二枚になっていつになくほくほくのレノックスと、彼への想いにホカホカなその妻キャロルがどんな風に過ごしたのかは、閉じられた寝室扉の向こう側の、文字通りの秘め事だ。