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要らない涙と擦ろうとしたら、予想外にも彼の親指に先を越された。
驚いて瞬けば余分な涙も目尻から押し出されて彼の指先を濡らす。手慣れない感じでどうにか拭ってくれた彼は指先を引いた。
「ど、どうも」
ぎこちなくも一応感謝を述べてみたら苦笑された。
居心地が悪い。だってこれだって子供扱いでしょう?
しかし想定外な言葉が降った。
「ここ三晩はここにいた」
と。何を言われているのかすぐには理解が追い付かなくて、暫し黙考してようやく理解する。直前の問いへの返答なのだと。
しかし、そうだとしても仰天だ。
「え? はい? ここって、ここ……ですか?」
「そうだ」
「う、嘘です。屋敷中捜したのにいなかったではないですか」
「この部屋は捜されていなかっただろう?」
「あ……」
その通りだ。寝室には寄り付かないと思い込んでいてこの部屋は私が捜索に出てからは調べていなかった。
「貴女が戻ってくる時間もほとんど夜が明けてからだったようだし、その頃には俺はもう仕事で寝室を出ていたのでかち合わなかった」
言葉もない。
でもどうして?
何故彼は結婚後一度だって入らなかった夫婦の寝室に足を運んだの?
絶句の時間と疑問符を増やしていると彼は急に真面目な顔付きになった。
「一つ、訊いてもいいだろうか」
「え、あ、はい」
「貴女はどうしてそこまで俺の妻としての義務を全うしようとするんだ? この婚姻は貴女が望めばいつだって無効にできるだろうに」
「ええと、レノックス将軍?」
彼は一体何を言っているのだろう。私が望めばいつでも離婚できる?
意味がわからない。これは父王から命じられた政略結婚で、幸運にも私は想い人のこの人に嫁ぐ事ができただけの話だ。私が望んでどうこうできるものでもない。
「何か勘違いしておられるようですね。この婚姻はお父様の政略的な思惑からのもので、私の意思などそもそも関係ありません……って将軍?」
彼は何か突拍子のない話でも聞かされたようにキョトンとしている。
「そうなのか? ……陛下からはそう聞いていたのだが。だから貴女を大切にするようにとも」
え、まさか国王の画策なの? え、え? お父様? 私の意思で離婚可能って何? そんなの絶対するわけないのに。
……もしかして、お父様は私の気持ちを知っていた、とか?
あり得る!
でもそんな、嘘でしょ、娘の恋を応援するための結婚命令だった可能性が大!?
父王のどや顔が見えた気がした。
でも、レノックス将軍は望んでなんてなかったから結果としては私が無理やり彼を縛り付けている形になる。何って迷惑な姫だと煙たがられているかもしれないと思えば、自然と気持ちが暗くなる。
「貴女は俺と別れたいか?」
「え?」
「話を聞くに、貴女には望まずの婚姻だったのだろう? 遠慮なく本音を言ってくれて構わない」
何やら視線を外した彼は声にぞんざいで諦めのような響きを含ませる。
本音を? 彼は私がこの結婚に不本意だと思っている? この私の方が?
「……勝手に決めつけないで下さい」
この男は本当に……。私は理想と現実って言葉をしみじみと実感していた。遠くから憧れていたうちは思わなかったけれど、生の人間として近くで接した途端に良くも悪くもより強く私の感情を揺さぶる。
それで、たった今の私が彼に思うのは……。
「レノックス将軍は心底ムカつきます」
ベッド脇の彼が思い切りフリーズしたのが肌でわかった。
「望まなかったなどと、誰が言いました? 君主命令を避けられなかっただけです。どうして勝手に私があなたを望んでいなかったなどと決めつけるのです!」
「し、しかし現に今避けられなかったと…」
「言葉のあやです!」
気付けば両手を握りしめてふるふると憤りに震えていた。
「私は嫌だなどと一度たりとも思ったためしはありません!」
「な? え?」
「あなたとの結婚のために私が今までどれだけ背伸びしたと思っているのですか。子供に見られないように大人なお化粧だって沢山練習してきましたし、喋り方だって気品に溢れる大人の女性たろうと努めて……って今はもう思い切り素ですけれどっ、それでもいつもずっと大人なあなたに釣り合うようにと緊張の連続で……っ」
声を張り上げるなんてはしたない以前に、最早完全に幼児退行宜しく歳相応よりもかなり幼稚な物言いをしている自覚はある。とても恥ずかしい。ベッドに身を起こしている状態なので走って逃げ出すなんて真似もできない。頭から掛け毛布を被ってしまおうか。
「いくら逃れられない命じられた結婚でも、嫌だったらそこまでしません!」
必死でどこかの穴に入りたい衝動を堪えていると、彼は拍子抜けしたような顔になっている。
「そ、れは……嘘ではなく? 嫌ではないと?」
「ですからそう言っているでしょうに!」
「別にそこまで俺が嫌ではないから貴女は健気にも妻の務めを果たそうと?」
呆れを通り越してゴイーンと金属で頭を叩かれたみたいに頭痛がしてくる。どこまでこの男は頓珍漢なのか。
「義務義務とうるさいですね。義務感だけならお化粧もしませんし敢えてあなたと釣り合いたいとも思いません。適当に話を合わせて愛想笑いでもしてまな板の上の鯉にでもなっていました!」
「まな板の……」
彼らしくないどこか途方に暮れたような声だ。或いはドン引いたのかもしれない。ああもう憎たらしいったらない。
「運良くも念願叶ってあなたと夫婦になれたのですし、あなたの最高の奥さんになりたいと思っていたのです。それなのにあなたはずっと私など居ても居なくてもいいみたいにしていましたし、いきなりこんな子供と結婚させられてさぞかしご不満なのでしょうね。ええ、ええ、確かに私は甘やかされて育ったので我が儘なのは自覚していますけれどもね」
一方的に文句ばかりをぶつけている可愛さの欠片もない自分に嫌気が差す。
一先ず言い終えて黙ると、暫くの沈黙が続いた。
ああ、終わった。円満な夫婦関係なんてきっと築けない。拭われたばかりの目元がまた湿っている。
と、きつく握り締めていた私の手の指に彼の手がそっと触れてきてほどいた。掌には爪の痕がくっきり付いている。彼は何を思ったのかその痕をそっと撫でた。ドキリとする。
「もう一つ、訊いても?」
「……ど、どうぞ!」
今度は私の両手を彼の両手で繋ぐようにする。
「貴女は俺をどう思っているんだ?」
そんなの今更と怒りそうになったけれど、きちんと口に出していないのでそもそも伝わっているわけがないのだと思い直す。
きらりと濡れた瞳を揺らし、その澄んだ揺らめきの中に素直な言葉を溶け込ませる。
「腹が立ちます。こんな風にすごくムカつくのに、なのに、あなたへの想いは同じかそれ以上になっているのだから、余計に悔しいったらありません!」
はあ、と肩で息をしてから繋がれている手を握り返した。
「あなたとずっと一緒に居られるようになって、本当に幸せだと思っています。何故なら、私はフェリックス・レノックス将軍を心からお慕いしています」
思いの丈で微笑めば、彼は大きく大きく目を瞠った。全くの予想外とでも思っているように。
「義務でも政略でもなく私は進んであなたの妻になりたいですし、あなたを愛したいですし愛されたいです。本物の夫婦になりたいです。……王女を押し付けられるなど、あなたにはとんだ災難だったかもしれませんけれど」
するとその答えのように彼の手が離れた。
……ふは、案の定なのねー。
彼が私を望んでいなかったとしても、せめて義務感で夫婦をやってもいいくらいには思ってもらえたらまだよかった。けれど、何かと理由を付けて寝室を共にするのを避けられていた。
つまりは義務感で妥協すらできない女なのだ。
奮い起こした心が翳っていく。
できるなら今すぐここから消えたい……。
彼の方を見れずに自然と項垂れてしまっていた私の狭い視界に、けれどすっと何かが入った。
ぼんやりとした眼差しでその何かを見下ろす。
青い花の刺繍のあるどこかで見た覚えのあるハンカチだった。
そこまで上手ではないこの刺繍は、しかし当時は自分なりに丹精を込めた一枚だ。
「あの、これは私が将軍に贈った物ですよね?」
戸惑って顔を上げれば、彼はいつもみたいな真剣な面持ちを崩さず首肯した。見ていなかったけれど彼の懐から引っ張り出した物だろう。
困惑を浮かべるとレノックス将軍は軽く咳払いした。
「綻びないように気を付けていつも身に付けていたが、それでもやはりな」
「え……と?」
証言の通り大事にされていたハンカチには染み一つないようだった。しかしいつも携帯しているという言葉を裏付けるように、日々の摩擦で表面が多少草臥れている。
信じられない物を見ている気分だった。何か感動のようなものが染み入る心地でハンカチを撫でた。
「ずっとお持ちになっていたのですか。捨ててもよかったですのに……」
「どうして。捨てられるわけがない」
「王女からの贈り物なので下手に処分できないとでも思いました?」
「違う」
「では何故なのですか」
急にこんな物を出して何だと言うのだろう。ご機嫌取り? ハッキリ将来的には離婚しようって言いたいけれど、私がお父様に何か吹き込むと懸念しているから? 少し煩わしいようなものさえ抱くと、彼はハンカチを後生大事そうに懐に仕舞った。益々意図が読めない。
でもそうか、彼は残酷だ。
私から言ってやらなければならないのだから。
「レノックス将軍、私に気を遣わないで下さい。元々叶わない恋だと思っていましたし。この先あなたが望めば離婚もできるでしょう。ですから、これからは最後の日まであなたの思うように夫婦をしましょう。寝室も別々で構いません」
諦観を滲ませた疲れた声になった。まだ少し眠いのもある。そう言えば倒れてどのくらい経ったのか。話題転換にはちょうどいい。これ以上この話を続けていたくなかった。
「ところであの、私が倒れてからどのくらいに…」
「十も歳が上で、貴女は貴い姫で、俺は戦うしか能のない無骨者で、初めから望みはないと思っていたんだっ」
ベッド脇の彼が必死な顔で勢い余ったようにこっちに身を乗り出した。互いの距離が思いの外近くなる。
「これを贈ってもらえただけで良しとするのが分相応だって何度も言い聞かせていたんだ。便りを返しもせずにいたのも申し訳なかったと思っている。気の利いた文章も気取った台詞も綴れない俺からの手紙なんて必要ないだろうと思っていた。だから……思いも掛けず陛下からこの結婚話を賜った時は夢みたいな嘘みたいな心地だった」
「嘘はよして下さい。レノックス将軍が私をだなんて……あの頃の子供の私のどこに好きになるような要素が? ま、まさかあなたってロリ…」
「はっ? 違うっ、そうじゃないっ、俺だって十歳の少女にはそういう感情は湧かないっ、ただ俺は外見じゃなく貴女の心に惹かれたんだっ」
珍しくもあたふたと慌てた顔が普段口数の少ない彼の大人の部分を剥ぎ取って、歳が同じくらいの少年のように見せている。
「俺の傷を俺に代わって泣いてくれたのは貴女だけだ。あの頃は戦闘狂とさえ揶揄されても、そこに俺自身も腹が立たなかった。どこかおかしかったんだろう。怪我は付き物と割り切っていた節もあったから、貴女に泣かれてそう言えば自分も人間だったのを思い出したよ。あれからずっと貴女がどんな人間なのかと気になっていた」
揺るがない少し照れたような声で吐露された心情は本当なのだろう。
姿形ではなく心に惚れられた。
それは究極の愛の告白ではないだろうか。
最高に嬉しい。光栄だ。
……そう、光栄と思うのが適当だろう。
硬派なフェリックス・レノックス将軍らしい結婚動機だ。
「でしたら……」
女としての魅力とは異なる次元での話だ。
ならば、今の私はこの男の目にはどう映っているのだろうか。
高貴な姫だからとか何だとかその他の理由を取り払って私という女を見た時、彼はどう感じるのだろう。
「現在の私はどう感じますか? これでも十歳よりは大人でしょう? 王宮行事でも少しは顔を合わせていましたし、成長する私をあなたはどう思って眺めてくれていたのですか? 私に興味を持って追いかけているうちに少しも女としては欲しはしなかったですか?」
ず、ずいっと躊躇いが少しだけ出たものの挑むような心地で私の方から彼へと身を乗り出せば、見えない何かの警告でも受けたように彼は目を真ん丸くして僅かに身を引いた。
「や、やっぱりこんなちんちくりんにはキスもしたくはならないですか……」
「あっいや違うんだこれは」
「何が違うのです? 所詮子供でしかないのでしょう?」
「そうじゃなくてっ、……あーくそ」
レノックス将軍は何かを言いかけて、しかし自らを落ち着かせるようにがしがしと雑に頭を掻いた。こんな仕種も普段の彼には実は滅多にないのだとは私はまだ知らなかった。
「成長するうちに花が綻ぶようで、公式の場で見かける度に目が離せなくなる前に他の場所に行くよう努めたものだったし、今の貴女は信じられない程に美しくて、本当にあの可愛らしかった少女なのかと正直たった今でも目を疑いたい。沢山の血にまみれた俺が触れても汚れないか心配で、それに貴女はまだ若いし、だから我慢するのがベストだと思っていたんだ」
そんな告白をするレノックス将軍の顔は、思春期の少年みたいで、尚且つ私みたいに真っ赤だ。
嫌だこの男は。
何て心臓に悪いのか。
「私はつまり、魅力的だと?」
「と、当然」
「出したい手を出すのも躊躇う程に?」
「うぐっ、そうストレートに言われると立つ瀬がないんだが」
「あなたも私を好きなのですね?」
「……そうだ。貴女の気持ち以上に好きだ」
「そ、そこを何故に競ってくるのですか。私の方が大きいですけれど」
照れつつちょっと呆れてやれば、彼は視線をややずらして「俺の気など知らないくせに」などと言う。急に子供染みて来たわねこの人。
「お互い様です。あなたも私の苦労を知らないでしょう。ですから精々思い知ると宜しいのです、私がどれだけあなたに恋い焦がれてやまなかったか」
逸らされた視線を追ってその先をカバーすると、目が合った彼は次はもう逸らさずに私を見つめる。
「後悔しても遅いぞ?」
射竦められた。とっても甘い何かに。ドキドキドキと大き過ぎる鼓動音だけが耳の奥に聞こえてうるさい。
「……そちらこそ」
辛うじて囁いて、どちらともなく吐息が近付いた。
あえかな口付けを交わして顔を離す。
たったのそれだけなのにえも言われぬ幸福感が全身に広がる。火照った頬はどちらが上かわからないくらいに赤くて、人や物を識別できるもまだ明るいとまでは言えない室内でさえもよくわかる。
ベッド脇の椅子からベッドの端へと移動したレノックス将軍からそっと肩を抱き寄せられて彼の分厚くて逞しい胸に寄りかかる。
ああ、一秒でも早くこの男が私だけのものになればいいのに……。
「あー、時に、俺はレノックスだが、貴女ももうレノックスなんだから、もっとこう呼び方を変えてほしいんだが」
「では、旦那様と?」
「……う、うむまあそれでもいい」
不服そうだ。彼の大幅な譲歩を感じる。うーんどうしろと?
「では……フェリックス?」
「――っ」
彼は魔物には百戦錬磨で物事に動じない涼しげな顔をしているくせに、思い切り照れてどぎまぎする。反応の可愛さに思わずくすりとしてしまった。
凛々しくてカッコ可愛い私の旦那様。
「愛しています、フェリックス?」
「ど、どうも」
これも可愛くて声なき笑みが漏れる。
そんな私を見た彼がプライドの問題なのかムッとした。
「俺もやっと遠慮なく貴女を抱き締められる。愛しているよ、――キャロル」
初めての呼ばれ方がとてもくすぐったくて蕩ける気分で目を細めたら、微笑み返されてまた一度ちゅっとキスをされた。それは好きな子を揶揄うのにも似ていて、彼の新たな側面を見つけたらもっと深く好きになった。
「キャロル……」
「フェリックス……」
子供扱いじゃない大人なキスもした。
……。甘過ぎて欲張ってしまいそうだ。
「そ、そう言えば先程も訊きましたけれど、今はいつ時なのですか? もしや夕方?」
「いや、まだ夜明け前だ。キャロルが倒れてそれほど経っていない。だからまずは睡眠を摂って体を休めた方が…」
「今日は少しお仕事に遅れても宜しいでしょう?」
露骨ではしたないと言われそうだけれど、チャンスなのだ。仕切り直しの初夜の。
「……いやしかし」
「私は全然平気です。……正直に言うと早くフェリックスが欲しいです。駄目、ですか?」
「……」
彼は横に視線を逸らした割には背に回してくる腕を解かない。この沈黙だって承諾の証だろう。だからここはもう一手と私から彼の背中に手を回す。
「キャロル、俺の気持ちを受け止める覚悟は本当にできてるか?」
「ええ、勿論」
ぎゅ~っと両腕に力を込めた。
込め返された。
彼の体温はぬくぬくしていて気持ち良い。
ドキドキするのに何だか微睡むみたいな安心感にも満たされる。
うふふふ、これからホットで胸キュンな時間が訪れるのね。
キャロルと名前を呼ばれた気がしたが、返事ができたかはわからない。
ベッドに横たわり頬杖を突く男がいる。
彼の隣では一人の少女がすやすやと健やかな寝息を立てて深く寝入っている。彼女は彼の妻だ。
「はあ、三日もろくに寝てないんじゃあな」
今日はとりあえずお預けか、とそう残念そうな苦笑染みた声が二人の寝室の天井に響いた。風邪を引かないように肩上まで掛け毛布を引き上げてやる。
彼女がこの先夫捜しの徹夜をする事はもうないだろう。
勿論、手を出されないと憂う夜も。
「どうか良い夢を、キャロル」
未だ無垢な額にそっと唇が触れた。
温かいベッドは一先ず安心しきった少女の睡眠を邪魔しないよう、優しく彼女を包み込んでいた。
頻出する魔物から数多の人々を護った歴代最強と謳われる護国将軍フェリックス・レノックス。
彼は生涯を懸けて彼の美しい幼妻を掌中の珠のように、いやそれ以上に大切に慈しんだ。彼の妻も全力で愛情を注いで彼を支えた。時に相手が病に臥せても怪我で動けずとも全霊を懸けて傍らに添った。笑い合って泣いて怒ってそしてまた笑顔で振り向き合って。
いつか必ず訪れる永別が二人の肩を叩くまで。
おまけ。1(時系列としては、キャロル姫がレノックス将軍の書斎を訪れた後の話)
キャロル姫が書斎から飛び出して行った後、レノックス将軍はデスクワークをしている気分ではなくなってレノックス家の練兵場へと足を運んでいた。彼女にお茶を出すのも忘れる程にうっかりしていた自分には全く馬鹿者としか言えないと落ち込む。
一つ言えば、彼は地獄耳だった。
ぼそりと呟かれた彼女の言葉を的確に聞き取っていたのだ。
「怪我をするなと言われたな……」
キャロル姫は自分を心配してくれた。予想外にも。そう思うと剣を振る腕がとても軽く感じる。部下達を相手にも手は抜かない彼は一対複数という軽いウォーミングアップの打ち合いを終えて、部下達へと声を掛ける。無論一人チームの方が彼だ。
「皆、練習だからと気を抜いて怪我なんてするなよ」
その場に居合わせた兵士達は胸中で頗る動揺した。震撼したとも言える。
今のは、デレ? デレた? マジでデレなのかこれは!? ああデレだ。いつも鬼で氷の将軍がデレたーーーー!
明日世界が終わるかもしれないと、俄な囁きが広がっていく。
少し体を動かしたかっただけのレノックス将軍は気が済んだのかさっさと練兵場を去ったのだが、一方の兵士達はその話題で暫くは持ちきりだったという。
おまけ。2
「レノックス将軍、今日こそ飲みに行きませんか~?」
「悪いが無理だな」
「またですかー。最近出てきても帰るの早いですよね。何でです?」
自領にある役所で討伐準備の書類仕事をしていたレノックス将軍は、ひらりと瞬いた。
「俺のために気合いを入れて着飾ってくれる姿を見たいから」
「はい? 何の話をしているんですかー?」
「いや、気にするな」
彼は柔和な笑みを口元に浮かべた。
失礼にも部下が魔物でも見たように目を丸くする。それだけ彼は普段から柔らかな微笑と縁のない男だったせいだ。
威圧する類いの微笑みやビジネススマイルならそこそこ見掛けていたこの部下は、何かにピンと来てにまにま~とした。
「そうですか、では良き晩餐をー」
レノックス将軍が最近結婚したのを部下も当然知っている。
彼の変化はその頃から見られるようになったのだ。
運命的な良縁。
そんな言葉が部下の頭を過っていった。