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憂い。そう憂いだ。
最初から、小さくもそれはあった。けれど考えないようにしていた。考えてしまえば切りがないし、気持ちが沈む。
レノックス将軍にどんよりとして不安にまみれた可愛くない顔を見せたくはないし、食事の席で彼へと意を決して話し掛けているのさえできなくなりそうだからだ。因みに会話内容は世間話程度。当たり障りのないそれで一杯一杯だ。
夫婦の話がしたくても躊躇ってしまって踏み込めない。
けれど、いつまでも逃げてばかりでは駄目なのだ。
おそらくは彼に初めて見せる表情とやや強い口調に驚いたのだろう、レノックス将軍はどう接していいのかまるでわからないかのように固まっている。
しかしそれも少しの間で、微かな嘆息と共に小さく「呼び方ならお互い様だろう」と聞こえた。確かに私もまだ将軍呼びが抜けていないどころか、残念ながら他の呼び方など恥ずかしくて一度もしていなかった。心の中でなら何度も旦那様呼びをしてはいるけれど。
彼としては駄々を捏ねる親戚の子供に辟易としているようなものかもしれない。
ここでは女の涙も武器にはならず……するつもりはないけれど、周囲は誉めそやす花の美貌も役に立たない。
「あなたは一体どんな女性なら本気になれるのですか?」
「姫様、ああいや……」
我が妻とか奥さんとかキャロルって名前呼びだってこの人にはできるのに、彼はそれ以上は言葉を呑み込んだ。
何よそれ、冗談抜きに腹立たしい。
切羽詰まって主張してみたはいいけれど、こんなの背水の陣どころかとっくに川の深みにはまってなす術なしって感じよね。積極的になれなかった自分が情けない。
この結婚は人生で最大級の損失なの?
ううん、まだそうと決まったわけじゃない。何もせずとも損をするなら納得行くまで動いてみた後で後悔したっていい。その方がマシだ。
自分でも驚くべき強気な思考だなって思った。僅かでも落ち着こうと一つ息を吐く。口元も頬も引き締めて彼を見据える。
「レノックス将軍、あなたのお気持ちはわかりました」
「え?」
「ですが、私を最後まで退けられるのでしたら、そうしてみると宜しいのです。私も負けませんから」
「は?」
「私は後々未亡人になろうと深手を負ったあなたを介護しようと、そんな起きるかどうかもわからない未来に囚われたくありません。私はあなたの妻としての責務を見事果たしてみせます」
ふんと鼻息さえ出してみせる。
「それはどういう……?」
「えっ、つつつまりは首を洗って待っているといいのです。私は絶対にあなたと――夜を共にしますから! 小娘だからと油断していると、これからもっともっと女に磨きに磨きをかける私にころっと誘惑されるのですからね! それが嫌でしたら毎晩精々私に見つからないように隠れ場所を探して眠ることです。まあ見つけて迫りますけれどっ!」
「…………」
真っ赤になって少し息を荒くする私の方を彼はポカンとして見ている。まさかおどおどした性格だと思っていた王女の口から夜這い宣言が出るとは思わなかったのだろう。
私だってここまでこんな破廉恥発言を堂々としてしまうとは思わなかった。勢いとは恐ろしい。
もう本当に恥ずかしい~っ!
すっくと応接椅子から立ち上がるとくるりと踵を返して彼を視界から追いやった。
だってもう耐え切れない。
「で、ですからっ、今夜から気を抜かないでいる事です!」
書斎から出る際に一度肩越しに振り返り一昨日きやがれ的に指を突きつけてから、負け犬上等な逃げ足で書斎を飛び出した。
その時も彼はまだポカーンとしていて私に反論するとか文句を言うなどという思考にも至れないようだった。
廊下を駆けながらどうしようどうしようどうしようって言葉だけが思考回路をエンドレスで回っている。
大きく啖呵を切った手前、有言実行は必須。……必至!
夜、だから私は昨日までのように身支度身嗜みを整えて寝室で待つ……わけもなく、おそらくは隠れるだろうレノックス将軍を見つけ出すために昼間の羞恥をどうにか圧し殺し寝室から動いた。
しかし敵も然る者。
私は愕然として朝方トボトボと寝室に戻った。
「ど、どこにもいなかったなんて……」
一晩中屋敷内をくまなく捜したのに、彼の姿を見つけられなかった。獲物にまんまと逃げられたのだ。しかしチャンスはこれ一度だけではない。次の日の夜も頑張ろうと意気込んだ。
朝食では避けられるかもという予想を裏切って、夜中の隠れんぼを何とも思っていないのかしれっとした顔のレノックス将軍が既に食卓で私を待ってくれていた。
「……お早うごさいます。お待たせしてしまったようですね」
「いや。それでは食べようか」
先に始めていてもよかったのに律儀に待っていた彼はそう言って給仕を命じる。超然。私だけそわそわしていたのが馬鹿らしくなる。
「……レノックス将軍は隠れるのがお上手ですね。野戦などで培われた勘なのですか?」
嫌味と共に恨めしげに睨んでやったら彼はちょっとびっくりしたようで瞠目したけれど、気遣うような視線を寄越した。
「見たところ、寝不足なのではないか?」
「気になるのでしたら、隠れないで下さい」
「……貴女はわざわざ俺を捜しに出なくとも良かったんだ」
「何を言うのです……?」
はああ? 言うに事欠いてそれなの? こっちは真剣なのに、腹立たしい。何よその余裕な態度。こっちを嘗めているのだわ。わなわなと膝の上の拳が震えた。悔しかったけれど涙は堪えた。
「今夜こそ必ず捕まえてやりますから」
苦し紛れにそれだけを言って後は会話を拒んでさっさと朝食を済ませた。味なんてほとんどしなかった。
日中彼は出掛けたり戻ったりとやっぱり討伐の準備に忙しそうだった。けれど夕方には戻ってきて夕食を共に摂った。私への警戒もなさそうで朝同様に全然余裕な感じだった。
く、悔しい~。今夜こそ成功させてみせるんだから。
意地なのかこの地での状況で生まれた逞しさなのか、引っ込み思案な王女様は鳴りを潜めている。
このままの勢いでどうにか決めたい。
しかし、さて出陣と身支度を整えて捜しに出たものの、フェリックス・レノックスという男は昨日と同じでどこにも見つけられなかった。
すっかりもう朝になってしまって明るい寝室のベッドの端に一人ちょこんと腰かけて、呆然とする。
「そんな……この屋敷の部屋を一つずつ念入りに見て回ったのに、どこにもいないなんてどうして? あ、まさか私の動向を探らせて一度調べた部屋にこっそり戻ってしめしめって寝入っているとか?」
十分にあり得る。それならこちらも人を割かなければならないだろう。ある程度の人数を使って調べの済んだ部屋を見張らせておくしかない。
「よし、そうしよう」
その日、早速と侍女達や屋敷の皆に協力を頼んだ。勿論こっそりと。
レノックス将軍はやっぱり夕食には帰って来た。
朝食は彼の仕事の関係でまちまちなのだけれど、何か理由があるのか夕食には必ず間に合うように帰宅する。
だから私も余計に気合いを入れてお洒落をするのだけれど、彼はそんな私の努力なんて知らないわよね。
今だって、淑女としてみっともない目の下の濃いクマをお化粧できっちりと隠していた。
面白くないものを感じていると、食卓の向かいのレノックス将軍が私の顔をじっと見つめてきた。
「な、何か?」
「朝も思ったが寝不足なのでは? 寝不足はとにかく体に障るから今夜は出歩かず早く寝るように」
カチンときた。あと少しの驚きも。お化粧の賜でよくよくよーく見ないと寝不足顔には見えないはずなのに。
「そんな気遣いは不要です。気遣うくらいなら、私から逃げないで下さい」
「…………」
彼はこれには明確な返答を寄越さなかった。それがまた私を居た堪れない気持ちにさせる。
「私だって自分で体調管理くらいはできます。いつまでも子供ではないのです……っ」
ついつい声を大きくしてしまった無作法に頬が熱くなって、後は彼を見ずに夕食の残りを平らげた。
銀器を置いたところで大きな欠伸が出そうになって噛み殺す。口では反抗的に突っぱねたけれど彼の案じる通り寝不足のせいだ。ほとんど不眠で三日目ともなるとさすがにキツイ。
重ねての欠伸が出る前に、ご馳走さまでしたと食後の言葉を口にしてそそくさと彼より先に食堂を辞した。廊下を歩いて部屋まで戻る途中にも欠伸が出た。ここにはもう気にするべき夫の目もなかったので素直に生理現象に任せたわ。
気力で体を動かしていた自覚はある。何が体調管理できるのだか、と先程の席での豪語を自嘲する。
「だけど眠いなんて言ってられないわ。夜這い宣言しておいてこのまま逃げられっぱなしじゃあ王女としての沽券に関わるもの」
本音では夕食後すぐにでもレノックス将軍を縛り付けおきたい。でも彼の仕事に影響を及ぼせないし、私の方の準備もあるのでそれも断念したの。侍女達と捜索の最終確認をして、化粧で改めて目の下のクマを入念に隠す。
夫婦の茶番と言えなくもない事に付き合わせちゃっている屋敷の皆には本当に申し訳ないけれど、調べた部屋を彼が使わないように見張りに付いてもらう必要があるのだ。うん、皆の臨時手当ては弾むわ!
「うふふ、屋敷の外に出たらわかるし、今夜こそは隠れようもないのですからね~レノックス将軍」
玄関や裏口、大きな窓など屋敷の出入口は全部監視してもらっている。包囲網は狭まるしかない。
余程悪い顔でもしていたのか、傍らの侍女からくすりと笑われた。
「こちらに嫁いでから、キャロル姫様は少しお変わりになられましたよね」
鏡台前で化粧を手伝ってくれていた彼女からそんな言葉を掛けられて、そうだろうか、うんきっとたぶんそうなのだろうと受け止める。彼女は王城から付いてきてくれた一人だ。小さい頃からの私を知っている。レノックス将軍との出逢いの場にはいなかった人間だけれど、だからこそ彼の前でも気まずい思いもなく率直な意見をくれる。私の彼への片想いも知っている。
因みに当時彼を非難した侍女の一人もここにいるのだけれど、件の彼女はレノックス将軍の前では過去を思ってか気まずそうにする事がよくあった。まあ致し方ない。
とにかくまあ、自宅で自分の夫を捜すなどとんだ笑い種というか可笑しな話だが、そんな可笑しな話がここにはある。
いざ出陣よ!
三日目ともなると多少手慣れて調べる手際も捗って、私は前二日よりも早く最後の部屋に至った。ここまでの部屋に彼はいなかった。調査済みの部屋は使用人達に見張らせている。
そう、つまりは……。
「偶然にも最後の部屋に隠れているなんて、ある意味運命的ですね、レノックス将軍。ふふふふ、もう逃げられませんよ」
自分でも奇妙なハイテンションだとは思う。猛烈な疲れもあるのに寝不足がこんな形で影響してくるなんて思わなかったわ。
悪役みたいな顔と声で意気揚々と最後の部屋の扉を盛大に開け放った。
「…………はれ?」
最後の部屋は隠れるような戸棚もない殺風景で狭い物置き部屋だったのに、一目で人の有無がわかるこの部屋には、誰もいなかった。
「そんな、おかしいわ、じゃあどこに隠れて……?」
困惑で思考が真っ白になる。三日目にもなるのに見つけられなかった自分の無能さに強く落胆さえ感じる。
肩透かし感が引き金か、無意識に張っていた気力がほどけたみたいだった。足に力が入らない。ここ三日の寝不足が祟ったのだ。
くらりとしてその場に蹲った。
一緒に来てくれていた侍女が顔色を変えて叫んだけれど、後はもう前後不覚と訳がわからなくなった。視界がボヤけて猛烈な睡魔が押し寄せる。全身を襲った脱力感にとうとう蹲るのさえできなくて廊下に倒れ込んだ…………と思う。
侍女の声と急いだような足音と支える温かい腕。
……腕? なら倒れ込んでない? でも、誰の腕? 侍女の?
確かめたかったのにもう瞼が重くてダメだった。
けれど、すっかり意識が途切れるまで、不思議と安心できる感覚に包まれていた。
「さすがに心配して様子見に来てみれば、これか」
「も、申し訳ございません旦那様。途中でお止めすべきでした」
険しい面持ちでキャロル姫の顔を覗き込むレノックス将軍へと、侍女が顔色も悪く項垂れる。
彼は妻を案じて密かに様子を見に来てみたのだ。幸いにも彼女が倒れ込む所に居合わせてギリギリで支えるのに間に合ったという次第だ。
「君が謝る事はない。悪いのは俺だ。彼女を追い詰めた」
これに侍女は恐縮もあり言葉を返せなかった。
しかし同時に安堵の息をついた。
キャロル姫を抱き上げるレノックス将軍の表情は痛みを堪えるようなものもあったけれど、とても柔らかでもあった。
目を覚ましたのは純粋に良かった。寝不足が深刻に体に祟る不幸なケースも往々にしてあるからだ。あのまま失意のうちに永遠の眠りに就いていたら成仏するものもできなかったに違いない。
視界は真っ暗ではなく薄い闇の中にある。薄暮か暁闇か、朝か夕かもわからないもののそこら辺のどこかだろう。
室内は暗さはあるけれど物を判別する程度はできる。ただ細かな文字を読んだりはできないけれども。
ああこの見慣れた天蓋は私の、正確には私達夫婦のベッドのだ。
薄く開けていた瞼をまた閉じて今度はちゃんと起きようと、もう少ししっかりと開けた。
「起きたのか」
開口一番とはよく言うけれど、この場合見慣れた天蓋をバックに開眼一番に視界に飛び込んできたのは何と愛しの旦那様の心配そうな顔だった。
「…………っ」
不意討ち過ぎて言葉が浮かばないし紡げなかった。
何故居るのという即座の疑問は、私が倒れたと聞いていないわけがないと思い至ったからだ。
そうよね。下賜された王女の身に万一の事でもあったら立場が悪くなるだろうし心配にならないわけがない。
「……わ、私諦めませんから」
彼の顔を見ていたら沸々としたものが込み上げて、拗ねた声が出た。
「あなたを見つけますし、夜這いだって成功させますから」
彼は何も言わない。
「どこに居たのですか? ここまで隠れるのが得意だなんて知りませんでした。本当の本当に昨日一昨日もどこに居たのです?」
我慢できずに責めてしまう。彼が答えてくれるなんて思わない。でも文句を言わずにはいられない。だって私は彼の正式な伴侶なのだ。誰でもない、この世界中で私だけが彼の妻なのだ。
堪えていたかったのに、じわりと視界が滲んだ。