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そう、夫婦。
つまりは正式にあれこれを認められた男と女。
だからこそ私はこれからは自分の家となったレノックス将軍の屋敷の寝室で身綺麗にして覚悟を持って待っていた。
心臓は緊張にすっかりいつもよりも拍が速く何度深呼吸で落ち着けたか知れない。やや夜が更け、かなり夜が更け、ほとんどもう朝になった。空の端が白みかけている。
「え……放置?」
夫フェリックス・レノックスはとうとうチラリとも寝室に来なかった。
友人に初夜は一睡も出来なかったなどと言えば赤面されるかもしれないが、真実一睡も出来なかった……訪れない相手を律儀に待っていたせいで。
その手の知識は教育係から叩き込まれてもいたが、実際に未知なる扉を開けずに済んでどこかホッとしている部分はある。でも落胆とか失意、寂しさの方が明らかに大きかった。大事な初夜をすっぽかすなど信じられないと怒ればいいのかもしれない。けれど怒りは湧かなかった。
「きっと忙しいのよ、うん」
その日はそう言い聞かせて朝遅くまで一人寝を貪った。
朝食は寝ていてスルーしてしまったから夫の顔を見れなかったのは仕方がないけれど、彼が仕事で屋敷を出ている昼の間はずっとそわそわとして過ごした。
気分が落ち込んだままではなかったのは、起きて早々にその夫からの伝言を屋敷の執事から受け取ったからだ。
予想通り彼は仕事が忙しくて寝室には足を運べなかったようだった。その旨への謝罪の言葉も受け取った。
彼に無視されたわけではなかったのだと安堵した。その証拠に彼は夕食に間に合うように帰って来て、私はそんな彼を妻らしく綺麗なイブニングドレスに着替えて出迎えた。
食卓での会話など「あ、あのレノックス将軍、伝言を聞きました。最近は仕事が立て込んでいるのですか?」「ああ、そうだ」「ええと、余り無理はなさらないで下さいね」「ああ、気遣いありがとう」くらいでほぼ他にはなかったけれど、雰囲気は円満だったので今夜こそ本当の初夜になるんだろうと心構えをした。
ただ、レノックス将軍は接してみると噂よりも中々どうして寡黙な男だった。
あの初対面の時は彼もまだ若かったのか真面目そうではあったものの、時々話し掛けるのを少し躊躇ってしまうような硬いものは感じなかった。
公式行事でもビジネススマイルだって浮かべていた。
なのに、会話にも応じてくれるしハッキリとした拒絶は感じないけれど、私を城まで迎えに来てくれた日からこっち彼は私の前ではにこりともしない。
質問にだって答えてくれるけれども、答えはいつも手短だ。
それでも婚約期間などないにも等しく結婚し、まだ一緒にいる日も浅いので向こうも気を遣っているのかもしれない。少しずつ少しずつ時間が彼との距離を埋めてくれるに違いないとポジティブに考える。
反面、もしかして彼は突然の結婚命令に不満なのかもしれないなんてネガティブ思考も浮かんで、胸の奥がズキリと痛んだ。
そしてその夜、私の淡い希望的観測を裏切って彼は寝室に来なかった。
次の日の夜も来なかった。
「将軍って思った以上に多忙なのね。今夜もまた持ち帰りの仕事に忙しいだなんて」
執事からはそんな理由を昨日今日ともらっていた。だから大きなベッドを悠々と独り占めだ。この先彼がどこかへと出兵した際もこんな風に広々としたベッドに独りなのだろうと想像すれば苦笑とも自嘲ともつかない笑みが漏れた。
寝室から見えるレノックス将軍の書斎の窓には遅くまで明かりが灯っていて、寝付けなかった私は暫く彼の書斎を見つめた。
顔を見たかったけれど、彼は英雄たる護国将軍なのだ。忙しくて当然だ、邪魔をしては駄目だとそう言い聞かせて我慢した。胸中に育つ不安を押し殺して。
しかし不安が的中するように次の日もその次の日もそのまた次の日も、彼の書斎は夜遅くまで明るくて、私は誰もいない寝室の静けさを苦い気分で味わった。
終には一月が過ぎ、さすがにおかしいと思い始めた。
後で考えれば新婚三日寝室に寄り付かなかった時点で違和感に気付くべきだったと悟ったのだが、この時は何分全てが初めての事だらけで頭が回らなかった。初めての事だらけではなかったとしても男女の機微のわからない私におかしいなんて思考を抱かせるわけもなかったんだけれど……。
まあとにかく、一月だ。
さすがにわかる、仕事を理由に避けられているのだと。
私よりも余程わかっていた侍女達は私がショックを受けないよう黙って見守っていてくれたらしい。
落ち込まなかったと言ったら大ウソだ。私にだって姫として、嫁いだ者としての矜持がある。
このままではこの政略的な婚姻の意味がない。
けれど何より私自身がこのままは嫌だった。
食事時以外ほとんど接点のない夫婦なんて御免だし、現状ではこの先夫婦関係が進展などするはずがない。
想い人と誰に咎められる事もなく一つ屋根の下で暮らせて、未婚だ何だと男女の礼節を問題視される心配もないのに、どうしてもっと傍に行けないのか。
彼に近付きたい。
だからその日の私は、募った不満と積もった恋慕が気持ちを奮い起こさせて、珍しくも昼間も屋敷にいた夫に直談判しに行った。
元々の性格的な気恥ずかしさや遠慮なども、ある種の猜疑心の前に薄れていた。
自らで扉を開けて招き入れてくれた書斎の彼は、外出時のようにきっちりロングコートという服装よりはラフな格好でいた。まあ自宅なのだから当たり前だ。上は洗いざらした白いシャツ一枚に下は黒っぽいパンツルックだ。ああ彼はどんな格好でも素敵だわ。
どうやら近いうちに出発予定の討伐の準備に取り掛かっているようだった。討伐に行くのにも案外色々とするべく書類仕事は多いのだ。
大なり小なりレノックス将軍は本当に魔物との戦いの日々に身を投じている。
結婚するまでも、また討伐遠征かとハラハラとして彼の無事な帰還を待っていたものだった。
「討伐準備を邪魔してしまってごめんなさい」
「いや。すまないがもう少しだけ待ってもらえるだろうか、キリのいい所までやってしまいたい。適当に寛いでいてくれ」
「はい」
ただ、私が心配過剰に思える程に彼は淡々とした面持ちで討伐関係だろう書類に目を通し書き込んでもいる。
息巻いて書斎を訪れたものの、そんな彼の姿を見ていたら勢いが萎んで結局はおずおずとした控えめな態度になってしまった。一国の姫として彼の妻としてもっと堂々としていなければと思うのに、これでは駄目だ。
促された応接椅子の上から黙々と仕事をこなす夫の姿を盗み見ながら、魔物との戦いが怖くないのだろうかなどと愚かな疑問が浮かぶ。
怖いだ何だと言っていては国を護る仕事など到底できないけれど、それでも彼も人間なのだしその手の感情があっても不思議ではない。あったとしても幻滅などしない。どうであれ、いつか彼の忌憚のない心の内を聞かせてもらえるようになりたい。
私はいつも彼の味方だと知ってほしい。
だからこそ戦いに赴く彼へと願う。
「……どうか怪我だけはしないで下さいね」
仮に彼が恐怖などなく戦いに臨むのだとしても、私はそれと関係なく彼が傷付くのが怖いのだ。
どうせ聞こえないだろうと思って小さく呟いたら彼がパッと顔を上げた。
ばちっと目が合ってちょっと驚く。
まさか、聞こえたの? 地獄耳?
「何か言っただろうか?」
「あ、ああいいえ個人的なことです」
何だ、声は聞こえたけれど内容までは聞こえなかったパターンか。
誤魔化すように淡く微笑めば、向こうは暫しジッと私を見つめてから「そうか」と何かを書き付けていた手元へと目を戻した。
程なくして一区切りついたのだろう、彼が手を止めて私に話を促した。落ち着いてお茶でも飲みながら彼と話してみたい事は実は沢山あるけれど、ここに来た一番の理由を優先する。
「レノックス将軍は、どうして一度も寝室に来ないのです?」
「……それは済まないとは思っているが、仕事が…」
「それが言い訳なのは私でももう知っています。ですから是非理由を聞かせて下さい」
曲がりなりにも夫婦になったのだ、何もないではレノックス家の存続に関わる。
だからこそ、妻としての義務感もあって訊ねた。
本当はそれ以外の理由が大きい。でもそこは彼に煩わしさを抱かせる私の勝手な願望だから言わないでおく。
「本当に、どうしてなのですか?」
どうして、という責め口調の私の問いに夫は彼自身いつまでも避けてはいられない問題だと思っていたのか、観念したような溜め息を一つ落とすと落ち着いた声音で答えた。
「陛下から結婚の話を頂いた当初から、俺には貴女を形式上以外での妻にする気はないからだ」
「……どういう意味ですか?」
ううん、頭で意味は理解している。でも感情では理解できない。
形式上? 彼は本当に何を言っているのだろう。私って彼の好みの箸にも棒にも引っ掛からないの?
「俺はいつ死ぬかもわからない身だしな。だから貴女を寡婦にするかもしれない。もしもその時に俺との間の子がいたら、再婚に障るかもしれないだろう? 何しろ貴女は高貴な姫だ」
「……だから子供ができるような行為はしないと?」
「そうだ。貴女も白い結婚で結構だろう?」
「そんな、ことは……」
俯いて唇を噛んだ。強い反駁は出なかった。
だって彼の目の奥には温度がない。どこか投げやりで億劫そうな色がある。
拒絶にも似ていた。
私は夫レノックス将軍に絶賛片想い中だ。
けれど悟った。向こうはたぶんこっちを嫌っている。
よくよく考えてみればその可能性は十分にあった。
彼からすれば私などまだ十六の小娘に過ぎず、しかも初対面では侍女から罵倒され追い立てられ矜持が傷付いたに違いないのだ。
申し訳ないと改めて思った。
同時に、全くの脈なしに悲しくも。だから否定の言葉が続かなかったのだ。
ああ、世界一望みのない片想いってこんなにも苦しい。過去を色々と思い返してみたら彼の態度にも合点がいく。
「……レノックス将軍、あの時は本当にごめんなさい」
こんな時だけれど謝っておきたくなって視線だけで彼の方を少し見上げると、向こうも私に視線を寄越した。普段は凛々しい黒い眉を怪訝そうに片方だけ上げて。
「あの時、とは?」
「初めて城の庭で会った時です。水浴びを勝手に邪魔したのは私の方でしたのに、驚いてしまって……。それに侍女達も失礼を……。すぐに謝罪もできずにいましたし……」
「何年前の話をしているんだ。そのような昔の事などもう気にしていないが」
「え、そうなのですか? 私と接する時は表情も硬いですし、思い当たる理由としては妥当なので、てっきり怒ってらっしゃるのかと」
「……元々このような面だから気にしないでくれ。それに俺が怒ると言うのも全然見当違いだな。小さな貴女に泣かれてからは、傷を負うのに気を付けるようになったんだ。それまでは向こう見ずな部分もあったから、大事な気付きを与えてくれた貴女には感謝している」
意外な、ううん意外過ぎる言葉だった。
「なら、私を嫌ってはいないと?」
「嫌う? どうして。理由がない」
彼は不思議そうにしている。少しの驚きも含まれていた。
「そ、うなんですか……」
ようやく気付く。嫌いではないけれど、好きでもないのだろう。
そもそも、こちらを未亡人だ何だと心配しようと、それ以前の問題だ。
「私には、魅力がないですか?」
「え?」
全く微塵も女として見られていないのだ。
きっと彼の中では私は未だ井戸端で会った小さな子供のままなのだろう。
このレノックス将軍と自分がまさか結婚するなど想像もしていなかったけれど、王族として式典などで顔を合わせる機会もあるので少しでも美しく大人っぽく見られたくてこれまで美容には力を入れてきた。
結婚が決まってから正式に嫁ぐまでの日は短かったものの、その間だっていつもの百倍は念入りにした。体型も肌艶も仕種も声の調子さえもこの美しい妻にかかれば歳の差などさもない点だと思ってもらえるように。
なのに、意味がなかった。
どうしたら彼に近付けるのかわからない。
歳の差ばかりは努力ではどうにもできない。
悔しい悔しい悔しい悔しい。
目頭が熱くなる。
「なっ、どうして泣くんだ……?」
さすがに女の涙には弱いのか動揺されたけれど、そんな理由でそうされても嬉しくない。私は涙など要らない道具と無言で涙を拭く。
「泣いていません」
「いやしかし?」
「泣いてません!」
こういう部分が子供なのだと思いつつもキッと睨み付けてやれば、天下の護国将軍は敵わぬ強敵を前にしたようにたじろいだ。
知らずふふっと笑いが込み上げた。
純粋な少しの可笑しさと、――惨めさで。
「姫殿下?」
「殿下なんて付けて呼ばないで下さい」
「では姫様?」
「私はあなたの妻です」
やはり他人行儀に過ぎる。呼ばれる事自体が少なかったけれど、まだそんな仰々しいような呼び方をされるなどとは思いもせず、口元の微笑みが醜く歪んだ。