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十歳の時、あの人と出逢った。
あの人は王城内の裏手の庭のひと気のない井戸の傍らで一人頭からずぶ濡れだった。
当時王城内は茂みの一つに至るまで私の遊び場で、よく侍女達の目を盗んで部屋を抜け出しては隠れんぼよろしく姿をくらませていたので、侍女達は相当手を焼いていたと思う。
あの日も一人で庭に下り、偶然にも彼のいる井戸付近までやって来たというわけだった。
水音に興味を引かれて近付けば、一人の黒髪の青年が井戸を向いて、こちらには背を向ける格好でちょうどザッパンと木桶の水を被っていたのだ。
上半身だけは脱いでいて背中が全部丸見えで、こんな所で半裸になるなんて変な人かもしれないと思った。だけどひと気がないとは言え、昼間から王城の庭で堂々と半裸を晒しているくらいなので刺客や暗殺者ではないのだろうとも思ってそちらの警戒心はだいぶ緩めた。王城勤めの兵士達もよく庭にいるので彼もその一人かもしれない。
それにしても男性のこんな無防備な背を見るのは初めてで、子供ながらに好奇心が湧いていた。
あなたは誰と訊ねようとしたけれど、しかし私はヒュッと息を呑んで絶句した。
近付いた彼の背中は見た事のない程に傷だらけで、古傷は勿論、まだ生傷と言っていい赤い筋も幾つかあったからだ。
痛々しい、と瞬時に思って胸が痛くなった。
彼が何故この場にいたのか、それは久しぶりにここを訪れた彼が王城内兵士達の鍛練に付き合って一汗掻いたからそれを流すためだったとは、この遭遇よりも後で知った事だ。
今にも血が滲み出してきそうな傷を目にして、私は相手の正体を考える前に駆け寄っていた。
芝を踏んで近付く私の小さな足音を察知した彼が即座に振り返った。
そして戸惑ったように瞳を見開いた。
私は彼の顔の造形よりも先に、髪の毛と同じように瞳も黒いんだなと思った。
敢えて言うなら、顔立ちは悪くなく端正で精悍な印象を受けた。
それよりも案の定振り返った彼の胸や腹、腕にも無数の傷が見えて、私は益々胸の痛みが我慢できなくなった。
目が合った拍子に足を止め、感情の走るままに青年を見つめた。
どうしてそんなに傷があるのかを問えばいいのに、痛そうで痛そうで痛そうで言葉が出てこない。
代わりに出てきたのは、嗚咽。
私は気付けば唇を震わせ涙をぽろぽろと零していた。
大小沢山の傷が悲しかった。一つ一つがとても痛かっただろうな、と思ったらもう涙が止まらない。傷の数だけ涙が出てくるような気さえする。
現れた見ず知らずの少女に突然泣かれたせいか、青年は何を思ったか自嘲のような微かな笑みを浮かべると半目を伏せるようにして視線を逸らす。
「悪い、お嬢さん」
お嬢さん呼びなんて新鮮で半ばキョトンとしてしまった。彼はおそらく私を親と一緒に城に遊びに来ていた貴族の令嬢とでも思ったのだろう。
でも何が悪いなの?
全然悪くないと伝えたくてふるふると首を振った。たぶんその意図は伝わったと思う。
「……そ、それ、痛い……でしょう?」
傷を示して泣きべその私の言葉にか、青年がハッとした。
逸らしていた目をまじまじと向けてくる。黒々とした瞳に少年のような好奇心が宿っていた。まるで初めて見る物でも見るみたいに。
どうしてそんなに不思議そうにするの?
疑問を小さな唇に乗せようとしたその時、
「見つけましたよキャロル姫様!」
「姫様ってばまた抜け出して!」
私の姿をようやく見つけた侍女達が遠くから駆けつけてきた。
「ひめさま……?」
呆然と呟いてからハッとした青年が即座に跪く。
動くだけでも傷に障らないかと心配になって、一歩、近付こうとした。
「申し訳ございません!」
しかし、彼の明確な声は私の足をその場に縫い止めるには十分で、一歩も動けなくなった。
駆け付けた侍女達も私の泣き顔と、上半身裸と言ったあらぬ誤解を受けそうな状況に何事かと血相を変える。
「大丈夫ですよ姫様。もう怖くありませんからね」
庇うように抱き締められながら、私は違うと言いたかった。
怖かったからじゃない。
弁解しようとした矢先、
「どこの所属兵かは知りませんが、そのような見苦しい体を晒し姫殿下のお目を汚すとは言語道断です! あまつさえ恐怖を与えるなどもってのほか! 即刻去りなさい! そして今後は二度と姫様のお心を害する事などなきよう、よくよく反省なさい!」
稀に見る物凄い剣幕と厳しい叱責に、責められているわけでもないのに身がすくんだ。
「はっ! 以後肝に銘じます。誠に申し訳ございませんでした」
青年は片膝を突いたまま深すぎる程の叩頭をすると体を拭きもせず手早く傍の石の上に置いてあった上着を羽織った。その他の荷物を小脇に抱えて駆け去っていく。その姿はすぐに茂みの向こうに見えなくなった。
侍女達はほっと胸を撫で下ろしていたけど、私は気が気じゃなかった。だって全面的に誤解なのだ。
「ち、違うの。怖かったのではないの。傷が痛そうで悲しくなったの」
自らの手の甲で涙を拭いながら精一杯そう訴えると、侍女達は困ったように微笑んだ。
「あのような無骨者などわざわざ庇わなくとも宜しいのですよ。全く本当に姫様はお優しいのですから。時には厳しさも必要です」
「本当にそうではなくて……」
一人で姿を隠したりと積極的に行動はできても、誰かと面と向かうと途端に意思表示が控えめになってしまう臆病な自分を、この時程嫌だと思った事はない。
ごめんなさい……。きっと嫌な思いをさせてしまった。
誰かもわからないだいぶ歳上の青年へと、心の中でそう詫びるしかできなかった。
数日後、王国軍が見事に魔物討伐を果たした戦勝記念の凱旋パレードがあり青年の正体がわかったのだけれど、彼は何と討伐軍を勝利に導いた王国の若き獅子レノックス将軍だった。
名前は知っていたけれど、まさか彼がかの将軍だとは思わなかったからびっくりした。もっと強面でイカツイ髭の男性を勝手にイメージしていたけれど、真実の姿は真面目そうな青年だった。将軍だけあって確かに体付きは筋肉質で逞しかったような記憶はあるけれど、ロングコートを着ていると細身に見える。背が高いせいもあるのだろう。
王族席として設けられた通りに面した建物のバルコニーから、立派な黒馬に騎乗する彼を見下ろした。どこか申し訳ない気持ちで。
傍に差し掛かった辺りでふと、彼がこっちを見たような気がしたけれど、気がしただけだろう。周囲へと巡らす視線の軌道上でたまたまぶつかったにすぎない。
王族席でパレード見物をする私の傍に控えていた侍女達はあっと小さな声を上げて気まずそうにしていたけれど、それもパレードから数日も経てばすっかり忘れたようだった。普段からそうそう会う相手でもないというわけで井戸端の出来事などさっさとなかった事にしたのだろう。
でも、私は……。
十も歳上のあの人が気になって、事あるごとに情報を浚って過ごした。
そして、三年も経ってからようやく一通の手紙を出した。
あの日の謝罪をする長くはない手紙を。
手紙と共に自らで青い花を刺繍したハンカチを添えて。
青は私の瞳の色と同じ色だ。まだまだ下手だったけれど少なくとも花には見えたはず。今更何だと鼻で嗤われるかもしれないし、頻繁に出没する魔物の討伐に多忙な向こうが忘れているかもしれないとは思った。こんな物要らないと捨てられるかもしれないとも。
けれど、なけなしの勇気を振り絞って出した。
たとえ捨てられてもいいと思ったからだ。誠意を示したかった。単なる自己満足だったとも言えるけれど。
予想に違わず、向こうからの返信はなかった。
正直に言えばがっかりしたけれど、それでも後悔はない。
それからは季節の節目の式典などで遠目に彼を見かけた。私に興味のないだろう彼を煩わせたくなくて近付いたり話したりはしなかったけれど。
その後も彼の姿を見かける度に仄かな憧れが募った。
それが恋心だと自覚するのは難しい事ではなかった。
しかし、依然として縮められない距離が私とレノックス将軍の間にはあった。
三年後、十六になった私に父王から一つの重要な話がなされた。
「キャロル、お前をフェリックスに下賜する事にした」
国王の執務室に呼び出され最上の茶葉で持てなされ何事かと話を聞けば、カラカラとそんな話をされた。
王女を臣下に下賜、それすなわち降嫁させるという意味だ。
こんな国王命令、青天の霹靂も霞む。
「ええと、フェリックスとは……」
父王が親しげにフェリックス呼びする相手など一人しか思い浮かばない。
「まさかあの、フェリックス・レノックス将軍ですか?」
「左様。あ奴は我が国のために偉大な功績を上げ続けておるが、未だに所帯を持っておらぬ。華々しい救国の英雄の血が後世に継がれないなど嗚呼何と嘆かわしい、とそう思わぬか?」
「は、はいまあ」
「だろうだろう。それ故お前に嫁いでもらいたい。婚姻によって彼を王家に近しい立場に繋ぎ止めておきたいという思惑もある。なのでくれぐれも仲違いなどせぬようにな」
テーブルの下で握りしめた手が震えた。
それがどんな感情だったのか、その時どんな顔をしていたのか、自分でもよくわからない。一国の姫である以上、いつかは王家の駒として誰かに嫁がされると覚悟してはいた。それが彼ではない相手だろうとも。
なのに、どうしてよりにもよって彼レノックス将軍なのか。全くの予想外だ。
十歳も離れているのは別にいい。王侯貴族の間ではそんな歳の差珍しくもない。
ただ、初対面が最悪なのだ。
フェリックス・レノックス将軍。
彼と出逢っておよそ六年、様々な行事で見掛けた。けれど一度たりとも話しかけはしなかったし、話しかけられもしなかった。まあ臣下の方から王族に話しかける行為は王宮の礼儀に反するので、実直と評判の彼が礼儀を乱す真似などするはずもなかった。
フェリックス・レノックスと言えば今や魔物討伐のプロ。
有能な護国将軍として知らない者はない。
若く逞しく礼儀正しく国王の覚えも目出度いとあっては人々からの人気も高い。彼に憧れ、或いは彼の妻の座を欲する女性は多い。
されど、彼はワーカホリックな面もあってか仕事に関係のない女性との接触はしないらしい。
そんな彼へと、何の因果か国王直々の命で私は嫁がされる。
初対面は勿論、一方的な手紙を送ってしまったある意味痛い過去もあり、一体どんな顔をして面と向かえばいいのかわからなかった。
果たして、どんな顔もなんもなかった。
晴れての近距離での対面ではほとんど彼の顔を見れなかった。
発令後なるべく早く結婚しなさい的な父王の取り計らいで、程なくしてレノックス将軍本人が城まで私を迎えに来た。それなのに私は恥ずかしさやら過去のやらかしへの気まずさなどから、馬車の中でもほとんど俯いていたし終始無言だった。
向こうも乗降の際に紳士的に手を貸してくれはしても、話しかけては来なかった。
加えて、父王は渋々了承したらしいけれど、華美を好まないレノックス将軍の意向で結婚式は質素に彼の領地の然程大きくはない教会で行った。列席者はごく限られた親族のみで豪華な宴席もなく、ただシンプルに指輪の交換や宣誓がなされた。結婚指輪や純白のドレスはとても素敵でとても値の張る物だったけれど、そこはレノックス将軍なりの誠意だったのかもしれない。
式では粛々と花嫁の役割をこなした。
夫となる彼が何を考えていたのかは知らない。
誓いのキスは、額に落ちた。
王女のくせにそれらしい威厳もなく、レノックス将軍の目もまともに見れない私にはちょうどよかったのかもしれない。
こうして私は神の名の下、フェリックス・レノックスという男の妻になった。